この苦痛の連鎖がある『都市』において、理不尽はあらゆる人間の隣にある。
正体不明の命令に縛られ続ける者。親の愛に飢え、自分の感情を見失った者。真摯に美を追求しながら、時代遅れだと一蹴される者。奪う事ばかりを学び、与えることを知ることが出来なかった者。
傍目には理不尽とは無関係そうに見える者であっても、今の俺の記憶にある限り、誰もが理不尽という名の糸に絡め取られ、あがいていた。
まぁ、だから。
結局、最初から分かっていた。
積み上げた努力も、この『都市』においては、一吹きの風で消える砂細工のようなものでしかないと。それが俺のすべてを奪いにくるのは、単に時間の問題だと。
「……」
頬を伝った熱い血が、顎から畳へと滴り落ちる。
い草の緑が、またたく間に赤黒く染まっていく。
足元はとうに覚束ない。視界も白く霞んでいる。
握りしめている刀が、あとどれほど自分の手に留まってくれるのかさえ、もう分からなかった。
「……」
視線の先では、長い黒髪を揺らした彼女が、俺と同じように刀を構えている。
その赤い瞳が、ひどく不安定に揺れている。切っ先を向けたまま、彼女はただ、縋るような、あるいは出口を失った子供のような顔で俺を見据えていた。
……結局、俺は何がしたかったんだろうか。こんなに血塗れになって、途切れそうになる意識を必死に繋ぎ止めてまで。ただ、今の俺に、それを理解する術はないのは分かっているが。
名前も、理由も、積もらせたはずの時間も。理不尽という名の糸は、俺の過去さえも無慈悲に毟り取っていったらしい。
■
「……っ」
視界が、白に塗り潰された。
まるで網膜そのものを焼かれるような強烈な光だった。まぶたを閉じているはずなのに、その輝きは遮られることなく内側へと侵入してきて、瞳の奥をじわじわと灼いていく。逃げ場のない光に意識が引きずり上げられ、頭の奥が鈍く軋んだ。
浮上していく意識は、ひどく不快だった。泥の底に沈んでいたものを、無理やり引き剥がされるような感覚。思考は重く、身体の感覚は遅れてついてくる。
……おかしい。
最初に浮かんだのは、はっきりとした疑問というより、曖昧な違和感だった。
俺は自分の部屋にいたはずだ。
昨晩の記憶を辿る。暗い室内、手元で光るスマートフォンの画面。適当に流していた動画の内容はもう思い出せないが、画面の光に照らされた自分の手と、気づけばそのまま眠りに落ちた感覚だけは、妙に生々しく残っていた。
そこまでは、確かだ。
だが今、背中にある感触は、それと明らかに違う。
柔らかなベッドの沈み込みではない。ひどく硬く、冷たい。触れている部分からじわじわと体温が奪われていくようで、まるで冬の夜に金属板の上へ直接寝かされているような感覚だった。
思わず身体をわずかに動かす。軋むような違和感が背中に広がり、そのたびに冷たさが肌を刺す。
ここ、どこだ……?
ぼんやりとしたままの頭で考えようとした瞬間、不意に喉が動いた。
「……ぁ」
かすれた声が、空気を震わせる。
その瞬間、心臓が強く跳ねた。
耳に届いた声に、強烈な違和感があった。
軽い。細い。頼りない。自分がこれまで聞いてきた声とは、明らかに違う。
一瞬、状況が理解できずに固まる。だが、遅れてその異常が思考へと追いついてきた。
……今の、俺の声か?
信じられないまま、確かめるようにもう一度息を吸い込む。喉の奥に引っかかる違和感が妙に生々しくて、余計に現実味を帯びてくる。
嫌な予感がした。
ゆっくりと、震える手を持ち上げる。
視界の中に入ってきたそれを見た瞬間、思考が止まった。
指が、短い。
関節の形も未発達で、皮膚は不自然なほど滑らかで白い。見慣れていたはずの細かな傷や、日常の中で刻まれてきた痕跡が、一切存在しない。
子供の手だった。
十歳前後──そんな印象が、頭に浮かぶ。
「……は?」
間の抜けた声が漏れる。
理解が追いつかない。
何かの見間違いかと思って、もう一度手を見る。だが、どう見ても変わらない。指を動かせば、それは確かに自分の意思に従って動く。
ゆっくりと視線を下げる。
身に着けているのは、薄くて頼りない白い衣服だった。病院で着せられるような簡素なものに似ている。袖の先から覗く腕も細く、筋肉の張りもない。
自分の体じゃない、という感覚が、じわじわと現実味を帯びていく。
そして少しづつ、今これが、自分の体なんだという事実が、じわじわと押し付けられてくる。
何が起きてるんだ?
