いよいよ卒業検定だ。
一番大きな教室に入って、いつもと違う雰囲気に立ち止まった。
佐々木に七海、他の合宿生。騒がしいはずなのに、今日は皆黙っている。
「相原、席はそこ」
眼鏡の言葉に、佐々木と七海の間に座る。
「雰囲気なんか違うね」
「教官が袖捲りしてないしね」
七海の言葉に確かめてみると、今日はネクタイをしてるし、Yシャツのボタンも一番上まで止まっている。
わざと仰々しくしてる、のかな?
だとしたら、その企みは成功だろう。
佐々木は、膝の上に手を揃えたまま、微動だにしないし、七海でさえ、最初の一言以外のお喋りはせずに、教則本を開いている。
そんな二人の間で、唯は小さく肩を回した。
緊張しすぎる方が、よくない。
自分が緊張に弱い自覚があるからこそ、今日は周りに流されずに、マイペースにやるつもりだ。
高速だって乗れたし、自主経路だって何とかなった。
卒検だとしても、やることは同じのはずだ。
ちゃんと見て、ちゃんと確認して、いつも通り走ればいい。
「今日は卒業検定ですから、いつもみたいにアドバイスはありません」
眼鏡の声で、説明が始まった。
いつもの関西弁でもなく、厳しい表情でみんなを見渡す。
「減点方式で採点します。大きいミスは、その場で検定中止となりますので、ご注意ください」
王子の説明が続き、教室の空気がぴんと張る。
その中で、唯は少しだけ安心した。
減点方式なら、全部できなくてもいいってことになる。
多少ミスしても、大丈夫って思おう。
私なら、一発中止みたいな危険運転はしないはずだ。
「特に注意して欲しいのは、この白線や」
角刈りの言葉で、スクリーンに、見慣れた写真が映る。
あ、知ってる。
路上に出てから何度も通った道だ。
「白線、見えるか?」
光に照らされるのもお構いなしに、角刈りがスライドの一部を指さした。
あそこか。
たしかに、ちょっと見えにくい。
「ここで停車して、検定終了や」
はいはい。
最後にそこへ止めればいいんだよね。
第三コースに当たれば、問題なし、だな。
どのコースよりも多く通っている。交通量も多くない。
「白線をまたぐ前に、必ず一時停止すること。消えかけていますが、白線はあります」
その言い方に、唯は少しだけ首を傾げた。
停める場所なんだから、そりゃ停まるでしょ。
「一時停止違反は減点二十点。つまり――」
その先は、もう聞いていなかった。
不合格、ってことだろう。
でも、そんなところで落ちる人、いるのかな。
視線を横にやると、佐々木も七海も真剣な顔でスクリーンを見ている。
みんな、緊張しすぎ。
大丈夫。
こういうときこそ、力を抜かないと。
卒検の後、免許センターで本番の試験があるっていうし、教習所としては、ここで厳しくしておかないと、本番で落ちてしまう人がいるのだろう。
高校の評価にある進学率みたいなものが、教習所にもあるのかもしれない。
「それから――」
眼鏡の声は聞こえているのに、言葉は頭に入ってこない。
代わりに、自分に言い聞かせる。
大丈夫。いける。いける。
流れを、意識すれば高速だって乗れた。
流れと、余裕が大事なはずだ。
大きく息を吸って、ゆっくり吐く。
試験って、いつもそう。問題を難しくしているのは、自分の緊張。
だから今日は、余計なことは考えない。
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すごくいいんじゃない?
くじ引きであたったコースは、第三コース。
慣れた道を、佐々木と七海、眼鏡を乗せて走るだけ。
キープレフトもできてるし、速度もいい、歩行者もほとんどいないし、自転車はいない。
眼鏡でさえいつものお喋りをせず、検定表にペンを走らせる音だけが聞こえる。
シャッと、〇を書いているのが分かる音を聞くたびに、かすかに残っていた不安が消える。
×の音は一度もない。
後ろに乗ってる二人の緊張がうつることもない。
いける。
今度こそ、本当に。
道路が広くなり、停車位置が見えた。
方向指示器を出して、丁寧なポンピングブレーキで、速度を落とす。
白線をまたぎ、指定された場所へ車を寄せる。
停車位置にぴたりと車体が収まった。
やったぁ!
