九条零の不本意なる呪術回想録   作:あいあい

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青い春、紫の執着

 冷え切った湯豆腐を、俺はもはや味覚ではなく義務として飲み込んでいた。隣に座る五条悟からは、好奇心という名の鋭いプレッシャーが絶え間なく放たれている。

 

(……帰りたい。今すぐ異世界転生特典を返納して、実家の安アパートの布団に戻りたい。なんでこんな歩く核兵器みたいな高校生と一緒に飯を食わなきゃならないんだ)

 

 そんな俺の悲痛な祈りを切り裂くように、店の引き戸が再び、今度は叩き壊さんばかりの勢いで開け放たれた。

 

「──零! おったな!」

 

(げっ、また出た!!)

 

 感情知覚が捉えたのは、爛々と燃え盛るような、粘着質な紫色の執着。

 

 そこに立っていたのは、肩で息をし、額に薄っすらと汗を浮かべた禪院直哉だった。彼は店内の光景──俺のすぐ隣で、親しげに身を乗り出している五条の姿──を目にした瞬間、その瞳にドス黒い怒りを宿した。

 

「悟君……! 君、何さらしてんのや。そいつは僕が見つけた獲物やぞ。禪院のモンに手ぇ出すな言うたやろ!」

 

 五条はサングラスを指で弄りながら、心底楽しそうに鼻で笑った。

 

「あはは。君の所有物なんて一言も聞いてないけど? それに、こんな面白い嘘みたいな術式を教えられたら、確認しに来るのが術師の性でしょ」

 

「嘘やない! 零は、僕の動きを『止まっとる』言うたんや。そんな口叩ける奴、この世に……」

 

(……嘘だよ!! 全部パニックから出たデマだよ!! お願いだから、そのハッタリを事実として補強しないでくれ直哉!!)

 

 俺は胃の奥が焼けるような思いで、無言のまま三白眼を直哉に向けた。実際には「もう勘弁してくれ」と懇願するような視線のつもりだったが、直哉の目には、それが格下の騒ぎを冷笑する強者の眼差しに変換されて届いたらしい。

 

 直哉はギリッと奥歯を噛み締め、猛然とカウンターまで歩み寄ってきた。

 

「零、答えろ! 君、何言うたんや。僕を否定したその口で、こいつに何を売ったんや!」

 

(何も売ってない! むしろ売られた喧嘩を買わされてるだけなんだ!!)

 

 直哉の手が、俺の肩を掴もうと伸びてくる。

 

 その瞬間、感情知覚が直哉の焦りと独占欲を過敏に察知した。俺は反射的に、掴まれる恐怖から身を引こうとして、椅子の脚をガタンと鳴らした。

 

 その拍子に、俺の肘がカウンターに置かれたおしぼりのトレイに当たり、それが直哉の足元へ滑り落ちる。

 

「……ッ!?」

 

 直哉は、俺のその無駄のない流れるような無駄な動作を見て、即座に飛び下がった。

 

 彼には、俺が攻撃を予見し、足場を奪うために罠を仕掛けたように見えたのだ。

 

「……ほう、今の動き。直哉の踏み込みに合わせて、重心を崩しに来たね? 君、本当に格闘センスの塊じゃん」

 

(違う! 椅子で滑っただけだ!! むしろ俺の方が転びそうになったんだよ!!)

 

 五条が感心したように声を弾ませる隣で、直哉は屈辱に顔を歪めた。

 

「……またや。また僕の先を行きおった。君には、僕が次にどこへ足を置くかまで、透けて見えとるんか」

 

(見えてない! おしぼりトレイが落ちただけなんだってば!!)

 

 俺は震える指先を隠すため、再びポケットに手を突っ込み、精一杯の冷徹な声(実際には絶望で掠れた声)で言い放った。

 

「……騒がしい。お前たちの『格』の低い争いに、俺の食事を邪魔させるな」

 

(ああああああ! 格が低いって言った! 五条悟と禪院直哉をまとめてザコ扱いした!! 誰か、誰か俺の口にチャックを付けてくれ!!)

 

 一瞬、店内は静寂に包まれた。

 

 五条は口角を吊り上げ、直哉は呼吸を忘れたように俺を見つめている。

 

 二人から放たれる歓喜と執着の色が混ざり合い、視界がチカチクと痛む。

 

「……面白い。直哉、こいつは君には荷が重すぎるよ。九条は僕が東京へ連れて帰る。夜蛾のオッサンも見たら驚くぜ、これ」

 

「ふざけんな! 零は京都におるべき人間や。禪院が、僕が、こいつを……!」

 

(どっちにも行きたくない! 誰にもついて行きたくない!! 俺の平和な京都観光を返してくれ!!)

 

 俺は内心で叫びながら、最後の湯豆腐を、もはや砂を噛むような思いで飲み込んだ。

 

 最強の少年と、最速を自称する少年。

 

 二人の天才から向けられる歪んだ期待という名の重圧に、俺の精神は、既に崩壊の一歩手前まで追い詰められていた。

 

 カウンターを挟んで火花を散らす、呪術界の双璧──となる予定の、最悪に生意気な十六歳二人。

 

 俺の目の前では、五条悟のどこまでも透き通った青い好奇心と、直哉の泥のように粘着質な紫の執着が激突し、物理的な風圧さえ感じさせていた。

 

(……空気、薄い。息ができない。誰か、警察か消防か、いっそ神様を呼んでくれ。スローライフの返品窓口はどこだよ!)

