夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
意識が浮上する。
泥の底からゆっくりと気泡が上がっていくような、重たくて気怠い目覚めだった。
瞼を開ける。知らない天井だ、という定型句を口にする気力すらない。視界がぼやけている。
喉が焼けるように渇いていた。
「……水」
口から出たのは、鈴を転がしたような高い声だった。
自分の声じゃない。
思考がフリーズする。俺は、
たしか、締め切り前の修羅場で、アシスタントに「ちょっと十分だけ寝る」と言って、デスクに突っ伏したはずだ。
身体を起こそうとして、激しい眩暈に襲われた。
視界がぐるりと回る。重力がおかしい。手をついて身体を支える。
視界に入ったその「手」を見て、俺は息を呑んだ。
細い。白い。
折れそうなほど華奢な手首。爪は綺麗に整えられ、血管が青く透けて見える。
俺の利き手には、長年の執筆で出来たペンダコがあったはずだ。インクのシミと、無骨な節があったはずだ。
「なんだ、これ……」
やっぱり、可愛らしい声が出る。
俺はふらつく足取りで立ち上がり、洗面所らしき場所を探した。ここはどこだ。少なくとも俺の仕事場じゃない。
高級ホテルのような内装だ。広すぎるリビング、洗練された間接照明。
壁に備え付けられた姿見を見つけ、俺はそこに映る「他人」と対面した。
「……嘘だろ」
鏡の中にいたのは、作り物めいた美少女だった。
色素の薄い、絹糸のような長い髪。雪のように白い肌。大きな瞳は、どこか虚ろで、生気がない。
年齢は十五、六歳といったところか。着ているのは上質なシルクのパジャマだ。
漫画のキャラクターなら「儚げなヒロイン」で通るだろうが、現実でここまで白いと、幽霊か人形に見える。
俺は頬をつねってみた。
痛い。鏡の中の少女が顔をしかめる。
夢じゃない。
「転生……ってやつか? いや、憑依か?」
ラノベや漫画で使い古された設定が脳裏をよぎる。まさか自分がその当事者になるとは。
状況を整理しなければならない。
俺はリビングに戻り、サイドテーブルに置かれていたスマートフォンを手に取った。
指紋認証ではなく、パスコードロックがかかっている。当然、番号なんて知らない。
だが、ロック画面の日付を見て、俺は全身の血が凍りついた。
『2月15日』
俺の記憶にある日付から、ちょうど一年が経っている。
そして、2月15日という日は──俺、東條樹の命日だ。
「……一年、経ってるのか」
ロック画面の通知欄には、ニュースアプリのヘッドラインが並んでいた。
『東條樹 一周忌追悼展、本日より開催』
『未完の伝説 "アークエンド"、その結末を巡る議論は今も』
指先が震えた。
俺は死んだのか。あの仮眠の後、そのまま?
ブラウザを立ち上げ、震える指で自分の名前を検索する。
画面を埋め尽くすのは、「夭折の天才」「神に愛された作家」「現代漫画界の損失」といった、仰々しい言葉の数々だった。
そして、どの記事にも必ず書かれている言葉がある。
『未完』。
「くそっ……」
胸が締め付けられるような痛みに襲われた。
描きたかった。描き切りたかった。
あの物語のラストは、もう頭の中にあったんだ。あと半年あれば、完結まで持っていけた。
それを待ってくれていた読者を、編集者を、俺は裏切ったのか。
記事のコメント欄には、ファンたちの悲痛な声が溢れていた。
『先生、戻ってきて』
『アークエンドの続きが読めないなら、もう何も読みたくない』
『一生許さない、でも一生愛してる』
「ごめん……。ごめん、みんな」
少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。
自分の死を客観的に突きつけられることより、作品を放り出した事実のほうが、何倍も辛かった。俺は漫画家だったから。生きることと描くことは同義だったから。
しばらく呆然としていたが、不意に強烈な吐き気が込み上げてきた。
空っぽの胃が収縮する感覚。
俺は慌ててトイレに駆け込み、胃液を吐いた。
苦しい。この身体、弱すぎる。
顔を洗い、うがいをして、再びリビングに戻る。そこで初めて、部屋の異様な光景に気がついた。
生活感がまるで無いモデルルームのような部屋の隅。
パソコンデスクの下にあるゴミ箱が、横倒しになっていた。
散乱しているのは、大量のプラスチック容器。
睡眠薬だ。それも、市販のものを何箱も空にしている。
その横に、破り取られたノートの切れ端が落ちていた。
震える文字で、たった一行。
『誰にもなれなかった』
背筋に冷たいものが走る。
この身体の持ち主──おそらく、この部屋に住む少女は、死のうとしたのだ。
俺が目覚める直前、彼女は大量の薬を飲み、意識を手放した。
そこへ、死後一年の空白を経て、俺の魂が入り込んだ。
そういうことか?