誘拐──そんな単語が頭をよぎるが、すぐに引っかかる。こんなふうに身体が変わる理由にはならない。夢、あるいは幻覚。そう思おうとするが、冷たい感触も、喉の違和感も、やけに具体的すぎた。
「っ……?」
そのとき、不意に鼻を刺す臭いが流れ込んできた。
思わず顔をしかめる。
鉄錆のような匂いに、甘ったるく重い腐敗の気配が混じっている。嗅いだことのないはずの臭いなのに、身体が本能的に「危険だ」と拒絶する。
息を浅くしながら、恐る恐る上体を起こす。
視界が揺れる。白い光に慣れていなかった目が、ゆっくりと周囲の輪郭を捉え始める。
そこは、無機質な空間だった。
コンクリート打ちっぱなしの壁。天井を這う配管。生活感は一切なく、ただ機能だけが置かれているような場所。温度すら感じられないほど、冷たい印象を受ける。
自分が寝ていたのは、やはり台の上だった。ステンレス製らしいその表面は冷たく、医療用の設備を思わせる。
視線をさまよわせる。
そして。
何気なく、視線が足元へと落ちた。
その瞬間、思考が止まった。
「……?」
床に、何かがある。
最初は、ただの暗い塊にしか見えなかった。それが、視界に慣れるにつれて少しずつ形を持ち始める。
腕のようなもの。
脚のようなもの。
顔──。
理解したくないのに、理解してしまう。
人間だ。
それも、子供。
小さな身体が、折り重なるようにして床を埋めている。
数が、多すぎる。
一人や二人じゃない。数えようとするだけで、思考が拒絶する。
呼吸が浅くなる。
視線が、一つの顔に引き寄せられる。
知らない顔のはずだった。
なのに、どこか引っかかる。
「っ……」
嫌な予感が、胸の奥で膨らむ。
隣を見る。
同じ顔だった。
さらにその向こうも。
同じ。
同じ。
同じ。
違うのは、状態だけだ。傷の位置や汚れ方、衣服の破れ具合はバラバラなのに、顔だけが不自然なほど一致している。
心臓の音がうるさくなる。
頭が、理解を拒む。
「やめろ……」
思わず声が漏れる。
だが視線が離れない。
どれも同じ顔で、どれもこちらを見ているような気がしてくる。
「やめろって……!」
その瞬間、限界が来た。
「お゛えっ……!」
胃の中のものが逆流し、そのまま床へと吐き出される。酸味と異臭が混ざり合い、さらに吐き気を煽る。
喉が焼けるように痛い。涙で視界が歪む。
荒い呼吸の中、ふと視界の端に揺れるものがあった。
床に広がった液体。
その表面に、何かが映っている。
無意識に、目がそこへ引き寄せられる。
映っていたのは、見覚えのない顔で。
だが次の瞬間、心臓が強く跳ねる。
青い髪、その中に混じる黒髪、まだ幼さが残る顔───さっきまで見ていたものと、まったく同じだった。
「……っ」
かすれた声が震える。
否定したいのに、材料が揃いすぎている。
この手。
この体。
周囲の死体。
そして、この顔。
考えたくない結論が、ゆっくりと形を持ち始める。
俺は──こいつらと同じなのか?
それとも、この中のどれかに、たまたま意識が宿っただけなのか?
