「久しぶりやな」
笑顔の眼鏡に、よろしくお願いしますと頭を下げて、車に乗り込む。
そういえば、眼鏡がいたっけ。
王子に角刈りと個性的な教官のおかげで、眼鏡が普通に見える。
「今日はみきわめやな。これで受かったら次、終了検定。いよいよ路上や」
シートベルトを颯爽と引き、カチッと音をさせて止める。ミラーを合わせて、もう一度だけ微調整した。
よし、完璧。ぱーぺき。
「教習車55番、浅原唯出ます!」
クラッチをつないで二速へ。エンストの気配もない。
順調な滑りだしだ。
ちらっと後方を確認するのも忘れない。
「ところで、効果測定の結果知りたい?」
「そりゃ、知りたいですよ」
「ジャラララララ~」
「うわ、効果音付き」
「ドラムロールね」
そこだけ小声という念の入りようだ。
力入れるとこ、そこかな。
やっぱり眼鏡はおかしい。
「合格でーす! おめでとー」
「あは、心こもってないわ」
指示通り、内コースに入り、クランクを突破。外コースに合流する前に一時停止する。
ほらね、大丈夫。おしゃべりに夢中になって一時停止を忘れたりはせぬよ!
最近、実は、眼鏡のおしゃべりに、理由があるのではないかと思うようになった。
一つには、話に夢中になって確認を怠らないか見られていること。
二つには、生徒にリラックスしてもらう目的。
三つには、やっぱり眼鏡がお喋りなんだと思う。王子は無口だし。
「一緒に効果測定した人らの結果、――知りたいやろ?」
「いいえ」
そんな溜めてまで聞くことでもない。
「そこは知りたいです。やろ。はい、坂道入って」
「自分のだけでいいです」
サイドブレーキを下ろす。坂道で車がゆっくりと前進し始める。
眼鏡が、何が言いたいのかわからない。
カンニングまでしたのだから、合格だろう。
正直、他人の合否まで気にする余裕はない。
そこが気になり始めれば、教習所が試験監督をつけない理由だって言及したくなる。
それは教習所にだって不都合なところのはずなのに。
「次、S字いこか」
「……はい」
「間あったな」
自分では即答したつもりだった。
できるはずだ。
――、あれからは脱輪してないし。
S字に頭を突っ込み、ハンドルを回す。その手が汗ですべる。
「おもしろいこと言おうと思って」
「次はS字~、S字~、お降りの方は降車ボタンを押してくださいとかなら、聞き飽きてるで」
「――、はい?」
「ボケ殺しか」
ボケ殺し。なぜお笑い芸人でもないのに、ボケを拾ってやらねばならないのか。
大阪や神戸でもないのに、自称関西圏では、一般市民の会話でもお笑いを求められる。
こっちはボケを拾うような場合じゃないってのに!
「無線で、脱輪したらしいやん?」
だぁら、話かけないでってば!
返事をしない代わりに、車はS字を抜けた。
「王子がわざわざ直しに来てくれたって?」
あ、教官同士で王子とか呼ぶんだね。
「マジで王子でしたね」
「ふーん」
何か不満そうに聞こえるけど、眼鏡と呼べば不機嫌になりそうだからやめておく。
一時停止して、また合流だ。気は抜けない。
「確認、よし!」
「路上出ても、それ言うつもりか?」
「おかしいです?」
「そんな人見たことないわ」
「なら、やめます」
やるなと言われればする必要はない。
っていうか、路上の話が出るくらいだから、合格ってこと!?
本当!?
頭の中で、注意点をプレイバックしてみる。
大丈夫だったはずだ。
罠だった一時停止も完璧。
坂道発進も1mmたりとも下がってない。
S字、クランク、スムーズで、脱輪もポールへの接触もない。
何なら、完璧と言っていい。
少なくとも、落ちる理由がない。
脳内ラップを刻みながら、元の位置に停車する。
眼鏡はクリップボードに挟んだ紙をめくって、息を吐いた。
どうなの。
合格って言って!
「う~ん。不合格にしとこう」
眼鏡なのに、妙にシリアスで、ツッコミどころがわからない。
なんでやねん! と返せばいいの?
ツッコミを入れる左手が小さく震えた。
どうしても、合格したかった。
脳内で、カンニング合宿生の笑い声が聞こえる。
あんな奴らに、追い越されたくない。
「どこが悪かったか教えてください」
声だけは、ちゃんと出た。
眼鏡がクリップボードから視線をこちらに向けた。
「なんで聞きたいん?」
「だって、どこが悪かったかわからなかったら、直しようがありません」
眼鏡が微笑んだ。
いつもの陽気な眼鏡と違って見える。
「そうやな。心の余裕がないからや」
「心の余裕?」
意味がわからず、問い返した。
「ここがダメっていうとこはあらへん」
なら、なんで。
不合格と言われたことがショックで、言えなかった。
眼鏡をじっと見返す。
「正解をなぞることに必死で、“運転”になってへん」
正解の何がいけないの。
ダメなところはない、90点どころか100点のはずなのに、運転になってないって何?
眼鏡の話はちっともわからない。
「相原さんな、このまま路上に出たら、もっと余裕なくなるで。それより、もう一回みきわめやろうや。もっと慣れて、もっとうまくなるて」
はいと返事したが、従順だからって、補習が無料になるわけじゃない。
五千円札が羽ばたいていくのが見える。
さよなら、私のバイト代。
車の外に出て、ドアがちゃんと閉まらなかった。
礼を言うのもやっとで、地面ばかり見てしまう。
「仮免になったら、他の教習生と一緒に組むこともあるから。そのつもりで外出よう」
あの人たちと組む?
ゲラゲラと大笑いする金髪、ピアスに、ゆるパーマが思い浮かんだ。
狭い車内で、あの人たちに見られながら運転するなんて嫌だ。
顔をあげると、眼鏡が夕日に光った。息を吸う。
「次は――」
合格してみせます、と言いかけてやめる。
「次は、ちゃんとツッコミ入れます!」
「おう! 待っとるで!」
中島教習所、私は運転を習いに来ている。
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