「怖いこわい!」
叫びながら、細いハンドルを握る唯の隣で、父親が窓のハンドルを回した。
オイルの匂いが薄れる。
「次、右」
「右!?」
Y字になった道路を、前の車を追いかけて右へとハンドルを切った。橋の下へともぐりこむ。
「さっきのとこ、大雨のときは浸水するから」
SNSで流れてくるゲリラ豪雨で動けなくなる車の動画が、脳内で再生される。
嫌、絶対嫌。
「浸水しない道は?」
「とりあえず一番楽で速い道覚えて」
バイト先までの道を教えてくれるという話で、走り出したのはついさっき。
唯は、ナビを見ればいいと思っていたけれど、父親はさっさと唯の車に乗り込んだ。
今日から、補助ブレーキはない。
余計な話で誤魔化してはくれない父親に、有無を言えず、延々と土手で川を上る。
ここらじゃ、土手を走るのが高速よりもよほど速い。
信号はほとんどないから、高速もかくやの速度を出しているのに、ガードレールはない。少しでもハンドルがブレたら、急斜面を転げ落ちる。運が悪ければ、川までポシャンだ。
なのに、飛び出す歩行者のオプションはついている。
「ジェットコースターより怖いんだけど!」
「左寄りすぎ」
「キープレフトでしょ?」
言う内に、タイヤがアスファルトとは違う感触を伝えて来た。
「草ぁ!」
右にハンドルを切れば、対向車が光の速度で近づいてきて、線を残して通り過ぎる。
手が震えるのに、アクセルを緩められないのは、後ろの車がいるからだ。
さっきから、もう二台の車に追い抜かれている。
いつ対向車がくるかわからない恐怖の中で、追い抜かせてしまう罪悪感が、唯の右足をアクセルペダルに縛り付ける。
「今の若い子は、草って笑うって本当なのか」
「笑ってないし」
父親は、唯の返事を聞かないまま、ラジオをいじりはじめた。流行の曲が車内に流れる。
小さな車には、カーナビもブルートゥースもない。
後続車が曲がっていったのを確かめて、唯はやっと息をついた。
「なんで車探してくれたの?」
「いるだろ」
「もったいないって言われるよ」
「唯が払ったろ」
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免許を取って帰ったその日、仕事から帰ってきた父親は、唯を連れて出た。
着いたのは、車が二十数台並んだ中古車店だった。
「ほら、これ」
父親が指さしたのは、小さな白い軽だった。
フロントウィンドウに、大きく四万円と表示されている。
あ、これなら買える。
唯の表情を見て、父親が店の人を呼ぶ。
実は、教習所を出てから中古車を検索していた。新車がとんでもなく高いから、中古車しかないのに、漠然と怖かった。
壊れても直せないし、どんな車がいいのかわからない。
教習車のようなタイプは高かったし、自分が買うとなるとピンとこなかった。
店の主人は、唯の父親を見て、気さくに何か話しかけた。
「あぁ、こちらが娘さん? 免許取れてよかったね」
知らない店主がなぜ唯が免許を取ったばかりだと知っているのか不思議に思いながら、店主がフロントウィンドウから値札を取るのを見た。
「車検が残ってますから、すぐ運転できますよ」
父親が数枚の書類を唯に見せてくれた。所有者名のところは、全て唯の名前になっている。
私の車を買うために、ここに連れてきてくれたんだ。
なら、どうしても確かめておかなければならない。
店の人と父親の話に割って入るために、唯は小さく息を飲んだ。
「これ、4WD?」
唯の言葉に、お店の人が父親を勢いよく振り返った。
「え?」
父親が、目を丸くして唯を見る。
「ミッションの4WDでなきゃ、ダメなんでしょ?」
だから、教習所でもミッションにしたのだ。ダメだと言われたくなかった。
「――。唯は、山行かないだろ」
山?
あぁ、4WDってのは、パパの車ならってことだったんだ。
じゃあ、この白い車は、私のためにパパが探してくれてたんだ。
何度かこの中古車店に来てくれてたのかもしれない。それなら、店主の話も納得できる。
浪人が決まってしまったときも、バイトを始めたときも、教習所に通うことにしたときも、父親は唯に何も言わなかった。
だから、唯は母親の言葉が二人の気持ちだと思った。
でも、車を選んでくれていた。
唯は、改めて白い車を見た。
大型バイクのタイヤくらいしかない細いタイヤも、見慣れない黄色いナンバープレートも、突然愛おしく見える。
「ありがとう。これにする」
「お、決まりな」
「お支払いは――」
頬をほぐしたお店の人の言葉に、父親は唯を振り返った。
免許が入った財布を唯が開く。
千円札が混じった支払いを、父親は何も言わずに後ろから見ていた。
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「次、左」
父親の声に、唯は瞬きをした。
「え? 土手降りちゃうよ?」
「朝、どこで橋を渡るかだけど、まぁ、時間帯によるから、それは走りながら覚えな。今日は、パパとじゃなきゃ走れない道を教えてやるから」
父親が指さす方へ降りていくと、とうとうアスファルトが切れて砂利道になった。背の高い雑草が回りを囲む中、川へと一直線に進む。
雑草の壁が切れたところには、一車線しかない橋があった。
おまけに欄干もない。
「一方通行なの?」
「んなわけあるか。向こうからも来る」
「じゃあ、どうやって行き違うの?」
「向こうから来てたら、陸で待つ。来てなかったら渡る。それだけ」
無理。そんな無法地帯な。
「ほら、向こうで待ってくれてるから、行こう」
引き返したいのに、後ろにバイクが張り付いた。
泣きたい思いで、狭い橋へと車を進める。
早く渡り終わりたい。
「ここも大雨が降ったら、沈むから」
「沈む橋とかある?」
苦情を言いながら慎重に車を進めるが、途中で釣りをしている人がいた。
ひっかけないように徐行してると、父親は、窓を大きく開けた。
「何が釣れます?」
ちょっとパパ!
「アユとかアマゴですね」
ちょっとぉ!
こっちは、最大限に譲って、逆から落ちそうなのに、のんびり世間話ってどういうこと!?
胃を痛くしながら、どうにか渡り終え、反対側の土手を走り始める。
「まぁ、これでバイトには行けるようになっただろ」
父親はそう言って、視線を川へと向けた。それから、バイト先に着いて、折り返し、家に着くまで、もう何も話しかけてこなかった。
危ないとこだけ、教えてくれたの、かな?
あとは、自分で好きなように組み合わせればいい。
あの橋だけは、絶対渡らないようにしないと――。
釣り好きなパパは、好きなんだろうけどさ。
白い車に、黄色と緑色の初心者マークが目立つ。
今日から、私も好きなところに行ける。