相原唯は免許が取りたい   作:藍色 紺

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第2話 入校式は現金と共に

 外は、うだるような七月だった。自動ドアが開き、一歩踏み込んだ途端、冷気に汗が一瞬で冷えた。

 唯は、フロアを見渡した。

 教習所に入るのは初めてだ。目の前にずらっと並んだパイプ椅子に圧倒される。気だるげに座る数人の大人。その内の一人と目が合ったが、すぐにスマホへ視線をそらされた。

 

 あ、ここはそういう場所なんだ。

 

 高校を卒業して三か月。唯を子供と見ない視線にようやく慣れてきた。学生服を着ているだけで、困っていたら誰か大人が助けてくれた。今は、初めての場所でも、どうにか乗り切らなければならない。

 

 一つ息を大きく吸って、右奥に見つけたばかりのカウンターに近寄った。奥では忙しそうにモニターを見つめる長い巻き髪の女性がいる。

 

「あの、予約した相原唯です」

 

 気が付いた巻き髪の女性が、お手本のような笑顔でカウンター越しに立った。

 

「相原さん。中島教習所へようこそいらっしゃいました。今日は入所のお手続きですね」

 

 頷くと、用意されていたクリアファイルをカウンターに置かれた。

 

「まずは入所に必要な書類を確認させていただきますね。Webで事前予約していただいているので、マイナンバー記載なしの住民票と、本人確認書類、印鑑、写真が必要です。その後、お支払い方法についてのご説明をさせていただき、本日は入校式と適性検査になります。眼鏡がコンタクトはお持ちでしょうか」

 

 流れるような早口に、唯は、聞き取れなかったとは言えず、とりあえず持ってきた書類をリュックから引っ張りだした。

 

「えっと、住民票っていうのがこれで……、印鑑でしょ、それに……」

 

「お確かめします」

 

 事務的に出された手は、キラキラ光るネイルが施されている。見とれる暇もなく、キャラクターがついた唯のクリアファイルが奪い取られた。

 

「ありません」

 

「え?」

 

「本人確認書か、それに類するものです」

 

「本人、確認、書って、何ですか」

 

「パスポート、マイナンバーカードなどの公的なものですね」

 

「えっと、それって学生証とかですか?」

 

 公的となると、唯が思い当たるのは学校だ。でも、唯の学生証はない。卒業した今、高校の学生証は使えない。

 

 浪人生って説明しないといけないのかな。

 全落ちをこんな場所で公言するなんて。

 罰みたいだ。

 

 胸の前でリュックを抱えた手に力が籠る。

 

「マイナンバーカードは?」

 

「まいなんばー……。あ、あります」

 

 大慌てで財布を開いた。受付は書類を確認し、パソコンをいじる。

 

「確認ですけど、普通車教習ミッションですよね」

 

 唯は返事に詰まった。最初は、いくらか安いオートマというのにしたかった。でも、父親は「車ってのはミッションの4WDでなきゃだめだ」といつも言っている。一度だけ「どうして」と聞いたことがある。「ミッションの4WDでないと山に戻れねぇだろ」と呆れたように言われて、それ以上聞けなくなった。

 SNSでは「ミッション車を探す方が大変」「わざわざミッションにする意味がわからない」と書かれていたが、仕方ない。一足す一は二のように、車というのは、ミッションの4WDというのでなければならない。

 

「はい。ミッションの4WDでお願いします」

 

 微笑みを絶やさない受付の顔が、一瞬こわばったように見えた。

 

「ミッションっと」

 

 カタカタとパソコンに入力される。

 さっきの間は何だろう。

 もしかして、ひっかけだろうか。ミッションですかと聞かれて、オートマですと答えた者だけが、入所式に進めるとか。

 そんなわけないか。でも、受付のお姉さんなら、教習所の受付ならミッションとオートマの違いを教えてくれるかもしれない。

 唯は口を開きかけて、閉じた。

 そもそもMTとかATとか略されるほど社会的に当たり前の言葉なのだろう。だとしたら、口に出すのも恥ずかしいかもしれない。月極駐車場を「げっきょく」と呼んで店長に大笑いされたのはついこの間だ。

 

「では、料金のご説明に移ります。まず入校費――」

 

 ラミネートされた料金表を使って、また受付の怒涛の説明が始まる。けれど、唯はほとんど聞き取れなかった。最後に示されている金額を見て、頭の中が白くなったからだ。

 

 一、十、百、千、万、十万――。

 三十六万円!?

