夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
コン、コン。
乾いた音が、静寂を支配する部屋に響き渡る。
俺は息を止め、玄関の方角を凝視した。
心臓が早鐘を打っている。肋骨がきしむほど強く、痛いほどに。
もう一度、ノックがあった。
今度は少しだけ強く、けれど乱暴ではない。
まるで、中にいる人間が怯えていることを知っていて、それを気遣うかのような慎重な響きだった。
「……如月さん。いらっしゃいますか」
低く、落ち着いた男の声。
聞き間違えるはずがない。
一年間、毎日のように電話越しに聞き、打ち合わせで聞き、そして飲み屋で愚痴を聞かされた声だ。
集英談社、週刊少年ジャンプ編集部副編集長、真田健一。
俺は足音を立てないように、廊下を後退った。
膝が笑っている。
怖い。
何が怖い? 怒られることか? 偽物だと罵られることか?
いや、違う。
見つかってしまうことだ。
俺が「東條樹」として死んだ事実が、この「如月雪」という少女の身体によって覆されてしまうこと。
それが、どうしようもなく恐ろしかった。
「……無理だ」
俺はリビングに逃げ込み、ソファの影にうずくまった。
インターホンは切っている。
オートロックはどうやって突破した?
住人の誰かが出入りするタイミングで紛れ込んだのか、それとも管理人に身分証を見せて「安否確認」とでも言ったのか。
どちらにせよ、あの人はここまで来た。
俺の聖域であるこの部屋の前まで。
「開けてもらえるとは思っていません」
ドア越しに、真田さんの声が聞こえた。
このマンションの防音性能は高いはずだが、静まり返った室内には、彼の声が驚くほど明瞭に届く。
「ただ、確認したかったんです。そこに『誰』がいるのかを」
俺は口元を両手で覆った。
声を出してはいけない。嗚咽さえも漏らしてはいけない。
「Nemoさん。……いいえ、先生」
その呼び名に、全身の血が逆流した。
先生。
彼がそう呼ぶ相手は、世界に一人しかいないはずだ。
「あなたの絵を見ました。配信も見ました。
ペンの持ち方、迷った時の癖、画面の構成。
そして何より、あのキャラクターたちの表情。
あれを描ける人間は、僕の知る限り一人しかいません」
ドアの向こうで、衣擦れの音がした。
おそらく、彼はドアに背中を預けて座り込んだのだろう。
長期戦の構えだ。
「オカルトだというのは分かっています。
僕はあなたの葬式に出た。骨も拾った。
だから、今このドアの向こうにいるのが、十五歳の少女だという事実も、頭では理解しているつもりです」
真田さんの声が、少し震えているように聞こえた。
「でも、魂は嘘をつかない。
先生。もし聞こえているなら、これだけは伝えておきたかった。
……待っていますよ。あなたの原稿を」
その言葉は、鋭利な刃物となって俺の胸を抉った。
待っている。
締め切りを守れなかった俺を。
物語を途中で放り出し、勝手に死んでしまった俺を。
それでもまだ、待っていると言うのか。
「今日は帰ります。これ以上騒ぐと、あなたのご迷惑になるでしょうから」
立ち上がる気配がした。
「でも、僕は諦めませんよ。編集者ですから」
コツ、と革靴の音が遠ざかっていく。
俺はその音が完全に聞こえなくなるまで、身動き一つ取れなかった。
涙が、指の間から溢れて止まらなかった。
嬉しい。苦しい。申し訳ない。
あらゆる感情が混ざり合い、俺の中を嵐のように駆け巡っていた。
しばらくして、俺はふらつく足取りで立ち上がった。
PCのモニターを見る。
そこには、完成直前の『アークエンド』第159話が表示されていた。
クリップスタジオの画面。
レイヤー数は数百枚。
