夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
パソコンの画面に映し出された『退会キャンセル』の文字を見つめたまま、俺は深いため息をついた。
一度は捨てようとしたNemoという名前。
でも、それを繋ぎ止めたのは、顔も名前も知らない読者たちの言葉だった。
「……勝手なもんだよな」
俺は自嘲気味に呟く。
自分が死んだときは「描けなかった」という後悔でいっぱいだったのに、いざ他人の身体で生き返ったら、今度は「描くこと」で誰かを救おうとしている。
偽善かもしれない。
ただの自己満足かもしれない。
それでも、あのDMの中にあった『生きてみようと思いました』という一言が、俺の足を縫い止めて離さなかった。
ふと、視線がデスクの脇にある本棚に向いた。
そこには、俺が転生してくる前から置いてあった、数冊のスケッチブックがある。
如月雪が使っていたものだ。
俺は吸い寄せられるようにその一冊を手に取り、ページをめくった。
そこには、拙いながらも懸命に引かれた線があった。
模写だ。
それも、俺の漫画『アークエンド』のキャラクターたち。
アーク、ヒロインのエリス、ライバルのゼノン。
デッサンは狂っているし、パースもおかしい。
プロの目から見れば、正直に言って「下手」の部類に入る。
だが、ページをめくるごとに、線の迷いが少しずつ減っていくのが分かった。
何度も消しゴムをかけて、紙が毛羽立っている。
日付が書き込まれているページもあった。
それは、俺が死ぬ一ヶ月前の日付だった。
『もっと上手くなりたい』
『先生みたいに、誰かの心を動かせる絵が描きたい』
ページの隅に、小さな文字でそう書き込まれている。
胸が詰まった。
この子は、ただのファンじゃなかったんだ。
憧れていたんだ。
消費する側ではなく、創造する側になることを。
俺は視線をデスク上の高級機材に戻した。
最新のPC、プロ仕様の液晶タブレット、高価な左手デバイス。
総額で五十万は下らないセットだ。
親からの手切れ金があったとはいえ、十五歳の少女がこれを揃えるには、相当な覚悟が必要だったはずだ。
彼女は本気だった。
ここから世界へ飛び立とうとしていた。
だけど、その翼を広げる前に、心が折れてしまった。
俺の死という絶望と、孤独という重圧に押し潰されて。
「……馬鹿だな、俺は」
俺はスケッチブックを閉じて、愛おしそうに撫でた。
気づくのが遅すぎる。
俺がこの身体に入ったのは、偶然なんかじゃないのかもしれない。
神様なんて信じちゃいないが、もし運命というものがあるなら、これはきっと「引継ぎ」だ。
彼女が諦めた夢。
彼女が手放してしまった未来。
それを、俺の技術で完成させる。
「雪。聞こえてるか?」
俺は誰もいない部屋に向かって話しかけた。
返事はない。
ただ、静寂があるだけだ。
でも、不思議と孤独感はなかった。
この身体の奥底、心臓の鼓動のすぐ隣に、彼女が小さく丸まって眠っているような気配を感じる。
「お前の身体、最高だぞ。若いし、目はいいし、感性も鋭い」
俺はモニターに向き直り、ペンを握った。
この手は、如月雪の手だ。
でも、動かすのは東條樹の魂だ。
二人で一人。
最強のタッグじゃないか。
「Nemoは、俺だけの名前じゃない。お前との共同ペンネームだ」
そう決めた瞬間、身体の中を熱いものが駆け巡った。
迷いは消えた。
罪悪感も、恐怖も、全てを燃料にくべてやる。
俺はクリップスタジオのキャンバスを新規作成した。
第160話。タイトルは『継承』。
昨日思いついたタイトルだが、今の俺にはこれ以上ないほどしっくりくる。
アークの意志を受け継ぐ少年騎士の物語。
才能がないと嘆きながら、それでも憧れの背中を追って剣を振るう、凡人の物語。
それは、かつての如月雪であり、そして一度死んで生まれ変わった俺自身の姿でもあった。
カリ、カリ、とペンが走る。
線が踊る。
昨日までの絵とは、何かが違う。
技術的なキレはそのままに、どこか柔らかい、祈るような優しさが混じっている。
これが、雪の感性なのかもしれない。
俺はずっと、完璧な絵を目指していた。
読者を圧倒し、ねじ伏せるような強い絵を。
でも、今の俺が描きたいのは、寄り添う絵だ。
『死にたい』と泣いている誰かの隣に座って、『まあ、明日まで生きてみようぜ』と肩を叩くような、そんな絵。
「見てろよ、母さん」
心の中で呟く。
俺はもう、東條樹としては生きられない。
母さんに「ただいま」と言って抱きつくことはできない。
それは親不孝かもしれない。
でも、俺がこの身体で描き続けることで、巡り巡って母さんの心を救えるかもしれない。
あのアカウントで『あの子が帰ってきた気がする』と言ってくれたように。
俺はNemoとして、世界一の「親不孝な孝行息子」になってやる。
作業に没頭していると、スマホが短く震えた。
ミカからのLINEだ。
『ねー、今度の日曜、暇? カラオケ行こーぜ』
遊びの誘いだ。
以前の俺なら「忙しいから」と即断っていただろう。
締め切り前の漫画家に日曜なんて存在しないからだ。
だが、俺は手を止めて、少し考えた。
生存戦略その四。『週に一度は外の空気を吸う』。
それに、今の俺は「如月雪」としての人生も生きなきゃいけない。
友達と遊び、馬鹿話をして、JKらしい時間を過ごすこと。
それもまた、彼女への供養であり、この身体への礼儀だ。
『いいよ。久しぶりに歌いたい気分』
そう返信して、スタンプを送る。
すぐに『やった! 神!』と返ってきた。
ふっと笑みが溢れる。
こういう日常の些細なやり取りが、今の俺にはたまらなく愛おしい。
俺は再びペンを握り直した。
さあ、仕事だ。
次の原稿は、今までで一番熱い展開になる。
読者の度肝を抜き、アンチを黙らせ、そして雪が夢見た「最高の物語」を形にするんだ。
モニターの光に照らされた俺の顔は、きっといい表情をしているはずだ。
少なくとも、死ぬ前の疲れ切った俺よりは、ずっと生気に満ちている。
俺たちは、まだ始まったばかりだ。