 

 三度桁を数え直して、受付を見る。

 

「えっと、ホームページで見たより高いような……」

 

 受付は、カタカタと音を立ててキーボードを操作し、モニタを唯に向けた。中島教習所のホームページが映し出されていて、料金のページになっている。

 

「同じですよ」

 

 受付の言うように、同じ数字が羅列されていた。唯の息が詰まる。

 

「お支払いは、現金、銀行振り込み、クレジットカード、ローンから選べます」

 

「現金で――」

 

 絞りだすような声を出すのがやっとなのに、受付は頬一つ動かさずに、コイントレーをカウンターに置いた。

 

 唯は、用意してきた銀行の封筒から現金を出してきて、数える。

 手が震える。

 

 こんな金額を自分で払ったことはない。

 初めてバイト代をもらったとき、これで何でも買えると思った。

 なのに、教習所の料金はこれまでの三か月のバイト代を全部つぎ込まなければならない。

 

「やめておきます?」

 

 受付の言葉に、奥にいた恰幅のよいおばさんが振り向いた。

 微笑んだままの受付を見て、唯は首を振る。

 

「今、入らないと、大学生の人たちが来ちゃうので――。毎月の電車代を考えたら、絶対に得だし」

 

 えいやっと思い切って、札束をコイントレーに乗せる。

 奥のおばさんがやってきて、札束を数え始めた。

 

「これ以外に、補習の費用がかかる場合があります」

 

 唯はのけぞった。叫びたいのを堪えて、カウンターにしがみつく。

 

「かかる場合があるってどういうことです?」

 

「必要になれば」

 

「わかりやすくお願いします」

 

「教習内容が一度では習得できず、やり直しになった場合です。各段階で技能試験もありますが、その再試験もそうです」

 

 マニキュアで飾られた爪の先で、補習費用一覧の表が示される。

 

「一回の補習で、五千円――」

 

 堪えどころだ。補習費用は落ちなければかからない。

 

「注意していただきたいのは、入校から九か月以内に終わらない場合は、全額払い直しになります」

 

「払い直し!? 全額!?」

 

 まさか、そんな。情け容赦ない。

 

「ですから、なるべく間を開けずに予約を取ることをオススメします」

 

「予約? 自分で取るんですか?」

 

 これまで公立の学校にしか行ったことがないからか、勉強にお金がかかる感覚もないし、自分で一コマずつ予約を取るのも初めてだ。

 月曜から金曜まで決まった時間に、決まった教室にいれば自動で教えてもらうのとは違う。

 

「でも、払い直しになるなんて滅多にない。――ですよね?」

 

 そう言って欲しい。

 祈るように組んだ両手に力を入れてしまう。受付は、表情一つ変えない。

 

「人によります」

 

 私は?

 試験に受かる。落ちる。

 悪夢だ。

 

 去年までは、考えもしなかった。

 全部落ちる人が、いるのだ。

 一度の受験で三万円。それを何度繰り返しただろう。

 

 無理かも――。

 三十六万もかけて、またあんな思いをするのは嫌だ。

 それなら、夏期講習に通ったほうがマシかもしれない。

 

 早春に出しきったはずの熱が、目頭を熱くし始める。

 もうあんな思いをするのは嫌だ。

 

「へぇ、市内から? あんた佐藤マートのバイトの子?」

 

 大声に驚いて、顔を上げた。眼鏡チェーンがおばさんの顔の縁で揺れる。

 

「はい」

 

「あたしに任せておきなさい。いい? あんたは今から、視力検査に行けばいいから」

 

「今から? そんな急にですか?」

 

「視力は待っても良くなったりしないから、早くいきな。用意してやって」

 

 お姉さんの受付が、カウンターから出て来た。階段へ歩いていき、振り返る。

 

「視力検査はこちらです」

 

「え? え?」

 

 唯はお姉さんとおばさんの顔を交互に見る。

 

「視力検査の後は、適性検査、今日は学科までやるわよ」

 

 おばさんは、現金を掴んだまま、眼鏡の奥でニヤリと笑った。

 

「任せときな、おばちゃんがなる早で取らせてあげるから」

 

 唯は椅子から飛び降りて、頭を下げた。急いで受付のお姉さんの後を追う。

 階段を上りながら、背中のリュックをゆすった。

 

 まさか学科まで今日するとは思わなかった。

 よかった。ちゃんとノートと筆記用具持って来て。

 

 唯は、まだ見たことのない部屋へと、一歩踏み出した。

 

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