「今日は自主経路やで」
眼鏡が、地図を広げ、一点を指さした。
唯はその一点を凝視して、シートベルトを指す手前で動かなくなった。
「目的地はここ。途中で口は出さんから、自分で行ってみ」
「とうとう来たかぁ」
「来たで」
溜息混じりの唯に、眼鏡が地図の一点を指で叩いた。
「道は自由、ただし道路交通法を守って」
自分で経路を決めて目的地にたどり着く自主経路なるものがあると、佐々木から聞いたとき、なるべく最後にしたいと言ったのは唯だ。
「えっと――、教習所はどこです?」
眼鏡が、田んぼの真ん中にある建物へと指をずらした。裏には佐藤マートがある。
なるほど、ここが出発地点で、あそこにたどり着くには――。
いつも通っている場所のはずなのに、地図の線は色も温度もなくて、全部同じに見える。
掌に汗をかいてきた。
「ちょっと時間ください」
「えぇけど、先にエアコンかけてもらえる?」
シートベルトをして、エンジンをかけると、生ぬるい風が吹き出した。めくれる地図を押えて、ハンドルの上でもらった地図を指でたどる。
「出たら右、信号を右でしょ。どこ曲がろうかな――」
無難にいつもの道を辿ることにして、三つ目の信号を左折することにしたときには、地図は手汗とエアコンの風でヨレヨレになっていた。
「じゃ、出発します」
「ほいな」
いつも通り教習所を出て、いつも通りの大きな道に出た。
ここから先は、信号を数えればいい。
「相原さんは、方向音痴ってやつ?」
「ですね。降りる階段が逆なだけで、高校でもちょっと迷いました」
「それはかなりやな」
眼鏡がカラカラと笑い、唯も笑った。笑い話にするくらいしか、方向音痴に取柄はない。
「教習所の教官をされてたら、方向音痴の生徒さんにはよく出会います?」
「そうやな。歩くだけでも迷うのに、運転なんてなかなかとはよう聞くわ」
一つ目の信号機を通り過ぎる。
道路沿いには、看板の色褪せた空き店舗が並ぶ。どれも前に見た気がする景色が続くから、信号くらいしか目印にならない。
「でも、目的地まで道を決めるなんて、免許取ったら、毎日普通にすることやで」
眼鏡の言葉に、唯は声にならない音を出した。
だーかーらー、だから自主経路講習が嫌だったんだって!
歩いても目印がわからないのに、車でなんて一瞬だ。見逃す自信しかない。なのに、さらに正論で追い打ちをかけられるとは!
「ですよねー」
頬を引きつらせて、とにかく返事だけでもする。ツッコミをせずに落とされたことは忘れていない。
信号が近づいてきて、通り過ぎた。
眼鏡の左手が、さりげなくアシストグリップに伸びた。
その動きに、心臓が跳ねる。
……え、私、今なにかやらかした?
さっき通り過ぎた信号が二つ目のはず。
けど、もしかして――。
喉が粘つき始めて、唯は頭を小さく振った。
「あのぅ」
「なんや」
「もし、道に迷ったら、教えてくれるんですか?」
「教えるけど、先にちゃんと迷ってからな」
「どういうことです?」
「最初から人に頼ったら、自主経路ちゃうやろ」
「なるほど……?」
ちゃんと迷うということは、ギブアップするということだろう。
車内の時計を見る。
開始して、まだ十分しか経ってない。ギブアップするには早すぎる。
「まだ、ギブアップはしません」
「ほぉ」
次の信号を見つけて、唯は左折の指示器を出した。
「佐々木と対策をしたんですよ」
「どんな?」
「佐々木が言うには、間違えたら、戻ればいいらしいですよ」
眼鏡が「佐々木らしいな」と笑った。減速し、左に何もいないことを確認する。
「でも、どうやって戻るん?」
「そこなんですよね。歩きみたいに、すぐに戻れないじゃないですか」
「せやなぁ」
「そこは、右右右の法則です」
「自分、右折好きやなー。今、左折してるけど」
左に回したハンドルを、元に戻しながら、今、言われた言葉を反芻する。
え? 元に戻るには右だった?
