白い車がズラリと並ぶ場所に出て、唯は56番を探す。
今日は初めての技能教習だ。
唯は握りこんだレシート状の紙をもう一度確かめた。
教習所に来るなり、ロビーにある機械にIDカードをかざし、発行した配車券には、やはり56番とある。
合ってるはず。
教習が始まる5分前には、車で待っていることになってる。
何てことはない、学校やバイトと同じだ。
同じはずなのに、なぜか鼓動が早い。何度も出て来たドアを見て、周りを確認してしまう。
ロビーに数人いたはずなのに、同じように教習する人は誰もいない。
せめて、誰か一緒の人がいたらいいのに。
配車された車の横で待つことになっているが、どうにも落ち着かない。
西日が白い車に反射して、まぶしく、汗が頬をつたう。
横というからには、車の側面であることに間違いはないはずだ。でも、前のドア付近もあれば、車の頭でも、後ろでも横といえるだろう。
どこが正解なんだろう。
もし、違うところに立っていたら――。
唯の脳内で、頬に傷を持つ角刈りの教官が、白目の多い目で唯を睨む。
「これのどこが車の隣だぁ?」
教官が、ボンネットを叩く。
「やり直し! 補習だ!」
チャリ~ンと、五千円分の硬貨が落下する音がする。
「相原さん?」
声に頭を上げると、眼鏡の少し眠たそうな教官が立っていた。
「は、はひ!」
噛んだ。
「56号車、相原さん。今日が初めての技能教習だね。よろしく。教官の―」
よかった。立ち位置はあってたみたい。
教えてくれた名前が、脳内で消えた。
「では、まず、乗車前の確認からしましょう。車の前後を回って、障害物や小さな子供がいないか確認しましょう」
教官の後について回る。
「はい。いいですね。では、車に乗りましょう」
迷わず助手席側のドアを開けようとして、咳払いされる。
「運転するんでしょ。相原さんはあっち」
顔を真っ赤にしながら、運転席に収まった。
「あぁ、暑い。早いとこエアコンまでいくよ」
シートベルトをし、サイドミラーとバックミラーの角度を合わせる。
へぇ、こんな風に見えるんだ。
運転席から見える景色は、いつもの助手席とは違った。
「じゃあ、ペダルね。絶対覚えて欲しいのが、真ん中。これは何かわかる?」
「ブレーキです」
学科と教則本で予習復習してある。これなら答えられる。
「正解。迷ったら踏むのは、それ。困ったら踏むのもそれ、とにかく、迷ったら踏む。はい、右足で踏んでみて」
右足に力を込める。とにかく踏む。
「いいですよー。では次、左がクラッチ、右がアクセル。踏んでみて」
教官の声かけでクラッチ、アクセルと踏む。
「優秀~。じゃあ、シフトいこうか。まずニュートラル」
教官が言うようにシフトをぐっと入れる。案外簡単だ。
「じゃあ、エンジンかけようか。そろそろ熱中症になりそうや」
乗り込むときに外気を取り込んだけれど、確かに車内は危険なほどに暑い。
「サイドブレーキOK、それで……ニュートラルになってて」
声を出して確認しながら、一つずつ復習していく。
「クラッチ、ブレーキ、キーを回して」
言われた通り、鍵を回すとエンジンがかかった。
「警告灯を確認」
言いながら教官は、エアコンの風量を最大にした。ぬるい風が吹きつける。冷たい風が出る前に、教官は「じゃあ、進んでみよう。一速に入れて、クラッチをゆっくり離しながら、ゆっくりアクセルを踏んでみて」と言った。
言われるがままに、左手でシフトレバーを操作する。左足でクラッチをゆっくり離しながら――。
「あの、私、足が二本しかないんですけど」
「奇遇やな、わしもや」
ニコリともしない教官が「それで?」と続ける。
「ブレーキ踏みながら、アクセルは踏めません」
「キャンノットやないで、いつだってアイキャン」
うぅん? 言われたことの意味を考える。
「あぁ、キャナットかぁ。あはは」
「発音下手とか言うな。ほらやってみぃ」