描き込まれた背景、キャラクターの表情、効果音。
すべてが、俺の魂の叫びだ。
「……卑怯だよな、俺は」
如月雪の声で呟く。
真田さんは、あんなに真摯にぶつかってきてくれたのに。
俺はこうして、安全地帯に引きこもって、顔も見せずに震えているだけだ。
でも、会うわけにはいかない。
会えば、如月雪の人生を巻き込むことになる。
彼女の両親、学校、社会的な立場。
死人が蘇ったなどというスキャンダルは、彼女の未来を完全に破壊してしまうだろう。
だから、俺ができる回答は一つしかない。
言葉ではなく、作品で返すことだ。
漫画家・東條樹としてではなく、匿名の絵師・Nemoとして。
俺は椅子に座り直した。
ヘッドセットをつける。
配信は……もういい。
さっきの切り忘れ事故で、特定班には十分すぎる情報を与えてしまった。
これ以上ライブで晒すのはリスクが高すぎる。
今は、完成させることだけに集中しよう。
残り三ページ。
トーン処理と、セリフの写植。
あと二時間あれば終わる。
俺はペンを握った。
不思議と、さっきまでの恐怖は消えていた。
代わりに腹の底から湧き上がってきたのは、熱いマグマのような闘争心だ。
真田さん。あんたがそこまで言うなら、見せてやるよ。
俺が死後の世界から持ち帰った、とびっきりの「続き」を。
カリカリ、ッターン。
作業音が部屋に響く。
空腹も忘れた。喉の渇きも忘れた。
ただひたすらに、モニターの中の世界を構築していく。
アークが叫ぶ。
『俺たちは、まだ終わっちゃいない!』
そのセリフは、俺自身の叫びでもあった。
第159話のラストシーン。
絶望的な状況の中で、アークが仲間たちに背中を預け、前を見据える見開き。
そこに入れるモノローグを、俺はずっと悩んでいた。
前世のプロットでは、もっと悲壮感のある言葉にする予定だった。
『死地へ向かう』とか、『これが最後の戦いだ』とか。
でも、今は違う。
俺は生きている。雪も生きている。
だから、言葉を変える。
『行こう。物語の先へ』
その一文を打ち込んだ瞬間、俺の中で何かが「カチリ」とハマる音がした。
完成だ。
時計を見る。午後九時を回っている。
俺はファイルを保存し、書き出し処理を行った。
高解像度のJPEG画像、計二十四枚。
容量にして数百メガバイトのデータ塊。
これが、俺の存在証明だ。
ブラウザを開く。
投稿サイト『Creatia』のマイページ。
『新規投稿』ボタンをクリックする。
タイトル:『アークエンド 第159話 (Unofficial)』
キャプションには、言い訳がましくこう書いた。
『これは二次創作です。公式とは一切関係ありません。
ただのファンの妄想です。
でも、もし彼が生きていたら、こう描いたんじゃないかと思って描きました』
嘘だ。
これは本物だ。
俺が描いたんだから、これ以上の公式はない。
でも、世間的にはこれでいい。
「クオリティが高すぎる偽物」というレッテルが、俺を守る盾になる。
マウスカーソルが『投稿する』ボタンの上で止まる。
指が震える。
これを押せば、世界が変わる。
真田さんは、きっとすぐに気づくだろう。
そして、特定班も、アンチも、ファンも、全員がこの絵を見ることになる。
「……行け」
俺は目を閉じ、クリックした。
『アップロードが完了しました』
画面に表示された文字を見て、俺は深く息を吐き出した。
終わった。いや、始まったんだ。
俺は椅子から崩れ落ちるようにして、床に寝転がった。
天井が高い。
高級マンションの天井は、無機質で、冷たくて、でもどこか安心感があった。
数分後。
スマホが狂ったように震え始めた。
通知音が鳴り止まない。
ブブブブブブブ。
まるで爆弾の起爆装置のようだ。
俺は横になったまま、スマホを手に取った。