「……ふざけるなよ」
俺は倒れたゴミ箱を蹴り飛ばした……つもりだったが、足がもつれてその場にへたり込んだ。
力が、入らない。
「俺は……俺は、もっと生きて描きたかったんだぞ」
過労で心臓を止めた俺と、自ら命を絶とうとした少女。
なんという皮肉だ。
神様がいるとしたら、随分と悪趣味な脚本家だ。
だが、今ここに意識があるのは俺だ。東條樹だ。
「……名前は」
部屋を見渡す。郵便物や書類を探す。
キッチンカウンターの上に、封を切られていない封筒の山があった。
宛名は『如月 雪』様。
差出人は『キサラギ コウサン』や『弁護士法人〇〇』ばかり。親からの手紙らしきものは一通もない。
如月雪。それが、今の俺の名前か。
十五歳にしては高級すぎるマンション。大量の薬。届かない親からの手紙。
彼女が抱えていた孤独の深さは想像もできない。
「誰にもなれなかった」という遺書の言葉が、胸に重くのしかかる。
「……悪いけど、この身体、勝手に使わせてもらうぞ」
俺は独り言を呟く。誰に聞かせるでもなく、消えてしまったかもしれない彼女に向けて。
もし彼女がまだ奥底に眠っているなら、聞いていてほしい。
「俺はもう二度と、途中で終わらせたりしない。物語も、人生もだ」
まずは、生き延びなければならない。
この身体はボロボロだ。薬の影響か、それとも元々の虚弱さか、指先まで痺れている。
俺は這うようにしてキッチンへ向かった。
冷蔵庫を開ける。中はほとんど空っぽだ。ミネラルウォーターのペットボトルと、賞味期限の切れそうなゼリー飲料が数個。
水を手に取り、キャップを開ける。それだけの動作に両手が必要だった。
一気に飲み干す。
乾いた細胞に水分が染み渡っていく感覚。
生きている。心臓が動いている。
「ふぅ……」
息をつく。
カーテンが閉め切られた部屋は薄暗い。
俺は窓辺に歩み寄り、分厚い遮光カーテンを力一杯開け放った。
射し込んできた午後の日差しが、目に痛い。
眼下に広がるのは、東京の街並みだ。
高層階からの景色。車が米粒のように見える。
かつて俺が仕事場にしていた雑居ビルからの景色とは、まるで違う世界だ。
「一周忌か……」
俺のいない世界で、今日も街は動いている。
ガラス窓に映る自分の顔を見た。
相変わらず、人形のように整った、けれど今にも壊れそうな少女の顔。
だが、その瞳には、さっきまでの虚ろな色はなかった。
そこには、かつて週刊連載という戦場で戦い抜いた、漫画家の光が宿っている。
「まずは飯だ。それから、身体を治す」
俺は前世の教訓を噛み締めるように呟いた。
徹夜はしない。飯は食う。適度な運動をする。
健康でなければ、ペンは握れない。
いや、今の俺にペンを握る資格があるのかは分からないけれど。
ふと、視線がデスクの上に吸い寄せられた。
そこには、埃を被っていない新品同様の液晶ペンタブレットが置かれていた。
プロ仕様の、最高級モデルだ。
電源ランプは消えている。
指先が、ぴくりと反応した。
描きたい。
その衝動は、魂に刻まれた本能のようなものだ。
未完の物語。頭の中に残されたままのラストシーン。
俺は自分の右手を持ち上げ、じっと見つめる。
白くて、細くて、頼りない手。
ペンダコの一つもない、真っさらな手。
「……いい機材、持ってんじゃん」
俺は小さく笑った。
如月雪。君が何を目指してこれを買ったのかは分からない。
でも、これがあるなら、俺はまだ──。
いや、今はまだだ。
俺は視線をペンタブレットから外し、キッチンへと戻った。
まずは胃に優しいものを入れよう。
話はそれからだ。
誰にも祝福されない、俺の二度目の人生が始まった。
神様のいない一周忌に、俺はもう一度、生きることを始めた。