夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
通知音が鳴ったのは、深夜二時を回った頃だった。
俺はちょうど『第160話』の下書きを終え、蒸気で目を温めるアイマスクをして休憩していたところだった。
スマホの画面が光る。
Xの通知だ。
普段なら無視する時間帯だが、表示された名前に心臓が跳ねた。
『真田健一がスペースを開始しました』
スペース。音声配信機能だ。
あの仕事人間の真田さんが? こんな時間に?
嫌な予感がした。
背筋に冷たいものが走り、俺はアイマスクをむしり取って、震える指で『リスニング』のボタンを押した。
「……あー、聞こえてますか。これ」
ノイズ混じりの、低い声。
いつもの威厳ある編集者の声ではない。
酒が入っているのか、それとも極度の疲労か、呂律が僅かに怪しい。
背景からは、氷がグラスに当たるカランという音が聞こえた。
『聞こえてます!』
『真田さん!?』
『こんな時間にどうしたんですか』
視聴者数は、あっという間に数千人に膨れ上がっていた。
Nemoの騒動以降、彼のフォロワーも激増している。誰もが何かを期待し、あるいは心配して集まってきていた。
「いや、なんでもないんです。ただ、ちょっと……飲みたくなって」
真田さんが乾いた笑い声を漏らす。
俺は息を殺して、スマホを耳に押し当てた。
「読みましたよ、Nemoさんの新作。『継承』ですか」
ドキリとする。
名前が出た。
「悔しいけど、傑作でした。
構成、演出、セリフ回し。どこをとってもプロの仕事だ。
特に、主人公が折れた剣を拾い直すシーン。あれは……卑怯だ」
グラスを置く音が重く響く。
「あいつなら、きっとこう言ったでしょうね。
『真田さん、俺より上手い奴が出てきましたよ』って。
へらへら笑いながら、でも目は全く笑ってなくて、徹夜で描き直しを始めるんです。あいつはそういう、負けず嫌いな男でしたから」
あいつ。
俺のことだ。東條樹のことだ。
胸が痛い。
真田さんは、俺が死んでから一年間、ずっと俺の幻影と戦っていたのか。
「ねえ、Nemoさん。聞いていますか?」
不意に、彼が呼びかけた。
心臓が止まるかと思った。
「あなたは、誰なんですか。
東條樹のゴーストライター? 隠し子? それとも、ただの熱狂的な模倣犯?
……まあ、なんでもいい。生きていようが死んでいようが、正体なんてどうでもいいんです」
長い沈黙。
そして、絞り出すような声が続いた。
「ただ、一つだけ聞きたい。
あいつは……東條は、幸せだったんでしょうか」
俺は喉の奥が熱くなるのを感じた。
幸せだったか?
漫画を描いて、評価されて、でも最後は孤独に死んだ。
それを幸せと呼べるのか、自分でも分からない。
「あの日。二月十五日」
真田さんの声が震え始めた。
「僕は彼に電話しました。『原稿、まだですか』って。
彼は『あと少しで終わります』と言った。声が掠れていて、限界なのは分かっていた。
でも僕は、『待ちますよ』とだけ言って電話を切ったんです。
休めとは言わなかった。
落とせば連載に穴が開く。会社の利益が損なわれる。ファンの期待を裏切る。
そんなくだらない理由で、僕は彼を殺した」
違う。
俺は叫びそうになった。
違うんだ、真田さん。
あの日、俺は描きたかったんだ。
あんたが止めたとしても、俺はきっと隠れて描いていた。
あれは俺のエゴだ。俺の我儘だ。
あんたのせいじゃない。
「僕が殺したんだ……!」
嗚咽。
大人の男が、人目も憚らず泣いている声が、電波に乗って世界中に流れていた。
コメント欄が動揺で埋め尽くされる。
『真田さん、自分を責めないで』
『誰も悪くないよ』
『放送事故だ、誰か止めてあげて』
俺は何も書き込めなかった。
指が動かない。
涙がボロボロと溢れて、スマホの画面を濡らした。
俺が死んだことで、一番傷ついていたのは、家族でもファンでもなく、隣で走ってくれていたこの人だったんだ。
俺は自分の「作品」を残すことに必死で、残された「人間」の心のケアなんて考えてもいなかった。
なんて罪深いんだ。
死ぬということは、こういうことなのか。
「……Nemoさん」
鼻をすする音の後、真田さんが再び口を開いた。
声はまだ震えていたが、そこには確かな力が戻っていた。
「もし、あなたが本当にあいつの意志を継ぐ者なら。
あるいは、奇跡みたいな確率で、あいつ自身が何らかの形で関わっているなら。
頼みます」
ゴクリ、と誰かが唾を飲み込む音が聞こえた気がした。
「最後まで、描き切ってください。
僕が守れなかった物語を、終わらせてください。
それを見届けることが、僕の……共犯者としての、最後の仕事です」
プツン。
唐突に配信が切れた。
『スペースは終了しました』という無機質な表示だけが残る。
静寂。
深夜の部屋に、空気清浄機の低い音だけが響いている。
俺は呆然とスマホを握りしめたまま、動けなかった。
「……馬鹿野郎」
ようやく出た言葉は、涙声だった。
共犯者だって?
勝手に背負い込むなよ。
俺は好きで描いて、勝手に死んだだけだ。
あんたは優秀な編集者で、ただ真面目すぎただけだ。
でも、嬉しかった。
そこまで思ってくれていたことが。
俺の漫画に、人生を賭けてくれていたことが。
「……描くよ」
俺は袖で顔を乱暴に拭った。
如月雪の身体は華奢で頼りないけれど、今の俺の中にある炎は、前世のどの瞬間よりも熱く燃え盛っている。
真田さん。
あんたが「共犯者」を名乗るなら、俺は「主犯」として堂々とやってやる。
罪も罰も、後悔も絶望も、全部ひっくるめてエンターテインメントにしてやる。
それが、俺たち漫画家の生き様だろう?
俺はPCのマウスを握った。
休憩終了だ。
泣いている暇があったら、線一本でも多く引く。
それが、俺ができる唯一の返答だから。
画面の中のアークが、今までよりも少しだけ、優しい顔をしているように見えた。
俺は深呼吸をして、ペンタブに向かった。
夜明けはまだ遠い。
でも、俺たちの物語には、必ず朝が来る。
そう信じて、俺は再び描き始めた。