小走りでコースを横切り、自動ドアから中を覗いた。
頭一つとびぬけたゆるパーマは見えない。
いない。今だ。
さりげなさを装って、自動ドアから侵入し、配車チケットを取った。
今日は学科と実技がセットになったやつだと聞いてある。
キョロキョロしながら待合室を通り抜ける。
優しい誰かに捕まれば、出くわす確率があがってしまう。
階段を上がりながら、唯は一息ついた。
佐々木は、きっと私が浪人生だって知っている。
でなければ、私が正解に固執することを突いてきたりしないはずだ。
何もなければ、佐々木だって嫌なことを言ったりしなかったかもしれない。
受付のおばさんのこと、悪く言っちゃったように聞こえたんだろうな。
でも、――。
そもそも、受付のおばさんが個人情報を漏洩しなければ、よかったのだ。
「世話になってるのに」
ゲンさんの言葉に顔をしかめる。
そりゃあね、受付のおばさんには悪いと思ってる。
でも、佐々木に謝れるかと言えば、謝りたくない。
譲って、お互い様ってところ。
3番教室に入って、唯は立ち止まった。
「お、相原さんだ。やほー」
長い腕を上げて、手を振って来る。
なんで、ここにいるかなぁ。
本当、運が悪い。
唯は心の中で、舌打ちしたのに、佐々木は自分の隣の席を引いた。
立ち止まったままの唯に微笑みかける。おまけに椅子をぽんぽんと叩いた。
もう、逃げられない。
唯は口元を引き締めた。
さっさと終わらせよう。
近寄って、リュックを下ろしながら、隣に座る。
「この間さ」
「言い過ぎたの、ごめんね」
佐々木は小首を傾げて、唯を覗き込む。
先に謝るなんて、ずるい。
「別に」
そっぽを向いて、教則本を開いた。
どこを習うかもわからないまま、読むフリをする。
関わらないでという心の言葉が聞こえたのか、佐々木は隣に座らせた唯をしばし見てから、同じように教則本を開いた。
ほどなく、暑い暑いとこぼしながら、眼鏡が入ってきた。
「お、今日はこの二人かー。佐々木、体調悪いんか?」
「元気でぇす」
「そうか? いつも元気なのが静かだから、心配したわ」
唯は腕を組んだ。
眼鏡が唯を見るから、誤魔化すように腕をさする。
「今日はバッテリー講習だから、この後外に出る。今だけ寒いの、がまんしといて」
唯は曖昧に頷き、学科が始まった。
眼鏡は、部屋を暗くしてスライドを使って説明している。
このままじゃ、私が悪者だ。
何も言えなかった心が重くなる。
悔しいけれど、佐々木は、心が広い。少なくとも、私よりは。
スライドに照らされている佐々木の横顔を見て、唯は膝の上の手を握った。
眼鏡の話は、ちっとも頭に入ってこない。
炎天下の中、背中をじりじりと焼かれながら三人でボンネットを開けた。
眼鏡がやってみせ、振り向いた。
「で、どっちからやる?」
え?
唯にとっては、今の実演が最初の講習みたいなもので、思わず佐々木を見上げる。
「じゃ、佐々木さんから」
ちょっと待って、これ、一人ずつやるやつ?
眼鏡の実演で理解できたのは、繋ぐ順番が重要だということだ。間違えたら何かが爆発するとか言っていた気がする。
喉が上下するのに、唾は飲み込めなかった。
覚えなきゃ!
チャンスは佐々木のする一回。
なのに、佐々木はするりと赤と黒のケーブルを車に繋いだ。
速すぎて、何をどうしたのか、さっぱりわからない。
「じゃ、次は相原さんね」
人懐っこくニっと頬を上げて、両手で赤と黒のケーブルを渡してくる。
渡されたケーブルがズシリと重い。
「あ、えっと――」
やけに喉が渇いて、声がかすれた。
赤いケーブルを握り、片方の教習者のバッテリーを見る。
赤い塗装をされたネジみたいなのを見つけて、安堵した。
なんだ、ちゃんと色分けされてるじゃない。
赤に赤いケーブルを接続し、今度は逆方向の赤に赤を繋ぐ。
今度は、黒だ。だって、これしか残ってないもん。
でも、そんな単純かな。
簡単なら、わざわざ実技までしないはず、なのに、やるってことは、どこかにポイントがあるはず。
黒いケーブルを洗濯ばさみのように開いて、念のために眼鏡を見た。
「教えた通りにやれば、危なくないから」
そうは言うけど、眼鏡が光って表情は見えないし、軽口も言わない。
バッテリーってことは、要は電池でしょ。
輪になるように繋ぐんだっけ。
小学校で習ったはずの回路を思い出す。
赤いケーブルを右から左に繋いだなら、次は左から右で、ぐるっと一周になる。
黒いケーブルを左の車の黒いネジに繋げた。
残りは――。
最後の黒いケーブルを握る。
「電池と電池を繋いではいけません」
担任の声が脳裏に聞こえ、唯は動きを止めた。
「ショート回路――」
ふざけてやった男子が「熱ぃっ!」と涙目になったのを思い出す。
続いて、学科で見た爆発の画像がフラッシュバックする。
今度は、黒につないじゃダメ、なんだ。
じゃあ、どこに?
