「お前かぁ。有名人やな」
バックミラーを確認している私に、初めての教官が言った。
「はい?」
返事しながら、サイドミラーを確認する。
どんな教官に当たっても、問題ないように、指さし、声出しする。
「夜間講習前に、コース横切ってるやろ」
低い声に、思わず謝ってしまう。
夢にまで出た角刈り、白髪、日焼け。ザ・教官だ。無難にやり過ごしたい。
「謝れって言うてるんやないわ。有名やって言うてんねん」
「はぁ」
何を期待されているのかわからず、教官の指示通りに外コースに出る。
佐藤マートは、教習所の裏にある。バイトが終わってから夜間講習が始まるまでの間は、10分。
間に合わせるなら、教習所の周りをぐるっと走らなければならない。
真夏、青々とした田んぼの中を走るのはつらい。
蚊柱に汗だくで突入した結果、遅刻でおばちゃんを怒らせるのだけは避けたい。
腰高のフェンス越しに、なんど「乗り越えたら早いのに」と思ったことだろう。コンビニを作るなら表に作ったら、よほど売れるはずだ。とも思った。どうせ土地は有り余っている。
そして、赤マルに話しかけられた日、とうとう唯は乗り越えた。
以来、コースを横切らない日はない。
「お前が横切るせいで、合宿生が横切りよる」
「なるほど……。それが私のせいだと?」
とうとう大学生の夏休みが始まったらしい。
閑古鳥が鳴いていた教習所は、大学生で溢れるようになった。
今も、車が、何台もコースに出ている。
「そんなんちゃうわ」
なぜか溜息をつかれた。
「今日は坂道発進を教えたる。そこ左折」
「後方安全確認ヨシ! ウィンカーヨシ!」
何を言われているのかわからないまま、魔の内コースへ入る。
この先には、S字とクランクがある。
「入ったらすぐ右折やで」
「後方確認ヨシ!」
S字に入らないでいいとなったら気分がいい。早速右折した。
ででーん
目の前にそびえる山
「こんな坂あります?」
「あるがな。目の前に」
いやいやいや、こんな急な坂、滅多とないでしょ。
ツッコミを入れたかったが、今日の相手は眼鏡ではない。角刈りだ。
「上って」
一速のまま、アクセルを踏む。
「停まって」
登坂の真っ只中で、教習車を止めた。ブレーキを渾身の力で踏む。
「サイドブレーキを引く」
サイドブレーキも、ありったけの力で引いた。
「説明するで。まず半クラからアクセルに繋げる。で、車がちょっと前に動いたら、サイドブレーキを下ろす」
唯は復唱して、何度も頷いた。
「1m下がったら不合格や」
「えぇぇ~、不合格ぅ?」
言ってから、口を押えた。高校生のノリが通用する相手ではない。
怒鳴られると思ったが、角刈りは細い目で、唯を見ているだけだった。
「後ろに車がおったら、1mも下がったらぶつかるで。できるようになっとらな、仮免は出されへん」
なるほど。後続車がいると思って練習すればいいのか。
胃が冷たく凍りつく。
脳内でたやすくイメージできる。
焦りまくり、ブレーキもサイドブレーキも、引きちぎれるほどに使うのに、情け容赦なく車が下がる。後続車がクラクションを鳴らして警告する。
努力の甲斐なく後ろとぶつかる。
へこむバンパー、ボンネットが開く。煙がブシューっ!
怒鳴って出てくるのは、角刈りだ。
「やってみて」
「な……、何をさせようっていうんですか」
絞りだすような声に、角刈りがこっちを振り向いた。唯も角刈りを見る。
「何って……。坂道発進の練習や」
「うぅぅ――」
脳内の事故がぬぐえないまま、唯は角刈りの声に応じて、半クラを繋ぐ。
車体が前に出た。
「今動いたやろ。こうなったら、車が前へ進む準備ができたっちゅーことや。半クラを維持しながら、サイドブレーキを下ろしぃや」
頷く唯の顎から、汗が一滴落ちる。
サイドブレーキを下ろした瞬間、
車は坂道を上り――。
プスン! するするする~
「あぁぁ!! ぶつかるぶつかる!!」
「ブレーキ!」
すがりつくようにブレーキを踏み込み、サイドブレーキを引く。
「今、何mですかね!?」
「知らん! それより、エンジンかけぇ」
不合格と言ったはずなのに、角刈りはもう一度チャレンジしろと言う。
心の中で、唸りながら、唯はもう一度同じ手順を繰り返した。
しかし、またエンストしてしまう。
もう車は、坂道を半分以上落ちている気がする。絶対、不合格のはずなのに、角切りはもう一度と言う。
「何台くらい、玉突き事故させましたかね」
「どういうこっちゃ。それより、もう少しアクセル踏んでみ」
脳内では、大事故になっているというのに、アクセルを吹かさせてどうしようというのだろう。
他の教習車は、昨日、今日始めたばかりだから、外コースをまわっている。内側にいるのは唯だけだ。
見知らぬ誰かの一歩先行く先輩でありたかったのに、騒々しくアクセルを吹かせるのは、イメージがだだ崩れだ。
仕方ない。
見知らぬ誰かより、目の前の免許。
目を閉じて、大きく息を吐く。
もう一度目を開いた。
半クラを繋いで、アクセルを多めに踏む。
車が元気に返事をして、唯の背をぐっと押した。
サイドブレーキを下ろすと、車は、坂道を上がり始めた。
「その調子やで」
ゆっくりと、だが、力強く、白い教習車が坂道を上りきった。
背を引っ張る重力から解放される。
「おめでと。登頂やな」
「ふは……、できた」
ハンドルを握ったまま、唯が声を出さずに笑った。
夕日が一面の田んぼに反射して、世界がきらめいて見える。
「ほな、ゆっくり降りて、もう一回な」
「はぁぁ!?」
「言うとくけど、オートマやったら坂道なんか怖ないで」
また、オートマか!
叫びたかったのは我慢した。相手は角刈りだ。