 

 九条零は、内心でのたうち回りながらも、おしぼりを拾おうとして椅子を鳴らしたまま、氷のような静寂を保っていた。その姿は、まるで二人の天才の争いなど、路傍の犬の吠え合い程度にしか思っていない絶対強者のそれだ。

 

「……悟君。君、聞こえんのか。そいつは禪院が預かる。五条家が出る幕やない」

 

 直哉の指先が、いつでも投射呪法を発動できるよう微かに震えている。対する五条は、サングラスを直しながら、欠伸混じりに言い放った。

 

「やだね。君じゃこの謎は解けないでしょ。さっきから零の視線にビビってんじゃん。そんな腰が引けてる奴に、この出汁の味も分からない繊細な逸材は任せられないね」

 

「誰がビビっとる言うたんや!!」

 

(……俺だよ!! 俺が一番ビビってるんだよ!! 二人ともそんなに声を荒らげないで、店主さんが泣きそうな顔してるだろ!!)

 

 九条は、震える手で最後のお茶を飲み干した。

 

 もう、この場に留まるのは限界だった。これ以上ここにいたら、いつ「実はただのパニック野郎です」と口が滑るか分からない。……いや、この特典がある限り、口は勝手に最強の台詞を吐き続けるのだろうが。

 

 俺は静かに席を立ち、カウンターに千円札を数枚置いた。お釣りなどどうでもいい。一秒でも早く、この二人の視界から消えたかった。

 

「……もういい。お前たちの幼稚な縄張り争いに付き合うほど、俺の夜は安くない」

 

(ああああああ! 安くないって何!? 俺、これから寝るだけだよ! むしろ寝かせてくれよ!!)

 

 出口へと向かう俺の背中に、二人の視線が突き刺さる。

 

 直哉が「待てや!」と叫んで手を伸ばそうとした瞬間、五条がその肩を軽く叩いた。

 

「残念、タイムアップ。君はパパにおもちゃ取られちゃったって報告しに行きなよ」

 

「……っ、なんやと!?」

 

 次の瞬間、視界が歪んだ。

 

(えっ、なに!? 目回る!!)

 

 重力が消失し、空間が捻じれるような感覚。

 

 感情知覚が捉える青い色が、津波のように俺を飲み込んだ。

 

 五条悟の術式による、一方的な高速移動だった。

 

 数秒後。

 

 夜風が頬を打ち、俺は自分がどこか高い場所に立っていることに気づいた。

 

 見下ろせば、さっきまでいた京都の情緒ある街並みが、はるか遠く、点のように見える。

 

「……ここ、どこだよ」

 

(待って、俺、今なんて言った? 敬語使えよ俺! 相手は五条悟様だぞ!?)

 

「あはは! 安心しなよ、まだ京都。ちょっと比叡山のあたりまで飛んでみただけ」

 

 隣では、五条が相変わらずケラケラと笑いながら、空中に浮いていた。

 

 彼はサングラスを外し、その宝石のような蒼い瞳で、俺をじっと見つめてくる。

 

「直哉の前じゃ言わなかったけどさ。君、さっきから心臓、ありえないくらい速いよね」

 

(──ッ!? バレた!? 死ぬ、殺される!!)

 

 九条の背中に冷や汗が流れる。

 

 流石は六眼。どんなに表情を殺しても、体内の微かな脈動までは隠せなかったらしい。

 

 しかし、五条の次の言葉は、俺の予想を斜め上に飛び越えていった。

 

「あんなに速く鼓動を打たせて、全身の血流を限界までブーストさせてんの? だからあんな反応速度が出せるんだ。……身体能力を術式じゃなくて、自律神経の制御で底上げしてるなんて、君、本当に狂ってるね」

 

(…………は?)

 

(違う。それはただの『動悸』だ。恐怖で死にかけてるだけなんだよ!!)

 

 五条は、俺の沈黙を図星を突かれた無言だと解釈したらしい。彼は満足げに頷き、俺の肩を組んできた。

 

「気に入った。中途半端な奴の傍にいるより、僕と一緒にいた方が楽しいよ。ねえ、東京に来なよ。傑って奴がいるんだけど、あいつも君を見たらきっと驚くからさ」

 

(傑……夏油傑か。あの闇堕ち予備軍のところへ!? 無理無理無理、死亡フラグが積み重なりすぎて、もはや城が建つレベルだよ!!)

 

 九条は、震える脚を必死に叱咤し、五条の顔を正面から見据えた。

 

 もはや、断るための語彙など残っていなかった。ただ、特典が勝手に、最も最強らしい言葉を選び取る。

 

「……勝手にしろ。お前の底の浅い退屈を、俺が少しは埋めてやれるかもしれんからな」

 

(違うんです。お供します、逆らったら殺されるので。……って言いたいのに!!)

 

「あはは! 最高の返事! 決まりだね、九条零!」

 

 京都の夜空の下。

 

 最強の卵に気に入られてしまった、自称スローライフ希望者の九条零は、内心で絶望の涙を流しながら、東京という名のさらなる魔境へと連行されることが決まったのだった。

 

 一方、一人路地裏に取り残された直哉は、俺たちが消えた空間を、拳を血が滲むほど握りしめて睨みつけていた。

 

「絶対に、許さへんぞ。零は……僕の、唯一やったのに」

 

 十六歳の少年たちの歪んだ執着は、九条のあずかり知らぬところで、さらに深く根を張っていく。




え、これBLじゃないよね?
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