エンジンルームを見ても、どこにもそれらしい印はない。
でも、繋がなきゃ!
唯の持つ黒い端子が震え、車体に細かくぶつかって音を立てる。
「先生、これ失敗したら、どーなるんだっけ」
「うーん? コンピューターが壊れるかもなぁ。だいたい最近の車っていうのは、便利だけどさぁ」
「爆発しないってよ」
佐々木が隣に立った。唯が見ているエンジンルームを一緒に見る。
「でも、さっき講習で――」
「そのための消火器、大丈夫。失敗しても俺がいる」
「俺もいるぞー」
ほら、と佐々木がにっと笑いながら、一点を見つめる。
唯は、その視線の先を辿った。
何の変哲もない金属だにしか見えない。
黒い端子を握ったまま、眼鏡を見る。
両手を組んで、唯の繋ぐ先がどこか見ている。
「先生がいるなら――」
なんで話をちゃんと聞いておかなかったんだろ。
もう何度目かわからなくなるほど、自分を責める。
黒い端子を握ったまま、エンジンルームの中をあっちこっち探す。
わからない。
首を振ったとき、何かが金属板に落ちる音がした。
水滴が落下した痕を見て、落ちて来た上部を見る。
佐々木だった。
額から汗が伝い、鼻の先に雫となっている。
佐々木は、「暑ぃね」とだけ言って、視線を外さない。
ここ?
もう一度、ただの金属を見た。
恐る恐る、黒い端子を金属に近づける。息を止めた。
信じてみよう。
ゆっくり、黒い端子を金属に繋げた。
何も起こらない。
「あれ? エンジンかからないんだけど?」
「アホか。何聞いとったんじゃ」
急に眼鏡が喋りだし、右の車に乗り込んだ。エンジンがかかる。
「相原、バッテリーが上がった方のエンジンかけてみて」
唯は、サウナのような車に乗り込んだ。すぐに鍵を捻る。
キュルキュルキュル~、ドゥルゥゥ
「ついた!」
車から飛び出すと、佐々木が両手を上げて近づいてきた。
「やったね!」
唯の手の高さに調整するその手に、唯も手を上げてタッチする。
礼を言おうとして、また言葉に詰まった。
急に手を離して、後ろに隠した。
佐々木も気づいたはずだが、何も言わなかった。
またやっちゃった。
「相原は復習しとくように。今日の実技を終わります」
佐々木が先を歩き、後ろを振り返った。唯は駆け寄る。
「いや~、めっちゃ暑かったね」
佐々木は迷うことなく、待合室にある自販機へと進んだ。
エアコンの冷気だけで、身体の内側に溜まった熱気がどうにかなるとは思えない。
唯も、佐々木と並んで自販機のラインナップを見る。
何がいいかな。
炭酸――、でもなぁ。
ジュースは身体に悪い。
緑茶の他、ブレンド茶や水のラインナップを見ても、心が動かない。
唯の隣で、佐々木がコーラを押した。
佐々木が、腰をかがめて、音を立てて落ちて来たペットボトルを覗き込む。
今だ。
「さっきありがと」
佐々木が、こっちを見上げながら姿勢を戻す。
目が、細くなったのを見て、唯は慌てて自販機に視線を戻した。
「何でも言ってよ」
「あは、頼りになるー」
「棒読みだぞ」
佐々木は、今度は声に出して笑った。音を立ててペットボトルの蓋を開ける。
唯は、自販機を眺めたままだ。
「めっちゃ悩むね」
「――、うん」
「思ったの選びなよ」
その思ったが、長い。そういう性格といえばそうだし、迷った末に失敗したと思うことも少なくない。
佐々木は、コーラを一口飲んで、ふぅと、溜息をついた。
「……学部、とかも、さ」
唯が、佐々木を見つめた。佐々木は、開いたままだった口を閉じた。
視線が一瞬、唯から自販機に逃げる。
やっぱり、知ってるんだ。
でも、どうして言ってくるの?
「いや、やっぱ今のなし」
「何それ」
そこまで言っておいて、今さら?
そもそも、そんなことまで言われる筋合いはない。
「自分で選ぶのが、正解だから」
「今さら、正解とか言う?」
佐々木は、ペットボトルの蓋をじっと見つめた。
その顔は硬く、見たことのない真剣な表情をしている。
「……俺は外したけど」
え?
佐々木を見上げると、フと息を吐いて、こちらを見た。
いつもの佐々木だ。
人懐っこい笑顔、ゆるパーマがエアコンに揺れる。
「やっぱ、オレンジにすればよかった」
言って、コーラのペットボトルを振る。遅れて黒い液体が波打った。
「そっち?」
思わず笑う。
よし。決めた。
また自販機に向かう。
ボタンを押せずに、指が止まる。
「えー、俺が後悔してる横で、オレンジ飲むの?」
「そーだよ」
一拍おいて、押した。
音を立ててペットボトルが落ちてくる。
「自分で選んだの」
笑って、ペットボトルを持ち上げる。
佐々木も何も言わずに、軽くぶつけてきた。
ペットボトルの中で、炭酸の泡が上がるのを見たら、自然と顔がほころんだ。