嬉しくて、眼鏡を振り向いた。
眼鏡が息を吸う。
「一時停止違反、不合格です」
サイドブレーキを引こうとしていた腕が固まった。
「え?」
「今の、検定前にスライドで見せたやろ」
眼鏡が硬い表情のまま、溜息をつく。後ろの二人も後を追った。
「何が?」
「白線が消えかけるけど、あるから、必ず一時停止してからまたげって言うたやろ」
記憶の中の、角刈りの短い指が指したスライド、王子の声に、目の前の眼鏡の厳しい視線が重なる。
「そんなん、私知ってるしって顔してたやろ。正解を知ってても、意識せなできへん。わかるか」
唯は声も出ず、ただ一度頷くことしかできなかった。
竜巻のように、高速講習からの自分の気持ちが胸をかき乱す。
補助ブレーキ踏まれたことない。
何度も走ったことある。
第三コースなら余裕だと思った。
卒検なんて、緊張しなければ大丈夫だと思った。
「運転手交代や、次、佐々木」
外に出て、佐々木と場所を代わる。
佐々木は、私を見た。
強張った頬に、佐々木は正しく緊張できてるとわかる。
普段ゆるくしてても、ちゃんとしなきゃいけないときはできる。なのに、私は――。
何か言いかけた佐々木に返事もできず、後部席に座る。
それから、七海の検定もあったはずだけど、何も覚えてない。
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暗い部屋で、灯りもつけずにベッドに横になった。
あれから、バイトに行って、店長とゲンさんにやらかした話を報告した。
「え、卒検って途中で終わることあるの?」
店長の素直な驚きに、笑うしかなかった。
「まぁ、次受かればええやん」
ゲンさんはそう言ったけれど、そういう話じゃない。
蛙の大合唱に、唯のうめき声が混ざる。
佐々木と七海、心配してるだろうな。
誰とも顔を合わせずに走って佐藤マートに逃げた。
二人に会うのは、検定翌日の卒業式で最後になるはずだった。
だから、三人でラーメンに行く約束をしたのだ。
「そんなん、私知ってるしって顔してたやろ。正解を知ってても、意識せなできへん」
「思ったよ! 知ってる道だったもん!」
白線が消えてるなんて、スライドで何度だって教えてもらった。
白線をまたぐときは一時停止。
S字でもクランクでも罠やでって、眼鏡に言われ続けたことだった。
なのに!
正解を知ってるだけじゃ、できない――。
正解が知りたかった。
こうしたら合ってる。間違わない。怒られない。
ずっと〇だったのに、最後のたった一回で中止だなんて――。
不合格でもない。
中止だ。
全否定されてるみたいで、苦しい。
これまであんなに努力してきた。
朝から夕方までバイトしてからの、教習所。
土日は教習所と夏期講習。
「もうヤダ。もう無理」
高速講習までに三年かかった鈴木さんの気持ちがわかる。
こんな恥ずかしくて、悔しいのに、また教習所に行くなんて無理。
どんな顔して、眼鏡に会えばいい?
眼鏡の起こった顔を思い出すだけで、嗚咽を上げそうになる。
いつも冗談しか言わないくせに。なんであんな怒るの?
私のせいだってわかってる。
でも、嫌だった。
正解がいい。正しいのがいい。
間違えたくなんてない。
「自分で選ぶのが、正解だから」
いつだかの佐々木の言葉を思い出して、タオルケットを蹴った。
「自分で選んだのが間違いだったもん!」
緊張しぃだから、緊張しないように装ったのに。
「全部アドバイスだろ。否定じゃないよ。だって、ここ教習所だし、そういうとこでしょ」
両足で、仮想佐々木を蹴る。
夏休みに、教習所に通うことに溜息をついたママにも、応援してくれなかったパパにも腹が立つ。
絶対、免許取ってやる。
それで、大学にも受かってやる!
起き上がって、丸まったタオルケットを抱きしめる。
ここまでは褒められてた。
大筋は合ってるはずだ。
いつもの私らしくいれば――。
緊張しなさすぎもダメ、冷静にその場にあった判断をすること。
慎重に、私の正解を探しさえすれば――。
暗闇の中、スマホが光った。
通知が目に入る。佐々木だった。
「相原の次の卒検、明日の午後に予約入れた」
心配してくれている受付のおばちゃんと佐々木の顔が浮かんだ。
さっきまで蹴っていた顔だ。
卒検まで、唯は一度も予約を入れないままで来ている。
「本当、迷惑かけっぱなし――」
返事に迷っていると、新しい通知がポップアップした。
「明日の午前中、卒業式の後、大阪に帰る」
まただ。
また、私だけ、受からなかった。
七海も、佐々木も、教習所を出ていく。
私だけ、元に戻る。
また、私だけ、田舎に残る。
スマホの灯りに照らされて、唯の目から涙が頬をつたい、枕に落ちた。