相原唯は免許が取りたい   作:藍色 紺

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第6話 坂道発進、1mで終わる

「お前かぁ。有名人やな」

 

 バックミラーを確認している私に、初めての教官が言った。

 

「はい?」

 

 返事しながら、サイドミラーを確認する。

 どんな教官に当たっても、問題ないように、指さし、声出しする。

 

「夜間講習前に、コース横切ってるやろ」

 

 低い声に、思わず謝ってしまう。

 夢にまで出た角刈り、白髪、日焼け。ザ・教官だ。無難にやり過ごしたい。

 

「謝れって言うてるんやないわ。有名やって言うてんねん」

 

「はぁ」

 

 何を期待されているのかわからず、教官の指示通りに外コースに出る。

 

 佐藤マートは、教習所の裏にある。バイトが終わってから夜間講習が始まるまでの間は、10分。

 間に合わせるなら、教習所の周りをぐるっと走らなければならない。

 真夏、青々とした田んぼの中を走るのはつらい。

 蚊柱に汗だくで突入した結果、遅刻でおばちゃんを怒らせるのだけは避けたい。

 

 腰高のフェンス越しに、なんど「乗り越えたら早いのに」と思ったことだろう。コンビニを作るなら表に作ったら、よほど売れるはずだ。とも思った。どうせ土地は有り余っている。

 そして、赤マルに話しかけられた日、とうとう唯は乗り越えた。

 以来、コースを横切らない日はない。

 

「お前が横切るせいで、合宿生が横切りよる」

 

「なるほど……。それが私のせいだと?」

 

 とうとう大学生の夏休みが始まったらしい。

 閑古鳥が鳴いていた教習所は、大学生で溢れるようになった。

 今も、車が、何台もコースに出ている。

 

「そんなんちゃうわ」

 

 なぜか溜息をつかれた。

 

「今日は坂道発進を教えたる。そこ左折」

 

「後方安全確認ヨシ! ウィンカーヨシ!」

 

 何を言われているのかわからないまま、魔の内コースへ入る。

 この先には、S字とクランクがある。

 

「入ったらすぐ右折やで」

 

「後方確認ヨシ!」

 

 S字に入らないでいいとなったら気分がいい。早速右折した。

 

 ででーん

 

 目の前にそびえる山

 

「こんな坂あります?」

 

「あるがな。目の前に」

 

 いやいやいや、こんな急な坂、滅多とないでしょ。

 ツッコミを入れたかったが、今日の相手は眼鏡ではない。角刈りだ。

 

「上って」

 

 一速のまま、アクセルを踏む。

 

「停まって」

 

 登坂の真っ只中で、教習車を止めた。ブレーキを渾身の力で踏む。

 

「サイドブレーキを引く」

 

 サイドブレーキも、ありったけの力で引いた。

 

「説明するで。まず半クラからアクセルに繋げる。で、車がちょっと前に動いたら、サイドブレーキを下ろす」

 

 唯は復唱して、何度も頷いた。

 

「1m下がったら不合格や」

 

「えぇぇ~、不合格ぅ?」

 

 言ってから、口を押えた。高校生のノリが通用する相手ではない。

 怒鳴られると思ったが、角刈りは細い目で、唯を見ているだけだった。

 

「後ろに車がおったら、1mも下がったらぶつかるで。できるようになっとらな、仮免は出されへん」

 

 なるほど。後続車がいると思って練習すればいいのか。

 

 胃が冷たく凍りつく。

 

 脳内でたやすくイメージできる。

 

 焦りまくり、ブレーキもサイドブレーキも、引きちぎれるほどに使うのに、情け容赦なく車が下がる。後続車がクラクションを鳴らして警告する。

 努力の甲斐なく後ろとぶつかる。

 へこむバンパー、ボンネットが開く。煙がブシューっ!

 怒鳴って出てくるのは、角刈りだ。

 

「やってみて」

 

「な……、何をさせようっていうんですか」

 

 絞りだすような声に、角刈りがこっちを振り向いた。唯も角刈りを見る。

 

「何って……。坂道発進の練習や」

 

「うぅぅ――」

 

 脳内の事故がぬぐえないまま、唯は角刈りの声に応じて、半クラを繋ぐ。

 車体が前に出た。

 

「今動いたやろ。こうなったら、車が前へ進む準備ができたっちゅーことや。半クラを維持しながら、サイドブレーキを下ろしぃや」

 

 頷く唯の顎から、汗が一滴落ちる。

 サイドブレーキを下ろした瞬間、

 車は坂道を上り――。

 

 プスン! するするする~

 

「あぁぁ!! ぶつかるぶつかる!!」

 

「ブレーキ!」

 

 すがりつくようにブレーキを踏み込み、サイドブレーキを引く。

 

「今、何mですかね!?」

 

「知らん! それより、エンジンかけぇ」

 

 不合格と言ったはずなのに、角刈りはもう一度チャレンジしろと言う。

 

 心の中で、唸りながら、唯はもう一度同じ手順を繰り返した。

 しかし、またエンストしてしまう。

 

 もう車は、坂道を半分以上落ちている気がする。絶対、不合格のはずなのに、角切りはもう一度と言う。

 

「何台くらい、玉突き事故させましたかね」

 

「どういうこっちゃ。それより、もう少しアクセル踏んでみ」

 

 脳内では、大事故になっているというのに、アクセルを吹かさせてどうしようというのだろう。

 他の教習車は、昨日、今日始めたばかりだから、外コースをまわっている。内側にいるのは唯だけだ。

 見知らぬ誰かの一歩先行く先輩でありたかったのに、騒々しくアクセルを吹かせるのは、イメージがだだ崩れだ。

 

 仕方ない。

 見知らぬ誰かより、目の前の免許。

 

 目を閉じて、大きく息を吐く。

 もう一度目を開いた。

 

 半クラを繋いで、アクセルを多めに踏む。

 車が元気に返事をして、唯の背をぐっと押した。

 

 サイドブレーキを下ろすと、車は、坂道を上がり始めた。

 

「その調子やで」

 

 ゆっくりと、だが、力強く、白い教習車が坂道を上りきった。

 背を引っ張る重力から解放される。

 

「おめでと。登頂やな」

 

「ふは……、できた」

 

 ハンドルを握ったまま、唯が声を出さずに笑った。

 夕日が一面の田んぼに反射して、世界がきらめいて見える。

 

「ほな、ゆっくり降りて、もう一回な」

 

「はぁぁ!?」

 

「言うとくけど、オートマやったら坂道なんか怖ないで」

 

 また、オートマか!

 

 叫びたかったのは我慢した。相手は角刈りだ。

 

 

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