「3速に上げて」
クラッチをつないだ途端、車の音が変わった。不穏な気配にアクセルを踏む力が弱まる。車が咳き込むように震える。
「アクセル踏んで」
言われるがままに踏むと、景色がビュンビュン流れた。
メーターは時速25km。
「速すぎません!?」
「自転車に抜かれて、何抜かしとんねん」
教習所の外周。一般道を走る高校生の自転車が、横をすっと抜いていく。
「あっちは見渡す限り田んぼの安全コース、私は鉄の塊。スピードを出すと危険極まりないですよ」
「こんなちんたら走ってたら、路上に出せんわ。はい、キープレフト守る」
心臓をバクバク言わせながら、左側に寄る。
「でも、これ、キープレフトっていうより、キープセンターですよね」
車を道の左側に寄せて走るメリットは、学科で習った。習ったけれど、違和感がすごい。
「今まで、車道の真ん中なんて走ったことないですし」
「センター取ったことないんか。残念やな。野望を持て」
教官っていうのは、みんなこうなんだろうか。緊張を和らげるためか、何だか学校の先生とはかなり違う。
受付のおばさんは、予約管理をしているらしく、宣言通り毎日夜間コースを目いっぱい入れてくれている。唯は予約をせずとも、とにかく夜間一限に間に合うように来ればいい。
ありがたい。
ありがたいけれど。
どういうわけだか、毎回この眼鏡教官に当たる。
「あの道のところで車線変更するで」
「はい。左~」
きたきた!
すぐさま車線後方を確認し、ウィンカーを出す。
「――」
眼鏡が、何か言いたげにこっちを見る気配がする。運転に集中したいのに、気になる。
「何です?」
「ウィンカー出すの早やない?」
「学科で、早めに出すように習いましたけど……」
「それにしてもさぁ、まだ早いですよとかあるやん?」
「ウィンカー出すの好きなんです」
「よくわからん。ウィンカーに好きも嫌いもあるか?」
「よくわからんのはそっちや」と言い返したいのを堪える。
「ウィンカーって、喋るじゃないですか」
「新人類か?」
「曲がりたい方にウィンカー出したら、『こっちね、こっち』って音、するでしょう?」
眼鏡が黙る間に、サイドミラー、後方を確認して、無事に車線変更する。
溜息が聞こえた。
「この仕事、それなりに長いんやけど。そんなん聞いたことない」
ふーん。喋るのに。
左ねって言えば、こっちねこっち。
右ねって言っても、こっちねこっち。
どこにでもありそうな白い車だけど、操作に合わせてエンジンが唸ったり、ウィンカーが喋ったりと、生き物っぽい。
だが、そんなこと主張したら、また新人類と言われてしまう。
唯は黙って、運転する。曲がり角では減速し、二速に落として、また加速する。
「S字いこか。そこ左に入って」
それまで外コースしか走ったことがなかったのに、赤と白の縞模様ポールが大量に立っている内側へと侵入する。
「はい止まって」
行く手には、ポールだらけの曲がり道があった。
なるほど、アルファベットのSの字の道なんだ。
中島教習所のコースは、車道がアスファルトで一段高くなっている。それ以外は芝生だ。
曲がり損ねたら、落ちるってことね。
芝生は、誰にも踏まれたことがないのか柔らかそうだ。
絶叫系に乗ったときのような、足元が覚束ない感覚がする。
唯の顔を見て、眼鏡は大きな笑顔を向けた。
「S字はウィンカー出さなくてえぇよ」
「出したい派なんです」
「ずっと一速で、ほないこか」
じわじわ侵入すると、視界がポールでいっぱいになった。
絶対ぶつけるやつ。
保険のCMが頭によぎる。
「ちょっと大きめに回る気持ちで頭突っ込んで」
ふんふん。
「はい、ハンドル全開、よし入った。入ったら、まだ斜めでもハンドル戻す」
「面舵いっぱ~い」
ついこの間、失敗したばかりの全切りを果たす。
「視線は先。前を見たいやろうけど、見たくても見られへんから、先を見る」
あれ? もしかしてすごく狭い?
「大きめに回れたから、余裕あるで。すいすいーっと行ってみよ!」
一速を半クラでつないで、曲がる。
「今度はあっち見て、さっきと一緒」
どうにかS字を先が見えて来た。
「この先が罠やで」
「罠!?」
「どうか抜けた思って車を真っ直ぐしたら、頭があっちの道路に突き出る。そしたら、仮免一発アウトや、一般道なら事故る。だから――」
車は動いているのに、眼鏡は言葉を渋る。
「溜めずに先言うてくださいよ」
思わずブレーキを踏んだ。眼鏡がニヤリと笑った。
「迷ったら」
「踏めですよ。早く先教えてください」
「しゃーないなぁ。ここでは一時停止が正解やで。左右確認してから頭出して」
やれやれと息をついてから、身体を乗り出して、オーバーリアクションで左右を確認する。
相変わらず、夜間講習は、ほぼ貸し切り状態だ。
「次クランクやったら、無線ね」
眼鏡が怪しく光った。