九条零の不本意なる呪術回想録   作:あいあい

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まだ五条は瞬間移動はできないけどね!


邂逅

 視界が強烈に歪み、内臓が数秒ほど遅れて身体についてくるような、不快な浮遊感。

 

 比叡山の頂から一瞬にして景色が切り替わり、俺の視界に飛び込んできたのは、夜の帳に包まれた鬱蒼たる森と、そこに鎮座する古めかしい朱塗りの建築群だった。

 

(……え、なに。ここ、どこ? さっきまで京都にいたよね? すごい高速で山奥の寺みたいなところに移動させられた!? )

 

 九条零は、内心で胃液が逆流するのを必死に堪えていた。急激な気圧の変化とGの負荷で、今にもその場に膝をついて吐き散らしたい衝動に駆られている。

 

 しかし、神様謹製の「表情筋壊死」は、彼の顔を青ざめさせることすら許さなかった。

 

 俺はただ、夜風に髪をなびかせ、着陸の衝撃など微塵も感じていないような涼しい顔で、目の前の石段を見据えていた。

 

「はい、到着。ここが東京呪術高専。僕らのホームグラウンドってわけ」

 

 五条は隣で、まるでコンビニに寄ったかのような軽さで言い放った。彼はサングラスを指先で弄りながら、俺の反応を愉しそうに観察している。

 

(東京……。本当に一瞬で京都から東京に来ちゃったのか。新幹線代浮いたとか喜んでる場合じゃないぞ。ここ、呪術師の総本山じゃん。魔王城の前で内臓がひっくり返った勇者の気分だよ……!)

 

 九条は、震える脚に渾身の力を込めて一歩を踏み出した。

 

 ポケットの中で、手が汗ばんでいる。直哉の名刺がカサリと音を立て、それがまた俺の不安を煽った。

 

 石段を登り切った先、広場のような場所に、一人の人影が立っていた。

 

 黒い高専の制服。特徴的な前髪。そして、細められた瞳の奥に宿る、理知的で、どこか近寄り難い静謐さ。

 

(げっ。出た……。夏油、傑。本物だ。本物の闇堕ち予備軍だ……!)

 

 感情知覚が捉えたのは、五条の「原色のような鮮烈さ」とは対照的な、深く、重く、淀み一つない 「漆黒の静寂」 だった。それは礼儀正しさの裏側に、絶対的な選民意識と危うい正義感を隠し持った、ひどく複雑な色。

 

「おかえり、悟。随分と派手な遠出だったね。京都で暴れてるって報告が入ってたけど……そちらの『お連れ様』が、噂の理由かな?」

 

 夏油の声は穏やかだった。しかし、その視線は鋭く、俺の呪力回路や立ち振る舞いを冷徹に品定めしている。

 

(うわ、めちゃくちゃ警戒されてる! 目が笑ってないよ! 助けて、俺ただの一般人なんだってば! 五条に無理やり連れてこられた拉致被害者なんだよ!!)

 

 九条の内心の叫びを余所に、五条が面白がって俺の肩に腕を回してきた。

 

「そうそう。直哉を泣かせたっていう、例の九条零くん。傑、こいつマジで面白いよ。僕の呪力を『濁る』なんて言いやがったんだ」

 

「……へぇ。君の無下限を前にして、そんな不遜な口が叩ける人間がいるのかい」

 

 夏油の感情が、一瞬にして 「冷徹な殺意」 に近い色へと塗り替えられた。

 

 彼はゆっくりと歩み寄り、俺の目の前で足を止めた。夏油の背後から、彼が従えている呪霊の禍々しい気配が微かに漏れ出し、俺の肌をチクチクと刺す。

 

(ヒッ、怖い! 怖いってば!! その細長い目で睨まないで! 俺、何も悪いことしてないでしょ!?)

 

 九条は極度の緊張から、呼吸をすることすら忘れていた。

 

 だが、その「呼吸の停止」が、夏油の目には 「いつどこから攻撃が来ても即座に対応できる、極限の集中状態」 に映った。

 

 沈黙が流れる。

 

 九条は、自分の指先が恐怖でピクリとも動かないのを幸いに、精一杯の「強者の眼差し」で夏油を見つめ返した。

 

 そして、特典の呪いが、この一触即発の状況を最悪の形にブーストさせた。

 

「……前髪を気にする暇があるなら、その隙だらけの構えをどうにかしろ。お前の後ろに蠢く『家畜』どもの臭い、鼻に突くんだよ」

 

(あああああああああ! 言った! 言っちゃったよ! 夏油のコンプレックスとプライドを同時に踏み抜いたよ俺!! 「家畜」って言った!? 呪霊操術を「家畜」扱いしたのかよ!!)

 

 九条は内心で、自分の口を今すぐミキサーにかけたい衝動に駆られていた。

 

 夏油傑にとって、呪霊を「取り込み、従える」という行為は、自身の魂を削るような苦行の末にあるものだ。それを「臭い家畜」と切り捨てられた屈辱。

 

 夏油の瞳の奥に、本物の火が灯った。

 

「……傲慢だね。悟が気に入るのも分かるよ。でも、言葉の重みは、実力で証明してもらわないと困る」

 

 夏油の手が、呪霊を呼び出す印を結ぼうと動く。

 

 その瞬間、九条の感情知覚が、夏油の「指先から放たれる攻撃の予兆」を、鮮やかな 赤い線 として捉えた。

 

(来る! 真正面、いや、影から這い出してくる何か──!)

 

 九条は反射的に、後ろに一歩、優雅に下がった。

 

 その直後、九条が立っていた場所の地面から、巨大なムカデのような呪霊の顎が飛び出した。

 

「……ほう。僕の呪具ではなく、呪霊の機先を完璧に読んだのかい」

 

 夏油の声に、驚愕の色が混じる。

 

 九条は内心で「死ぬかと思ったあああ!」と叫びながらも、滑った足を誤魔化すように腰を落とし、まるで最初からそこへ逃げると分かっていたかのような動作で、冷たく言い放った。

 

「……お前の『心』に淀みがありすぎる。次を狙う場所が、色となって漏れ出しているぞ」

 

(違う! 感情知覚で見えただけなんだ! 勘違いしないで、俺にそんな超感覚的な戦闘理論はないんだよ!!)

 

 だが、夏油はその言葉を聞いた瞬間、雷に打たれたような顔をして立ち尽くした。

 

 自分の「心の淀み」──非術師への不信感、呪霊を取り込み続ける苦痛。誰にも悟られていないはずの、彼自身の根源的な揺らぎを、初対面の男に一瞬で見抜かれたのだと。

 

「……僕の、心が……?」

 

 夏油の放つ感情が、殺意から、さらに深く、根源的な 「困惑と興味」 へと変質していくのを、九条は絶望的な気持ちで感じ取っていた。

 

 五条が隣で、パンパンと手を叩いて笑う。

 

「ね? 言ったでしょ傑。こいつ、マジで『見えてる』んだよ」

 

(見えてない! 見たくない! 俺、今すぐここから京都に歩いて帰りたい!!)

 

 こうして、東京呪術高専に足を踏み入れた九条零は、開始一分で最強の二人の双方に、決して消えない楔を打ち込んでしまった。

 

 勘違いの連鎖は、もはや九条一人の力では止められない速度で、呪術界の深淵へと転がり落ちていく。

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