第1話 相原唯は免許が取りたい
「赤マルのソフト」
いつものおじいさんが、スポーツ新聞をカウンターに置く。唯は視線をさりげなく時計へ走らせた。
まだ間に合う。
「えっと……。番号でお願いします」
「番号で覚えるな。ハートで取れ」
唯は一秒動きが止まった。ハートで?
手じゃなくて? どうやって?
っていうか、早く終わらせてくれないと、バスに間に合わない。
また一時間、免許取りなよと心配されるハメになる。
とりあえず、愛想笑いで頬をひくつかせる。おじいさんは乱暴に白髪頭を掻いた。
「赤いの出してきて」
言われるがままに、赤い箱を並べる。赤いパッケージに薄っすらとマルボロと書いてある。それで、ようやく赤マルの意味がわかった。
おじいさんは、一つを手に取った。
「これ何番?」
「1番です」
差し出された赤マルのソフトを最速でレジに通し、スポーツ新聞の上に置く。
「嬢ちゃんに覚えてもらうより、俺が覚える方が早いわ。そんな物覚え悪くて大丈夫?」
帰っていくおじいさんを見送って、急いでレジ奥へと引っ込んだ。制服を脱いで、バックヤードの端末に番号を打ち込んで、退勤を押す。
「間に合いそう?」
店長の声に、「走ります」とだけ答えて、表に飛び出した。赤マルソフトのおじいさんの軽トラがまだ停まっている。気にせずに走りだす。
バスの出発時間まで、後3分。
堤防まで来たところで、すぐそこにバスが来ているのが見えた。下側の車道を横切って、堤防を駆け上がる。背中のリュックが重い。
「あっ」
唯が堤防を上がりきったところで、バスは鈍い音を立てながら走り出した。手を大きく振るが停まる気配はない。
「あ~ぁ」
眼下に見える一級河川は、夕日を照り返して美しい。鳥でさえ寝床に帰っているのに、私は帰れない。おまけに予備校に間に合わない。
今日もだ。
お母さんに何て言おう。
一時間、人も通らない見知らぬ堤防で、暗い中、次のバスを待つのは嫌だった。次の案は、バイト先に戻って、待たせてもらう。簡単なはずのことなのに、足は動かない。
もう何度目かになる。その度に言われる。
「免許取ったら?」
そんなことわかってる。
田舎では、免許がなければ身動きが取れない。
進学が早く決まった友達は、冬休み中から教習所に通っていた。
要領がいい人はいいよね。じゃあ、私はどうすればいいの。
進学先が決まらないまま三月が終わっちゃった子は、どうすればいいんだろ。
コンビニの店長は、唯が抜けた後、深夜まで店番をしている。学校の先生のように、困ったら助けてくれるわけではない。
だから、どうやって帰るのか、自分で決めなければならない。
「タバコのじじいのせいなのに」
タバコもスポーツ新聞もいつでもどこでも買えるはずなのに、いつも退勤間際にやってくる。
客のせいではないと理性で理解していても、どうしても口には出てしまう。
「悪かったな。乗れよ」
薄暗い中、軽トラが横付けされた。パチンと音がして、車内灯がつく。
タバコとスポーツ新聞のおじいさんだった。
唯は、後ずさった。
なぜ、堤防の上で留まったままでいたのか自分を恨む。
「電車、間に合わねぇぞ」
「だって……、でも、知らない人だし」
幼稚園児だって知っている。知らない人について行っちゃいけません。車に乗るなんてもってのほかだ。
「おぉい! 俺の名前何だっけぇ!?」
突然の大声に、唯は耳を塞いだ。犬の散歩をしていたおじさんが、振り向いた。
「なんで?」
「この子、佐藤マートの新しいバイトなんだけど」
「あぁ! 佐藤マートの。なんや遠くから来てるって?」
全国チェーンの看板の下に、古い文字で「いつもにこにこ佐藤マート」と残っている。おまけに、見知らぬ二人が、自分のことを知っている。その事実にあっけに取られている間に、話は進む。
「そのおっちゃんはな。中島のゲンさんだよ」
「中島のゲンさん?」