分からない。
分かりたくない。
けれど、一つだけははっきりしていた。
ここは、危険だ。
「……っ、逃げないと……」
理由なんて説明できない。ただ、本能的にそう思った。
このままここにいれば、どうなるかなんて考えるまでもない。
震える足で台から降りる。
床は冷たく、そして一部は生暖かかった。視線を逸らしたままでも、それが何か分かってしまうのが嫌だった。
一歩、踏み出す。
ぐに、と嫌な感触が足裏に伝わりかけて、反射的に引いた。
「……っ!」
見下ろすと、すぐ足元に手があった。
あと少しで踏んでいた。
息が詰まる。
できるだけ視界に入れないようにしながら、慎重に足を運ぶ。だが避けきれず、衣服の端や腕がかすめそうになるたびに、全身が強張った。
「早く……」
自分に言い聞かせるように呟く。
出口を探す。
やがて、壁の一角に金属製の扉を見つけた。
あそこだ。
ふらつきながらも、そこへ向かおうとした、そのとき。
――コツ。
乾いた音が、空間に響いた。
足が止まる。
コツ、コツ、と一定のリズムで近づいてくる音は、扉の向こうから聞こえてきていた。
誰かがいる。
理解した瞬間、背筋に冷たいものが走る。
こんな場所に来る人間が、まともなはずがない。
逃げるべきだと分かっているのに、身体が動かない。
音が、扉のすぐ前で止まった。
一瞬の静寂。
そして、空気の抜けるような音と共に、扉が横へと開いた。
廊下から、青白い光が差し込む。
その逆光の中に、一人の男の影が浮かび上がった。
黒いスーツ。整った姿勢。
どこかで見たことがあるような気がしたが、すぐには思い出せない。
男は何も言わず、室内へと足を踏み入れる。
床の惨状には一切反応を示さず、そのままこちらへ向かってくる。
視線が合った。
口元がわずかに弧を描く。
笑っているようにも見えるが、感情が読み取れない。
「……あぁ」
低い声が、静かに響いた。
「目が覚めたみたいだな?」
その声音は落ち着いていて、どこか柔らかさすら感じられるはずなのに、なぜか背筋に冷たいものが走った。言葉の端々に、感情の温度が乗っていないように感じる。
男は数歩こちらへ近づき、足元に転がる死体を避けるでもなく、ただ当然のようにその間を歩いてくる。
ぐちゃり、と湿った音が小さく響いた。
思わず肩が跳ねる。
だが男は、気にした様子すらない。
まるで、そこにあるものを「もの」としか認識していないような歩き方だった。
息が詰まる。
逃げなきゃいけない、という思いは消えていないのに、足が動かない。視線も逸らせない。
男が、すぐ目の前で足を止めた。
見上げる形になる。
整えられた黒髪、無駄のないスーツ、均整の取れた顔立ち。どこかで見たことがある気がするのに、それがどこなのか思い出せない。
ただ、その「見覚え」が妙に引っかかる。
現実でこんな男と会った記憶は、ないはずなのに。
「あぁ、すまない」
男は俺の怯えているであろう表情を見て、微かに微笑みながら右の掌を左胸にあて。
「死体は片付ける時間が無かったんだ」
その仕草すら自然なのに、どこか作り物じみている。演技のように整いすぎている、とでも言えばいいのか。
心臓の音がうるさくて、言葉が頭に入ってこない。その代わりに、考えろ、と頭のどこかが必死に叫んでいる。
どこで見た。
どこで、この顔を──
視線が、男の口元に向いた。
わずかに浮かぶ笑み。
それが、不意に記憶の何かと重なった。
──画面越しに見た表情。
暗い背景。作り物めいた静けさ。淡々とした口調。脳裏に、断片的な映像が浮かぶ。
スマートフォン。
ゲームの画面。
キャラクターの立ち絵。
台詞。
そして──。
「……は」
思わず、息が漏れる。
いや、そんなはずはない。
あり得るわけがない。
だが、一度浮かんだ連想は止まらなかった。
目の前の男の立ち姿と、記憶の中のそれが、少しずつ重なっていく。
声のトーン。
感情の薄さ。
整いすぎた振る舞い。
全部が、妙に一致している。
「……そんな、ことが」
無意識に、後ずさる。
足元の感触に意識が向きかけて、慌ててそれを振り払う。見てしまえば、さっきの光景が頭に焼き付いて離れなくなる気がした。
そんなことを気にしている余裕はないはずなのに、現実感だけが妙に遠のいていく。
違う、と否定したい。
だが、それを否定できる材料が見つからない。
逆に、確信に近づく要素ばかりが、じわじわと揃っていく。
最後に残っていた曖昧な違和感が、音を立てて形を成した。
