「じゃ、ここまで。次は実際に高速やからな」
角刈りの言葉に、生徒たちが一斉に立ち上がる。
唯も立ち上がって、椅子を片付けながら、開いたままの教則本に目を落とす。
高速道路での合流の仕方、車間距離、トンネルでの注意点。
教科書をなぞるだけなら、そんなに難しくない。
問題は、その先だ。
明後日の月曜日には、実際に高速道路を走る。
構内の二十キロが、路上の四十キロになったときでさえ、周りが見えなかった。
百キロなんて、もう風になるしかない。
免許を取っても、高速道路は使わない。そう決めた。
教則本を閉じた。
「相原」
嫌な予感に、リュックを開こうとした手が止まる。
顔を上げると、ホワイトボードの前で角刈りが腕を組んでいた。
思わず、隣にいたはずの佐々木を探した。
佐々木の腕を見て、唯は、小さく息をついた。
よかった。
一対一じゃない。
「はい」
角刈りが三白眼でじっと唯を見ている。
「視力はいくつや」
高速教習だから? なんで私にだけ聞くの?
唯は、角刈りの細い目をじっと見ながら、応える。
「両目共二・〇です」
「お前、浪人生とちゃうかったか?」
返事に詰まった。
そういう話、ここでするかな!?
思わず、教室内を見渡した。
今、教室に残っているのが佐々木だけでよかった。
それにしても――。
角刈りは諦めるつもりはないのか、唯の返事を待っている。
なるほど、教習車で実家に帰っちゃえる人ってことだよね。
「浪人と視力と、何か関わりがありますか?」
なるべく苛立ちを押えたつもりだが、漏れ出てしまったのなら仕方がない。
失礼なことをしかけてきたのは、角刈りだ。
「勉強頑張る人は、目が悪いやろ」
「偏見、ですよ」
目を細めて、頬を意識して上げる。
心に宿った黒い炎が、笑顔になって角刈りへと飛んでいく。
「いいや。真実やろ」
炎は、デリカシーのなさの前に後片もなく消された。
私なら、反論しない。
それが、何の躊躇いもなしにできるってことは、自覚がないタイプだろう。
こうなったら、私も笑顔だけで押収するわけにはいかない。
「先生は、視力いくつなんですか?」
私から質問が来るとは思わなかったのだろう、角刈りは小さな目をしばたたかせた。
「りょ、両目共二・〇や」
「お揃いですね」
「え?」
「一緒ですね。私と」
フフフと笑ってあげる。
皆までは言うまい。
私が勉強してなさそうだと言うのなら、角刈り、お前もや!
角刈りが、わずかに身を引いた。
黙り込み、ホワイトボードに書いた文字を消した。
失礼なことを言ってきたわりに、あっさり終わったな。
こういう人って、しつこいイメージがあるけど……。
まぁ、あっちが黙っている内にさっさと帰ろう。
手早くリュックのチャックを開ける。なのに、角刈りは、唯に黒のマーカーを突き付けてきた。
「ほれ、ここに名前書いてみ」
右手で、ホワイトボードを軽く叩く。
聞こえよがしな溜息をつく寸前、隣で待っていた佐々木が横からマーカーを取ってくれた。
「僕が先に書こうっと」
ゆるパーマをふわふわさせながら、佐々木がホワイトボードに名前を書く。
「どうですか?」
佐々木に反応はなく、角刈りは腕組みを崩さない。
仕方なく、唯は佐々木と離れたところに相原唯と、書いた。
角刈りが唸る。
何? 字が綺麗とか、くせ字とか、言いたいわけ?
佐々木の字は、のびやかでお手本のようなのに、唯の字は角ばっている。
「字はな、性格が出るやろ」
角刈りが、唯の名前を指でなぞる。
「おかしいな。普通は右上がりやねん」
「私も、右上がり、ですよね?」
じゃあ、何。私を普通だと思ってないってこと?
眉が吊り上がるのを、頬を上げるので誤魔化す。
「あかんわ。安心材料が何もない」
その言い方だと、私が不安にさせてるみたいじゃない?
角刈りが、降参だとでも言うように組んだ手をほどき、頭を抱える。
「俺はな、こう見えてもその筋のもんに恐れられてるんや」
でしょうね。とは言わないでおく。
「でもな」
角刈りが真顔になる。
「俺はおまえが怖いわ」
……え?
唯は、反応に困って、ただ角刈りを見返した。
私は喜べばいいの? それとも怒るところ?
今まで、怖いなんて言われたことがない。
「どういうことです?」
「おまえ、補助ブレーキ踏ませたことないねんて?」
今のところ一度もないから、頷くしかない。
たぶん、だけど、皆の話を聞く限り、比較的安全運転のはずだ。
眼鏡と雑談も欠かさないし、悪い生徒ではないだろう。
「高速教習は俺がすることになってるねん」
角刈りは、俯いて、教材を手で集めた。
私の高速教習を指導するのが怖いって、そう言ってるんだろうか。
なんで?
思い切りのいい七海の高速教習の方が怖い気がするけど。
「高速は『右右右』とかないで。曲がるとこないねん」
「知ってますよ!」
「そうか? 『左折すると決めてた』とか言うて、逆走すなよ」
「――、誰に聞いたんです?」
「俺にツッコミはいらんで」
「しませんって!」
吠えるように返事して、肩で息をする。角刈りは、細い目で唯をじっと見た。
「その日は、母ちゃんに会ってから高速教習するわ……」
かーくーがーりーーー。
心の中で、低い声で呼ぶ。
眼鏡との講習内容が、ほぼ筒抜けなのは間違いない。
おかしいのは、それで勝手に怖がられていることだ。
一つずつは、他愛のない話のはずなのに、どうも私の信頼は失墜している。
その筋の方でさえ怖がる角刈りが、恐れるほどに。
「あ、高速教習は僕も一緒だと思うので、よろしくお願いします」
角刈りは、顔を上げて、初めて佐々木がそこにいることに気が付いたようだった。
「佐々木はえぇねん」
「私はよくないってこと!?」
吼えるように聞いた唯を残して、角刈りは逃げるように教室を出て行った。
「なんか大変だったね」
「もう! なんだったの!?」
もう一度叫んで、肩で息をする。
「一回しか教わったことないのに、失礼なやつ!」
「え、一回だけ?」
「そうだよ。坂道発進だけ」
片付けそびれていた教則本をリュックに入れて、勢いをつけて背後へと回した。
「僕、だいたいの先生とまんべんなく教わってるよ」
勢いを止めるのを忘れたリュックが、机に当たった。
「眼鏡ばっかなのは、私だけ?」
「楽しそうだよね」
「楽しいよ。でも、筒抜けって知ってたらあんなに話さなかったのに。無線なのかな」
そういえば、無線講習のとき、どこもボタンを押さなくても、教習車の声は全部王子に聞かれていた。
あの装置を使えば、聞き放題なんじゃないかな?
佐々木があいまいに微笑んだ。
「そこはまぁ、僕らが教官の話をするのと一緒でしょ」
反論できず、黙ってリュックに腕を通す。
「じゃあ、眼鏡は角刈りにめっちゃ私のこと話してるってことか」
背負ったリュックを動かしてから、歩き出す。
「たぶん皆、相原さんのこと、気にしてるんだよ」
皆?
佐々木の顔を見て、受付のおばちゃんを思い出した。
「なんで」
「さぁ?」
階段を下りて、受付の向こうの教官室を見た。
窓越しに、眼鏡が角刈りと話しているのが見える。
たぶん、私の話だ。
怖かったって、言ってるのかな。
失礼な話である。