オウム返しをする唯に、咥えタバコをしたまま、にかっと笑ってみせる。
中島って、この辺の地名だし。
ゲンさんなんて何人でもいるんじゃないのかな。
祖母の言葉を思い出す。最寄り駅で、村の名前と苗字を名乗れば、住所を伝えなくても、誰かが車で送ってくれると言っていた。まさにそのノリだ。
「送ってもらいな。悪い人じゃないから」
「だぁれが」
唯が拒否する間もなく、助手席側のドアが開いた。
それでも、迷う唯に、ゲンさんが顎をしゃくる。
「後ろ、車くるで」
ヘッドライトに照らされて、唯は慌てて車に乗った。シートベルトを締めるのももどかしく、軽トラが走り出す。一車線しかない堤防を一瞬で走り抜け、川を渡り始めた。
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暗い車内には、助手席に、買ったばかりのスポーツ新聞が広げられていた。慌ててその上に座った唯は、どうにか新聞を尻の下から引っ張り出す。見たこともないような派手な見出し、無精髭に咥えタバコ。正直怖い。
「どこから来てんの?」
ゲンさんの言葉に、唯は返事をしようとして咳き込む。ゲンさんは窓をすかせた。白煙が窓の隙間から外に吸い出されていく。
「市内です」
「遠いなぁ。どうしてまたそんな遠くから?」
しみじみとした声色に、うんざりする。この四月からの一か月で、何度も同じ話をしてきている。
「浪人しちゃったんです」
「そら大変やったなぁ。でも、遠くまでバイトに来る理由にはならへんね」
タバコを口から離し、トントンと灰皿に叩くと、灰が落ちた。灰皿には吸い殻が山盛りだ。
「うちには、予備校に行かせるお金はないって。バイトで補わないといけないって、おか――、母が」
「市内なら、家の近くにコンビニいくらでもあるやろ」
普通なら、ここまで言えば引いてくれるのに、ゲンさんは続きを聞いてくる。車で送ってもらうのに、この先を言うのが代償なんだろうか。唯は小さく首をひねった。
ゲンさんがタバコを吸うと、タバコの先端が赤く燃える。
まぁ、いいか。言って減るものじゃないし。
「母が言うには、「ご近所に何て言えばいいの」「ちゃんとして」なんだそうです。それで、親戚の知り合いがバイトを探してるって聞いて」
ゲンさんが、タバコの煙を勢いよく吐いた。ハンドルを指でトントンと叩く。
「どんくらいかかんの」
「一時間半くらいですね。家から自転車で駅、で、バスです」
車なら、一時間はかからない。雨に濡れることもないし、乗り遅れることもない。そんなことはわかっている。でも、免許がない。
免許は、大学に受かったら取るつもりだった。他のみんなと同じように。
最後まで大学受験を頑張った組は、夏休みを利用して免許を取る。そうなれなかった私は、何が正解かわからないまま――だ。
ゲンさんは、根掘り葉掘り聞いたのに、ふーんと言ったきり黙ってしまった。
途中でバスを追い越し、軽トラは駅に着いた。いつもより少しだけ早い。
「車、えぇやろ」
ゲンさんが片眉を上げて、笑う。唯は礼を言って軽トラから降りた。
外の新鮮な空気を吸って、やっと生きた心地になる。
「赤マルのソフトの番号、覚えたか?」
「1番です!」
笑い声と共に、ゲンさんの軽トラはロータリーを出て行った。
その白い車体を見送る。バスが暗いロータリーに入ってきた。駅なのに、人気はない、駅前商店街だった建物もシャッターが下りていて、薄暗い。
若者はみんな出ていく。
高校を卒業したら、都会の大学へ行く。
私は?
もうわかってる。私は、ここで生きる。
朝から予備校に通う浪人生でもなく、昼間バイトをして、電車で勉強するような適用外の18歳だ。
市内に帰れば、楽しそうな高校生とすれ違う。
私だって、ちょっと前まではあっち側だったのに。
「私だって、免許が欲しいんだよぉ!!」
ロータリーのソテツが「正解」と、揺れた。
取れてないから、困ってるのに。