教室に入った瞬間、唯は足を止めた。
椅子のないフロアに、上半身だけのマネキンが二体置いてあり、その隣で地べたに座る男の膝の上に、女が座っていた。
この部屋、だよね。
始まるまで外にいよう。
トイレに行くふりをして、回れ右をする。
突如目の前に現れた壁にぶつかった。
「大丈夫?」
鼻を擦りながら見上げると佐々木だった。
佐々木も顔を真っ赤にして、目を泳がせている。
「ないわ」
「ないね」
「何が?」
唯と佐々木の間に入ってきた七海が、視線の先を確認する。
「あぁ、合宿カップルだよ」
「合宿カップル……」
「短いアバンチュールをお楽しみ中。セミみたいなもん」
七海はカップルを気にせずに、もう片方のマネキンの隣に近づいた。
「わー、リアルぅ」
パックリ開いた口に指を突っ込む。
「食われるぞ」
佐々木の言葉に、七海が笑う。それで、唯はようやく二人に近づいた。
どうやら、今日はこの五人で緊急救命講習を受けねばならないらしい。
カップルの内、女の方が唯と七海をチラっと見た。
「まぁ君。人工呼吸、ペアになれるかなぁ」
まぁ君は、鼻の下を伸ばして何か返事をしたらしい。唯は、心の耳に栓をしたから聞こえない。七海がおえっと舌を出し、佐々木は、カップルに背を向け、唯と七海と一緒にマネキンを囲むように座った。
「お、揃っとるなー」
眼鏡は入ってくると、カップルを見てから、唯たち三人を見た。
「男女で分かれよかー」
七海が、手を叩いて笑い、佐々木が顔をしかめて立ち上がる。
カップルは最後まで離れがたそうにしていたが、眼鏡に急かされて、女の子が佐々木とトレードになった。
女の子は、唯と七海に一瞥もくれず、まぁ君を見ている。
眼鏡が咳払いをする。
「今日は救命講習や。事故に出くわさない方がえぇけど、万一のとき、救急車が到着するまでのわずかな時間が、生死を分けることがある。できることは大きく三つ、いわゆる心臓マッサージ、そしてAEDと人工呼吸やな」
眼鏡がスライドを動かすと、救急車が到着するまでの平均時間と、心停止時間からの生存率が出て来た。
リアル、だな。
事故に出くわしたとき、一一九に電話するのはできる気がする。
でも、十分たらずの間の行動で、誰かの命や予後が大きく変わるとなれば、怖い。
そんな責任、持てない。
教科書に載っていることをテストするのとは、全然重みが違う。
自分の将来を、自分で責任を持つのは理解できる。
でも、他人の将来だなんて――。
戸惑う内に、眼鏡が心臓マッサージの手本を示した。唯以外の全員が、もしもしカメよと歌う。眼鏡は二分間やってから、手を離した。額に汗をかいている。
「ほな、やってみ」
七海が一番に乗り出し、次にカップルの女の子に譲った。二人で声をかけあって一分ずつやる。
「じゃ、次ね」
唯は、胸の真ん中で両手を重ねた。マネキンのゴムの皮膚の奥に金属の固さを感じる。
「歌うよ~」
七海の声に合わせて、押してみる。が、金属はへこまない。
「もっと強く」
眼鏡の言葉に、力を入れようとして、戸惑った。
空を見つめるマネキンは、口をあんぐりと空けている。そこに生はない。
怖い。
「体重を両手に乗せて、ほれ、イッチニ!」
言われるとおりにやるけれど、びくともしない。
「相原、それじゃ救えへん」
急に寒くなった気がした。
救えない――。
原因はわかっている。
心臓マッサージをやって、失敗するのが怖い。
さっき眼鏡は、心臓マッサージで肋骨が折れることもあると言っていた。
と、いうことは――。
折れた肋骨が、胸に刺さったりしないだろうか。
固くて冷たい金属を感じるように、ヒトの肋骨が折れて、ずぶりと刺さる感触を想像して、身震いする。
「迷ってる間に、死んじゃうよ」
七海を見た。
救急車が来るまで十分しかない。その時間さえ惜しい。
でも、もし、私が最後の一撃を与えてしまったら――。
「もし、まぁ君がこうなったら」
カップルの女の子が、つけまつげをしばたたかせる。
「あたしは、生きて戻ってきてくれるなら何でもする」
まっすぐな言葉に、唯は目を大きくした。
失敗するかもしれないとか、間違えるかもしれないとか。そんなことより先に、「助けたい」がある。
表情のないマネキンの頬を、カップルの女の子が指で撫でる。
「ねぇ。まぁ君」
甘い声色に、マネキンが生きているのかと思った。
「誰がマネキンだ! 誰が!」
向こうの班から、まぁ君の大声が聞こえた。教室がどっと沸く。
笑うと、強張っていた肩が楽になった。
もう一度、マネキンの胸に両手を当てる。
やってみないと、始まんない!
全力で体重を、両手にかける。金属が音を立てて沈んだ。
「できてるよ!」
七海に、続いてカップルの女の子がもしもしカメよと歌い始める。
そのリズムに合わせて、また体重をかける。
ガチャン! ガチャン!
実際に人間が相手で、できるかはわからない。
でも、マネキン相手なら、押せるようになった。
息を切らしながら、唯はマネキンから離れた。
「なんか手首痛い」
手首は熱を持ち、脈に合わせてズキズキと痛む。
汗で前髪が額に張り付き、ひどい見た目になっているはずだ。
それでも、迷っていたときよりは、少しだけましな自分になれた気がする。
「だよねー。これ、救急車が来るまで三人なら三ターンか四ターンしなくちゃだよ」
「マジ無理」
「このマネキン、まぁ君じゃなかったの?」
七海の言葉に、カップルの女の子が笑う。
「まぁ君なら、最初に人工呼吸かな」
「うわぁ、生々しい~」
「はい、そこ。男子チームは真面目にやってるんやから」
眼鏡の言葉に、三人は一斉に口をつぐんだ。男子二人が、数を数えている声と金属音が教室に響く。
「百三! 百四!」
「うわ、あっちは二分交代なんだ」
「タフだね」
唯は、まだ痛い手首を撫でた。
本当に心臓マッサージが必要になったとき、迷わずできるかな。
カップルの女の子とまた話始める七海を見て、唯は、まぁ、いいかと思えた。
七海なら、きっと何でもやってみる。
私はそんなことできない。
でも、私は七海にはなれない。だったら、せめて。
掌を開き、力を込めて握り直す。
迷ってもいいや。
迷っても、やろう。