夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
真田さんのスペース配信が終わった後、俺は結局一睡もできなかった。
興奮していたわけじゃない。
ただ、心臓の奥に重たい鉛を流し込まれたような、静かな圧迫感があったからだ。
「……責任、取らなきゃな」
朝の光が差し込むリビングで、俺は冷めたコーヒーを啜りながら呟いた。
俺が死んだことで、一人の男の人生を狂わせてしまった。
彼は「共犯者」と言った。
俺を殺した共犯者だと。
ふざけるな。そんな汚名を着せたまま、のんびり暮らせるわけがない。
俺は如月雪の細い指を見つめた。
この手は、まだ動く。
この心臓は、まだ動いている。
なら、やることは一つだ。
彼を解放してやる。
「東條樹を殺した編集者」という呪いから、真田健一を救い出してやる。
そのためには、言葉はいらない。
俺たちが共有できる言語は「漫画」だけだ。
「よし」
俺は立ち上がり、顔を洗った。
鏡の中の少女は、目の下が少し赤かったが、瞳には強い光が宿っていた。
昨夜の涙は、もう乾いている。
今は、戦士の顔だ。
PCの電源を入れる。
ファンの回転音が、戦闘機のエンジンのように唸る。
俺は愛用の左手デバイスを握りしめ、クリップスタジオを起動した。
これまでは「リハビリ」だった。
「二次創作」という言い訳に逃げていた。
だが、今日からは違う。
俺はNemoという皮を被った、東條樹だ。
プロの漫画家として、未完の物語に決着をつける。
俺はOBSの設定画面を開いた。
タイトル入力欄にカーソルを合わせる。
いつもなら『お絵かき練習』とか『落書き』とか、予防線を張るようなタイトルにしていた。
だが、今回は迷わず打ち込んだ。
『アークエンド 最終章 開幕』
エンターキーを叩く音が、やけに大きく響いた。
これは宣戦布告だ。
世界に対して、読者に対して、そして何より、真田さんに対しての。
配信開始ボタンを押す。
平日の午前十時。
普通なら人は集まらない時間帯だが、今のNemoには関係なかった。
通知が飛んだ瞬間、同接数が千、二千と跳ね上がる。
昨夜の真田さんのスペースの影響もあるだろう。
みんな、何かが起こるのを待っている。
『タイトル!?』
『最終章ってマジ?』
『Nemo先生、ついに本気出したか』
『真田さんの配信聞いた? あれへのアンサー?』
コメント欄がざわめく。
俺はマイクをミュートにしたまま、キャンバスに向かった。
描くのは、一枚絵ではない。
漫画だ。
それも、最終章の冒頭となる、重要な導入部分。
俺の頭の中には、すでにプロットがあった。
東條樹として死ぬ前に考えていた、悲劇的な結末へと向かうロードマップだ。
だが、俺はそれを頭の中でクシャクシャに丸めて捨てた。
違う。
あの頃の俺は、疲れていた。
追い詰められて、視野が狭くなって、「死こそが救済」みたいな安っぽい美学に囚われていた。
だから、アークを殺そうとした。
ヒロインを犠牲にしようとした。
でも、今の俺は知っている。
生きたいと願うことの強さを。
ご飯が美味しいことの幸せを。
友達と笑い合うことの温かさを。
如月雪という少女の記憶と、一度死んだ俺の経験が、物語の軌道を変えようとしていた。
「変えるぞ」
俺はペンを走らせた。
予定していた「絶望の始まり」ではない。
もっと泥臭くて、格好悪くて、でもどうしようもなく人間臭い「再起」の物語へ。
アークの顔を描く。
傷だらけだ。鎧もボロボロだ。
でも、その瞳は死んでいない。
『まだだ』と言っている。
『俺はまだ、何も守れちゃいない』と叫んでいる。
その表情は、今の俺自身であり、そして苦悩する真田さんの姿とも重なった。
筆が乗る。
ゾーンに入る感覚。
時間が消し飛ぶ。
コメント欄の流れも、空腹も、身体のダルさも、すべてが意識の外へ追いやられる。
ただ、線と自分だけが存在する世界。
一時間。二時間。
俺は一度も休憩を取らずに描き続けた。
自分でも驚くほどの集中力だ。
雪の身体が悲鳴を上げているのが分かる。腰が痛い。目が霞む。
だが、止まれない。
今ここで筆を止めたら、この熱量が冷めてしまう。
『Nemo先生、休憩して』
『鬼気迫るものがある』
『線が生きてる』
『これ、マジで東條先生なんじゃないか?』
『泣けてきた』
画面には、見開き二ページのラフが出来上がっていた。
それは、かつての『アークエンド』にはなかった、新しい風が吹いているような画面だった。
絶望的な状況下で、それでもアークが仲間たちに手を差し伸べるシーン。
「行こうぜ」というセリフが、聞こえてくるようだ。
その時、コメント欄に赤いスパチャが飛んだ。
金額は一万円。
名前は『Sanada』。
『見届けます。あなたの覚悟を』
短いメッセージ。
だが、それだけで十分だった。
彼は気づいている。
俺がプロットを変えたことに。
そして、その変更が何を意味するのかを。
俺は小さく笑った。
さすがだ、真田さん。
あんたには敵わないな。
俺はペンを置き、震える手でキーボードを叩いた。
配信画面上に、文字を表示させる。
『これはIFです。
でも、もし彼が生きていたら、きっとこう描きたかったはずだと信じています。
最後まで付き合ってください』
それは、Nemoとしての建前であり、東條樹としての本音だった。
配信を終了し、俺は椅子に深くもたれかかった。
天井を見上げる。
白い天井が、どこまでも高く見えた。
「……始まったな」
もう後戻りはできない。
最終章を描き終えるまで、この狂騒は続くだろう。
特定班の追及も、アンチの攻撃も、さらに激化するはずだ。
それでも、俺は描く。
この物語をハッピーエンドにするために。
そして、俺と真田さんと、雪の人生を、ハッピーエンドにするために。
俺はふらつく足取りで立ち上がり、冷蔵庫から水を取り出した。
冷たい水が、火照った身体に染み渡る。
生きている味がする。
「さて、ネームの続きをやるか」
休憩なんていらない。
今の俺は、無敵だ。
最強の「共犯者」が見守ってくれているのだから。