コース内の仮想トンネル前で、減速し、ライトを点ける。
いざ、侵入~。
のろのろ運転で2mもないトンネルという名の小屋を通り抜けようとしたとき、トンネルの屋根から、ハトが路上に降りてきた。
くるっぽ~
頭を前後させながら、悠長に歩き出す。
「先生、ハトです」
「ハトやな」
眼鏡は今日も、どこか眠たそうに答えた。
仕方なく、さらに減速するが、ハトは動じない。
どうしよう。一旦車から降りて、ハトを追い払えばいいのかな。
でも、それっていいの?
こんなこと教則本には載っていないはずだ。
待とうっと。
運転で大事なのは「かもしれない運転」なら、まさにこれは、トンネル出たところで、ハトがいるかもしれない運転だ。
予測できれば、怖くない。
土曜朝の内コースには、どういうわけだかあんなにいるはずの合宿生もほとんどいなかった。
「もう轢いてしまえ」
「えぇ!?」
思わず唯は、眼鏡の顔を見てしまった。眼鏡は大きなあくびをする。
「あいつら、ちょっとボケとるんちゃうか。走ってる車の前にわざわざ降りてきて」
あ、さてはひっかけだな。
ここで「ですよね」って進んだら、危険走行とかモラルとかで、補習になるやつ。
でなければ、何だというのか。
「やだなぁ。ハトって平和の象徴ですよ」
「お前らが、そういうこと言うてるから、のさばるねんで。ほら、進みや」
なに、これ。
もしかして、本気?
進路方向にいるハトを見て、もう一度眼鏡を見た。
眼鏡は顔色一つ変えずに「ほら、早よ」と促してくる。
その時、ハトが飛んだ。
「先生の殺気を感じたみたいですね」
一速に入れて、運転を再開する。
「まぁ、ええわ。今日は急ブレーキ講習や。今度こそ――」
えぇ? 今度こそ何?
っていうか、急ブレーキ講習って何?
外周の直線コース手前で、停車する。
「あそこに青コーンあるのわかる?」
おや、いつもないところに確かにコーンがある。
「青コーンまでに40km出して、次の青コーンになったら、思いっきりブレーキを踏む。それだけやで」
40km。内コースの最速の速さだ。
でも、もう私は内コースで、ピヨピヨ言ってたヒヨコではない。
路上で60kmで、左折できるのだから、簡単だろう。
「はい。わかりました」
「ブレーキは思いっきり踏んでや。じゃないと急ブレーキ講習にならへんから」
思いっきりね。OK。
右足を試しに動かしてみてから、深く頷いた。
「ほな、行こか」
のんびりした口調に従って発進する。いつものように、加速し、シフトを上げる。
「もっとスピード出して」
アクセルを踏み込む、シフトを上げる。
さすがにこのくらいでしょ。だってここ、内コースだし。
「もっとや! コーンまでに40いかんで!」
え? え?
「もっと!」
急ブレーキ講習なのに、これじゃ暴――
「ブレーキ!!」
思いっきり踏んだ。反動で足がじーんとするくらい踏んだ。
ゴムの擦れる嫌な音。
感じたことのない衝撃に、ハンドルを力いっぱい握る。
気が付くと、シートベルトがありえないキツさで、身体を止めていた。
髪が顔にかかる。
「ハァっ」
いつの間にか止めていたらしい息をつくと、反動でしゃくりあげた。
「上手やったで。思い切りええな」
何を言われたのか理解できない。ヒィ、ヒィと小さく息を絶えず吸うのが止まらず、返事ができない。
「怖かった?」
声が出せず、頷いた。反動で、涙がぽたぽたとふくらはぎに落下する。ハンドルから手が離せない。
「怖くて正解やで。いざというとき、急ブレーキを踏めること、こんなに怖いってことがわかればえぇねん」
苦しくて、深く息が吸いたいのに、吸えない。
やっとハンドルを離して、シートベルトをゆるめたいのに、今度は手に力が入らない。
「どら、シートベルト外すで」
眼鏡が腕を伸ばしてきて、シートベルトを外してくれた。身体が緩む。息を大きく吸い、鼻水を啜った。
「ほら、見てみぃ」
眼鏡が、指さした後方には青コーンがあった。
「こんな短距離で止まれたんや。半分はABSのおかげやけど、上手やったで」
うんうんと頷く。
「息できるようになったか? ほな、エンジンかけて、元に戻ろか」
眼鏡に言われて初めて、エンストしていることに気が付いた。
待合室に戻ると、思わず椅子に座りこんでしまった。
膝に力が入らない。
身体に残るシートベルトの衝撃。足裏のブレーキの感触。
大きく身震いし、両腕を手で擦る。
バスに間に合うためには、もう少ししたら出なければならない。
日課のリスニング問題のために、リュックからイヤホンケースを取り出す。が、うまくイヤホンがつかめない。
「今日の分終わった?」
明るい声に、空気が変わる。
「よかったら、一緒に帰らない?」
隣に座り、顔の高さを合わせるために首を傾げるのは佐々木だ。
「え、いや――」
「嫌なんだ?」
「じゃなくて、全然方向違くない?」
たしか佐々木の家は、ラーメン屋より向こうのはずだ。
教習所の送迎バスの最終地点ら辺。
そこから唯の高校に通う人も数人いたが、自転車で一時間強の距離は過酷だと聞いている。
「今日は市内に用事があるから」
伸びやかな声に、ふと時間を計算してしまう。
「そっか」
帰り道で、どんな用事があるのかとか、そういう話はしないでおこう、と決める。
何しろ、夜間講習が終わった後から、市内に行く用事なんてロクなものではない。
飲み会とか、合コンとか、そういうやつだ。
「じゃあ、そろそろ出ないと、だね」
「今日は、駅までの送迎バスに乗らない?」
言葉に驚いて、壁に貼ってある方面別送迎バスの時刻表を見た。
確かに、送迎バスがある。
「気が付かなかった」
「え、本当? 無料だよ」
定期があるから調べる必要がなかっただけだけど、そこは声には出さない。バイトもすぐ裏だし、みんな私が近所の子だと思っているはずだ。佐々木以外は。
「送迎バス知り尽くしてるね」
「そこは、ほら」
架空の眼鏡を直す仕草に、受付のおばさんの眼鏡チェーンが揺れる様子が浮かんだ。
茶目っ気たっぷりに笑う佐々木を見て、さっきまで固まっていた肩の力が、少し抜けた。
「市内からは、どうやって帰るの?」
「そこはまぁ、バスとか」
「バス、来ないのに」
パパは飲み会の後は、代行運転で帰って来る。塾帰りの高校生は自転車だ。
「だーかーら、俺たちは免許がいるんだよな」
「そだね」
実のところ、合宿生は都会の子が多い。だから、免許の必要感が違う。妙なところで、温度感が一致して、はにかんだ。
「で、どう? 一緒に帰れそ?」
「え?」
たまたま行く先が同じなのだから、一緒に帰ろうと誘われていると思っていた。
断るってアリなんだ。
でもまぁ、誰かと一緒なら、急ブレーキを思い出さずに済みそうだ。
「帰るよ」
唯はイヤホンをケースに戻し、立ち上がった。