俺は、これを知っている。
この男を、知っている。
「……リアン……?」
掠れた声で、名前がこぼれた。
口に出した瞬間、それが決定的なものになる気がして、自分で言っておきながら息が詰まる。
男──リアンは、一瞬だけ目を細めた。
ほんのわずかな変化。だが、それは確かに反応だった。
やはり、間違っていない。
そう確信したのと同時に、その事実の異様さが遅れて全身にのしかかってくる。
リアン。
ゲーム──Limbus Companyの中で、『断ち切れない』という章に登場した人物。ラスボスとして立ちはだかる、画面の中の存在。
現実にいるはずがないもの。
それが、今、目の前にいる。
しかもこんな場所で、何事もないかのように立っている。
「なんで……」
言葉が続かない。
問いの形にすらならない疑問が、喉の奥で絡まる。
現実が、理解を拒んでいる。
分からない。何もかもが。
そのとき。
ピピ、と乾いた電子音が鳴った。
びくりと肩が跳ねる。
音のした方を見ると、リアンが手にしていた端末のようなものから発せられているらしかった。
──指令。
脳裏に、ゲームの設定が断片的に蘇る。リアンの所属していた組織──人差し指にて、そこに課せられた絶対のルール。
どこから送られてくるのかも分からない「指令」に、無条件で従うこと。
たとえそれが、どれだけ理不尽で、どれだけ残酷な内容であっても。
「ッ……」
息が詰まり、思わずまた一歩後ずさる。
嫌な想像が、勝手に膨らむ。
もし今の指令が、俺を処理しろ、なんてものだったら。
この状況で、抵抗できるはずがない。
逃げ場もない。
終わる。
そんな考えが、一瞬で頭を埋め尽くした。
だが。
リアンは手元の端末に視線を落とし、数秒の間、そこに表示された内容を無機質に確認した。
画面の光が、その空虚な瞳に冷たく反射する。
確認を終えると、彼は何事もなかったかのように端末をポケットへと収めた。
そして、再び俺を見る。
その表情は、相変わらず穏やかで、その実、何の色も乗っていない。
「どうやら」
静かな声が、死臭の漂う室内に落ちた。
「指令の求めていたものらしいな」
リアンは一度言葉を切り、淡々とした口調で続けた。
「ロウエ。それが、お前に与えられた新しい名だ」
「……ロウエ」
意味も由来も分からない。ただ、頭上のどこからか降ってきた記号。
それを口に馴染ませる間もなく、リアンは迷子に助け船を出すような、洗練された仕草で右手を差し伸べた。
「さぁ、おいで。俺が新しい家まで連れて行こう」
「……い、家?」
「そうだ」
唐突の提案に思わず聞き返してしまう。
……たぶん、リアンの言う『家』とは、『蜘蛛の巣』のことだ。
『断ち切れない』の主な舞台にもなり、良秀が「生きる概念焼却機」として作り上げられ、五本指の悍ましい思惑が幾重にも交差する、あの底知れぬ地獄。
俺は震える喉を抑え、リアンの様子を伺うようにまた口を開いた。
「もし仮に……俺がそれを拒絶した場合は?」
「ふむ……その場合は、また一からやり直すことになる。ただそれだけだろうな」
やり直す。
その短い言葉の意味を、俺は足元に転がる自分と同じ顔をした死体を見て察した。
失敗作として処理され、次の「ロウエ」が造られる。あるいは、俺の意識が消失した後に、また別の何かがこの肉体に詰め込まれるだけ。
「ッ……」
慈しむような響きを含ませながら、リアンの差し出した手は微動だにしない。
まだ、今の状況を何も飲み込めてないし、納得は一欠片もできていない。ただ、その手を取った先には、きっと地獄しか待っていないことぐらいは分かる。だが、拒絶の先に安寧などない。
少しだけ視線を落とせば、床を埋め尽くす「俺」だったはずの肉塊たちが、物言わぬままその答えを突きつけている。ここで彼の手を拒むことは、即座にあの冷たい死骸の山へ積み上げられる一員になることを意味していた。
あぁ、クソ。どれだけ思考を巡らせたところで、最初から道は一つしか用意されていないのだ。
「……分かっ、た。……行くよ」
俺は、仮面のように貼り付いた微笑を崩さないリアンを横目に、その白々しい手を取ってしまった。
幼い子供特有の、高く脈打つ俺の熱を吸い取っていくかのように。指先から伝わるリアンの体温は、驚くほどに低く、硬かった。
誤字・脱字、口調ミスなどがあれば教えて頂けると嬉しいです。
少し駆け足気味の展開になってしまいました。反省。