教官が手の平を足に見立てて、架空のクラッチ操作をしてくれる。
唯はどうにか真似をしてみた。
車体が揺れる。散歩に行くときの犬のリードのように前へ前へと出ようとする。
「できただろ。ほらアイキャン、ウィーキャン、アクセルを少し踏んで、ゆっくり前に出るで」
のろのろと車は動き始めた。
「アクセルもう少し踏んで」
教官が隣からハンドルを動かしてくれる。アクセルを踏むと車が唸った。
「メーター見て、回転数三千くらいで、二速につなぐ」
教えてくれる通りにクラッチを踏み込み。シフトレバーをガコンっと二速に入れる。クラッチを離しながら、アクセルを踏む。
一瞬、前に出る。
車が死んだ。
「はい、やり直し。サイドブレーキ、ニュートラル」
「ブレーキ、クラッチを踏んで」
教官の後を追ってエンジンをかける。
「一速~、二速~」
のんびり声に合わせて、今度は慎重にクラッチを離しながら、アクセルを踏んだ。
「できたぁ!」
「はい、おめでとう。じゃあ、曲がろう」
「は?」
凄く嬉しかったのは一瞬。
曲がれる自信は全くない。
今まで技能系の科目でいい思いをしたことがなかった。体育も技術も音楽も家庭科も、何もかも技能がつくのは、必死になってもBしかついたことがない。たぶんそれだってお情けのBで、実際のところはCに近かったと思う。
「“は”、ちゃうわ」
「もう少し真っ直ぐ走っていたいな~って」
「人生真っ直ぐ走れるわけちゃうで、紆余曲折あんねん。曲がれんでどーすんの。はい、右へ~」
さっきまでの軽い調子で言われると、つい身体が反応して、右へハンドルを回してしまう。
あれ? 曲がらない。
ママの真似をして、もう少しハンドルを回してみる。
それでも回らない。
「これ、何度くらい回せばいいですか?」
「何度だろうな」
「えぇ!?」
ハンドルを持つ手に力が籠る。手から妙に汗をかいて、滑る。
角度なら分度器で慣れているのに、質問を質問で返してくるとは。
車は、みるみる内にコースの曲がり角まで来た。
「何度なんですぅ!?」
「まわしたいだけまわしてみたら」
「サインコサイン!!」
やけくそで、ぐるぐる回すと、車が急に曲がった。想像以上の激しさで。
「うわぁぁぁ!」
パニックの上のパニック。まさかパニックにも段階があるとは思わなかった。
「ブレーキ踏んで」
「ぶっブレーキどこ!?」
慌ててブレーキを踏むと、車は前のめりに急停車した。
シートベルトが唯の身体を支える。
目をぎゅっとつむる。
「そんなにぐるんぐるん回さなくても、曲がるわ。面舵いっぱ~いか」
助手席の窓についているグリップを掴んで、教官が笑う。
怒鳴られると思っていた唯は、目を薄っすら開けた。
「ほら、エンストした。落ち着いて、エンジンかけ直して」
言われてみると、エンジンは止まっている。
あわあわと、クラッチとブレーキを踏み、車のキーを回す。車が生き返った。
「もっとのんきに運転してみな。そんなに回さなくても曲がるから」
曲がらなかったから聞いたのに……。理不尽。
唇が尖らないように、引き締める。
教官の言う通り、逆方向に向いたままで、車を動かす。
「右へ~」
加減がわからず、最初と最後の三分の一くらいの気持ちで回す。
「曲がりました!」
「曲がるようにできてるから。左へ~」
今度は、コーナーまで来たら、慌てずに曲がれた。
「そんでな。迷ったらブレーキを踏め。困ってもブレーキ、とにかく、迷ったら」
「ブレーキですね!」
「そゆこと」
ぐるっと半周コースを回ったところで、技能教習は終わった。
停車、駐車方法を教えてもらって、教官がクリップボードに何やら書きつけた。
エンストしまくったし、曲がれなかったし、不合格かな――。
「はい、合格。今日は学科受けて終わりね」
やったぁ!
大きくお辞儀をして、スキップしながら階段を上がる。
久しぶりの合格。
迷ったら踏め、困っても踏め、とにかく止まれば事故らない。
覚えた!