でも、私は最初に左折って決めてて――。
じわじわ不安の波が高くなってくるのを、深呼吸で抑える。
「私、左折するって決めてたんです。だから、間違いじゃ、ありません」
そうだ。私は左折するって決めてた。方向は間違ってない。
ここをしばらく走って、さらに左折して、交差点が来たら右に曲がれば、元の道でしょ。
「さよか」
自分が運転手のとき、信じるのは自分しかいない。
助手席の言葉につられてハンドルを切ったら、きっと怖い。最後に責任を取るのは、自分のなんだから、自分で決めるしかない。
堪えて走るのに、どこにも左折する道は出てこない。
「あれ? あれ?」
「どないしたん」
「左折の道がなくって――」
道はどんどん細くなり、ついには対向車線がなくなった。小さな丘へと上がり始めたころには、他に車もいなければ歩行者もいなくなっていた。
「これは、トラクター用のあぜ道的なやつでは――」
「いやー、速度標識あるから、かろうじて一般道や」
車の両サイドは背の高い夏草がかさかさと擦れ、舗装されているのが奇跡みたいな道だ。
完全に迷ってる。
「迷った?」
「迷ってませんよ。ほら、山側が北なんです。だから、山に背を向けて走れば、元の道になるはずです」
これも佐々木からの受け売りだ。
「でも、これ、山道やんな」
眼鏡が声を震わせながら道の遠くを指さした。一本道が緩くカーブして、あっちの丘の裾まで行くらしい。
「ってことは、真っ直ぐ走ってるのに、方向が変わるってこと!?」
「そーなる」
「まさか、まさかー」
もう迷っているのを隠す気力も消え失せて、大きなため息をついた。
「一本間違えただけで、こんな迷う!?」
「自主経路っちゅーんは、人生やで。どこで踏み外すかわからへん」
「私は踏み外してませんから」
浪人生相手に何てことを言うのだ。
少し怒ると、喉の粘つきは消えた。
「あっちに行ったら、くるっと元に戻るってことですよ。大丈夫大丈夫」
自分に言い聞かせるようにして、農家と農家の間を通ったとき、教習車を見つけた。途端に、眼鏡の「あちゃぁ」という声がした。
「あれ? 誰も乗ってない……ですよね」
減速し、車内を確認した。眼鏡は頭を掻いている。
「大久保先生、また教習車で実家に帰って~」
大きなため息と共に、手で進めと合図される。
「大久保先生? あぁ、角刈りの」
竹刀でも肩に担いで歩いてそうな姿を思い出した。
「いいんですか?」
「ノーコメントやがな」
「でも、勤務中、ですよね?」
「一応、休憩時間ちゃうかな。よく昼飯をご実家で食ってるらしいで」
ほほー。
怒鳴られたことはないけれど、怒鳴る姿しか思い浮かばない角刈りの、意外な一面に、頬が緩む。
「あんな強面の先生が、お母さんのご飯を食べに帰るなんて、ちょっといいですよね」
「仕事終わりに実家に帰ると、嫁さんの目があるでな」
うん?
「どういうことですか?」
「まぁ、相原にはまだ早いわ」
飛び出してくる人も、車も何もおらず、順調に車は山を背にして走り始める。
「大久保先生に今度会ったときに、言うてみたらえぇわ」
「はぁ」
とてもじゃないが、用事もないのに話しかけたい相手ではない。
「わしと一緒だったことは言わんとってな」
迷う前の道に合流し、唯はほっと一息ついた。
「先生、私、元に戻れましたね」
「せやな」
眼鏡が時計を見るのがわかった。時間はとっくにオーバーしているはずだ。
「ほな、続き、行こか」
「はーい」
「相原も、卒業が見えてきたな」
戻った教習所で、教習手帳にぽん、と合格のハンコが押された。
迷った。
でも、自分で行ってきた。
それだけのことなのに、なぜか体が軽い気がする。
田んぼにいたシラサギが突然羽ばたいた。青い空へと上っていく。