夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く   作:匿名TS美少女

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1話

 意識が浮上する。

 

 泥の底からゆっくりと気泡が上がっていくような、重たくて気怠い目覚めだった。

 瞼を開ける。知らない天井だ、という定型句を口にする気力すらない。視界がぼやけている。

 喉が焼けるように渇いていた。

 

「……水」

 

 口から出たのは、鈴を転がしたような高い声だった。

 自分の声じゃない。

 思考がフリーズする。俺は、東條樹(とうじょう いつき)だ。二十八歳、男性。職業は漫画家。

 たしか、締め切り前の修羅場で、アシスタントに「ちょっと十分だけ寝る」と言って、デスクに突っ伏したはずだ。

 

 身体を起こそうとして、激しい眩暈に襲われた。

 視界がぐるりと回る。重力がおかしい。手をついて身体を支える。

 視界に入ったその「手」を見て、俺は息を呑んだ。

 

 細い。白い。

 折れそうなほど華奢な手首。爪は綺麗に整えられ、血管が青く透けて見える。

 俺の利き手には、長年の執筆で出来たペンダコがあったはずだ。インクのシミと、無骨な節があったはずだ。

 

「なんだ、これ……」

 

 やっぱり、可愛らしい声が出る。

 俺はふらつく足取りで立ち上がり、洗面所らしき場所を探した。ここはどこだ。少なくとも俺の仕事場じゃない。

 高級ホテルのような内装だ。広すぎるリビング、洗練された間接照明。

 壁に備え付けられた姿見を見つけ、俺はそこに映る「他人」と対面した。

 

「……嘘だろ」

 

 鏡の中にいたのは、作り物めいた美少女だった。

 色素の薄い、絹糸のような長い髪。雪のように白い肌。大きな瞳は、どこか虚ろで、生気がない。

 年齢は十五、六歳といったところか。着ているのは上質なシルクのパジャマだ。

 漫画のキャラクターなら「儚げなヒロイン」で通るだろうが、現実でここまで白いと、幽霊か人形に見える。

 

 俺は頬をつねってみた。

 痛い。鏡の中の少女が顔をしかめる。

 夢じゃない。

 

「転生……ってやつか? いや、憑依か?」

 

 ラノベや漫画で使い古された設定が脳裏をよぎる。まさか自分がその当事者になるとは。

 状況を整理しなければならない。

 俺はリビングに戻り、サイドテーブルに置かれていたスマートフォンを手に取った。

 指紋認証ではなく、パスコードロックがかかっている。当然、番号なんて知らない。

 だが、ロック画面の日付を見て、俺は全身の血が凍りついた。

 

『2月15日』

 

 俺の記憶にある日付から、ちょうど一年が経っている。

 そして、2月15日という日は──俺、東條樹の命日だ。

 

「……一年、経ってるのか」

 

 ロック画面の通知欄には、ニュースアプリのヘッドラインが並んでいた。

 

『東條樹 一周忌追悼展、本日より開催』

『未完の伝説 "アークエンド"、その結末を巡る議論は今も』

 

 指先が震えた。

 俺は死んだのか。あの仮眠の後、そのまま? 

 ブラウザを立ち上げ、震える指で自分の名前を検索する。

 

 画面を埋め尽くすのは、「夭折の天才」「神に愛された作家」「現代漫画界の損失」といった、仰々しい言葉の数々だった。

 そして、どの記事にも必ず書かれている言葉がある。

 

『未完』。

 

「くそっ……」

 

 胸が締め付けられるような痛みに襲われた。

 描きたかった。描き切りたかった。

 あの物語のラストは、もう頭の中にあったんだ。あと半年あれば、完結まで持っていけた。

 それを待ってくれていた読者を、編集者を、俺は裏切ったのか。

 記事のコメント欄には、ファンたちの悲痛な声が溢れていた。

 

『先生、戻ってきて』

『アークエンドの続きが読めないなら、もう何も読みたくない』

『一生許さない、でも一生愛してる』

 

「ごめん……。ごめん、みんな」

 

 少女の瞳から、大粒の涙が零れ落ちた。

 自分の死を客観的に突きつけられることより、作品を放り出した事実のほうが、何倍も辛かった。俺は漫画家だったから。生きることと描くことは同義だったから。

 

 しばらく呆然としていたが、不意に強烈な吐き気が込み上げてきた。

 空っぽの胃が収縮する感覚。

 俺は慌ててトイレに駆け込み、胃液を吐いた。

 苦しい。この身体、弱すぎる。

 顔を洗い、うがいをして、再びリビングに戻る。そこで初めて、部屋の異様な光景に気がついた。

 

 生活感がまるで無いモデルルームのような部屋の隅。

 パソコンデスクの下にあるゴミ箱が、横倒しになっていた。

 散乱しているのは、大量のプラスチック容器。

 睡眠薬だ。それも、市販のものを何箱も空にしている。

 

 その横に、破り取られたノートの切れ端が落ちていた。

 震える文字で、たった一行。

 

『誰にもなれなかった』

 

 背筋に冷たいものが走る。

 この身体の持ち主──おそらく、この部屋に住む少女は、死のうとしたのだ。

 俺が目覚める直前、彼女は大量の薬を飲み、意識を手放した。

 そこへ、死後一年の空白を経て、俺の魂が入り込んだ。

 そういうことか? 