Xを開く。
タイムラインが、濁流のように流れている。
『おい見ろ! Creatia!』
『Nemoが新作投稿したぞ! 漫画だ!』
『24ページもある! これ週刊連載一本分じゃねーか!』
『読んだ。……震えが止まらない』
『なんだこれ。なんだこれ!!』
拡散のスピードが、前回の比ではない。
『アークエンド』という巨大なコンテンツに飢えていた数百万人のファンが、一斉に群がっているのが分かった。
『泣いた。冒頭の5ページで泣いた』
『絵がうまいとかそういう次元じゃない。演出が神がかってる』
『このセリフ回し、完全に東條節だろ』
『ラストの見開き、鳥肌立った。これが見たかったんだよ!』
称賛、驚愕、そして感謝。
画面を埋め尽くす言葉の洪水に、俺の視界が滲む。
届いている。
ちゃんと、伝わっている。
そして、その中に一つ、異質なツイートを見つけた。
『集英談社・真田健一』の公式アカウントだ。
普段は業務連絡しか呟かない彼が、一言だけ投稿していた。
『確認しました。
……馬鹿野郎。
最高じゃないですか』
そのツイートには、すでに数万の「いいね」がついていた。
俺はスマホを胸に抱きしめ、声を上げて泣いた。
十五歳の少女の声で、子供のように泣きじゃくった。
馬鹿野郎はどっちだ。
あんたが諦めないから、俺は描く羽目になったんだ。
あんたが待ってるなんて言うから、逃げられなくなったんだ。
「……ありがとう、真田さん」
誰にも聞こえない声で呟く。
これで、俺はもう後戻りできなくなった。
「Nemo」は、ただの落書き配信者から、伝説の継承者へと引きずり上げられた。
これからは、もっと厳しい目が向けられるだろう。
特定班の動きも過激化するかもしれない。
法的措置のリスクだって消えていない。
それでも。
描いてよかった。
この胸のつかえが取れたような清々しさは、何物にも代えがたい。
俺は起き上がり、窓の外を見た。
東京の夜景が、宝石箱をひっくり返したように輝いている。
その光の一つ一つに、誰かの生活があり、物語がある。
俺はその中の一つ、「如月雪」という光の中で、これからも生きていく。
「さて」
俺は涙を拭い、冷蔵庫に向かった。
腹が減った。
猛烈に、腹が減った。
今の俺なら、牛丼の特盛だって食える気がする。
まあ、実際には胃が受け付けないだろうから、うどんにしておくけど。
冷凍うどんを電子レンジに入れながら、俺は次の展開を考えていた。
第160話。
アークたちが敵の本拠地へ突入する回だ。
構図はどうする? 見せ場は?
頭の中で、すでに次のネームが動き出している。
漫画家という生き物は、因果な商売だ。
一作描き上げた瞬間に、もう次の締め切りが恋しくなる。
死んでも治らないとは、まさにこのことだ。
チン、とレンジが鳴った。
温かいうどんを啜りながら、俺は久しぶりに心からの笑顔を浮かべた。
生きている。
描いている。
それだけで、今の俺には十分だった。
翌朝。
俺が目覚めると、世界はさらに騒がしくなっていた。
テレビのワイドショーで『謎の天才絵師Nemo』が取り上げられ、ネットニュースのトップには『アークエンド、奇跡の復活か?』という見出しが躍っていた。
そして、俺のマンションのエントランスには、昨日よりも多くの「不審な人影」が見え隠れしていた。
俺はカーテンの隙間からそれを見下ろし、苦笑した。
「当分、コンビニにも行けないな」
籠城戦の始まりだ。
だが、今の俺には武器がある。
最強のペンタブと、無限に湧き出るアイデア、そして待ってくれている読者たち。
これだけあれば、どんな包囲網だって突破できる。
俺はPCの電源を入れた。
今日もまた、描くために。
俺たちの物語は、まだ終わらない。