 

「……ふざけるなよ」

 

 俺は倒れたゴミ箱を蹴り飛ばした……つもりだったが、足がもつれてその場にへたり込んだ。

 力が、入らない。

 

「俺は……俺は、もっと生きて描きたかったんだぞ」

 

 過労で心臓を止めた俺と、自ら命を絶とうとした少女。

 なんという皮肉だ。

 神様がいるとしたら、随分と悪趣味な脚本家だ。

 だが、今ここに意識があるのは俺だ。東條樹だ。

 

「……名前は」

 

 部屋を見渡す。郵便物や書類を探す。

 キッチンカウンターの上に、封を切られていない封筒の山があった。

 宛名は『如月 雪』様。

 差出人は『キサラギ コウサン』や『弁護士法人〇〇』ばかり。親からの手紙らしきものは一通もない。

 

 如月雪。それが、今の俺の名前か。

 十五歳にしては高級すぎるマンション。大量の薬。届かない親からの手紙。

 彼女が抱えていた孤独の深さは想像もできない。

「誰にもなれなかった」という遺書の言葉が、胸に重くのしかかる。

 

「……悪いけど、この身体、勝手に使わせてもらうぞ」

 

 俺は独り言を呟く。誰に聞かせるでもなく、消えてしまったかもしれない彼女に向けて。

 もし彼女がまだ奥底に眠っているなら、聞いていてほしい。

 

「俺はもう二度と、途中で終わらせたりしない。物語も、人生もだ」

 

 まずは、生き延びなければならない。

 この身体はボロボロだ。薬の影響か、それとも元々の虚弱さか、指先まで痺れている。

 俺は這うようにしてキッチンへ向かった。

 冷蔵庫を開ける。中はほとんど空っぽだ。ミネラルウォーターのペットボトルと、賞味期限の切れそうなゼリー飲料が数個。

 

 水を手に取り、キャップを開ける。それだけの動作に両手が必要だった。

 一気に飲み干す。

 乾いた細胞に水分が染み渡っていく感覚。

 生きている。心臓が動いている。

 

「ふぅ……」

 

 息をつく。

 カーテンが閉め切られた部屋は薄暗い。

 俺は窓辺に歩み寄り、分厚い遮光カーテンを力一杯開け放った。

 

 射し込んできた午後の日差しが、目に痛い。

 眼下に広がるのは、東京の街並みだ。

 高層階からの景色。車が米粒のように見える。

 かつて俺が仕事場にしていた雑居ビルからの景色とは、まるで違う世界だ。

 

「一周忌か……」

 

 俺のいない世界で、今日も街は動いている。

 ガラス窓に映る自分の顔を見た。

 相変わらず、人形のように整った、けれど今にも壊れそうな少女の顔。

 だが、その瞳には、さっきまでの虚ろな色はなかった。

 そこには、かつて週刊連載という戦場で戦い抜いた、漫画家の光が宿っている。

 

「まずは飯だ。それから、身体を治す」

 

 俺は前世の教訓を噛み締めるように呟いた。

 徹夜はしない。飯は食う。適度な運動をする。

 健康でなければ、ペンは握れない。

 いや、今の俺にペンを握る資格があるのかは分からないけれど。

 

 ふと、視線がデスクの上に吸い寄せられた。

 そこには、埃を被っていない新品同様の液晶ペンタブレットが置かれていた。

 プロ仕様の、最高級モデルだ。

 電源ランプは消えている。

 

 指先が、ぴくりと反応した。

 描きたい。

 その衝動は、魂に刻まれた本能のようなものだ。

 未完の物語。頭の中に残されたままのラストシーン。

 

 俺は自分の右手を持ち上げ、じっと見つめる。

 白くて、細くて、頼りない手。

 ペンダコの一つもない、真っさらな手。

 

「……いい機材、持ってんじゃん」

 

 俺は小さく笑った。

 如月雪。君が何を目指してこれを買ったのかは分からない。

 でも、これがあるなら、俺はまだ──。

 

 いや、今はまだだ。

 俺は視線をペンタブレットから外し、キッチンへと戻った。

 まずは胃に優しいものを入れよう。

 話はそれからだ。

 

 誰にも祝福されない、俺の二度目の人生が始まった。

 神様のいない一周忌に、俺はもう一度、生きることを始めた。

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