夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
カーテンの隙間から漏れる朝陽が、ダイニングテーブルの上に置かれた通帳を照らしていた。
『キサラギ コウサン』。
毎月二十五日に振り込まれる、百万円という大金。
それは、如月雪という少女の命を繋ぐ生命維持装置であり、同時に彼女をこの広いマンションに縛り付ける鎖でもあった。
「……汚い金だ」
俺はマグカップを片手に、その数字を見下ろして呟いた。
前世の俺は、原稿料と印税で食っていた。
自分の腕一本で稼いだ金だ。徹夜と腰痛と引き換えに得た、誇りある対価だ。
だが、この金は違う。
「邪魔者は静かにしていてくれ」という、親からの手切れ金だ。
雪が自殺未遂をしたあの日から、この金は彼女の首を絞め続けていたんじゃないか。
「いらないな、これ」
俺はぽつりと漏らした。
Nemoとしての活動が軌道に乗ってきた今、俺には別の収入源ができつつある。
配信のスーパーチャット、Creatiaの支援プラン。
まだ振り込まれてはいないが、計算上では来月から十分自立できる額になるはずだ。
何より、俺には「東條樹」としての経験がある。
いざとなれば、ネーム構成の仕事でも、イラストの仕事でも、いくらでも食い扶持は稼げる自信があった。
俺はスマホを取り出し、連絡先リストにあった『顧問弁護士・佐山』という名前に発信した。
コール音は三回で止まった。
『はい、佐山です。如月様、何かトラブルでも?』
事務的で、感情の欠落した声。
俺は深呼吸をして、雪の声帯を震わせた。
「いえ、トラブルではありません。お話があります。
今日、こちらに来ていただけませんか」
『……分かりました。午後に伺います』
それだけ言って、電話は切れた。
用件すら聞かない。
彼にとって俺は、クライアントの「処理すべき案件」の一つに過ぎないのだろう。
午後二時。
インターホンが鳴り、グレーのスーツを着た中年の男が現れた。
佐山弁護士だ。
リビングのソファに座るなり、彼は鞄から書類を取り出した。
「今月の生活費の確認と、領収書のサインをお願いします」
機械的な作業。
俺は書類を受け取らず、テーブルの上に置かれた通帳を、彼の方へ滑らせた。
「これ、お返しします」
佐山の手が止まった。
彼は眉一つ動かさず、眼鏡の奥から俺を見た。
「……どういう意味でしょう」
「もう、お金はいりません。
このマンションの家賃も、来月からは自分で払います。
それが無理なら、出て行きます」
俺は、練習しておいた台詞を淀みなく告げた。
佐山は初めて、感情の色を見せた。
呆れと、困惑だ。
「如月様。あなたはまだ未成年です。
ご両親の保護下にある以上、そのような勝手な真似は──」
「保護?」
俺は鼻で笑ってしまった。
十五歳の少女の口から出た嘲笑に、佐山が口ごもる。
「一年間、一度も顔を見せず、電話一本よこさないのが保護ですか?
これは飼育です。
私はペットじゃない。人間です」
強い言葉だったかもしれない。
でも、これは俺の言葉じゃない。
日記に残されていた、雪の叫びだ。
俺は彼女の代弁者として、この大人に突きつけなければならない。
「……ご両親には、どう説明すれば」
「『娘は元気でやっています』と。それだけで十分でしょう。
どうせ、彼らは私の生死になんて興味がない」
佐山はしばらく沈黙していたが、やがて通帳を鞄にしまった。
彼は優秀な弁護士なのだろう。
クライアント(両親)にとって一番面倒なのは、娘が騒ぎを起こすことだと理解している。
ならば、金を受け取らず静かに暮らすと言う娘の提案は、悪い話ではない。
「……分かりました。ご両親には私から伝えておきます。
ただし、未成年の契約には限界があります。
マンションの名義変更などは、後日改めて手続きを」
「構いません。
とにかく、今日から私は『如月雪』として生きます。
誰かの所有物じゃなく」
佐山は立ち上がり、一礼して去っていった。
重たい玄関ドアが閉まる音が、いつもより軽く聞こえた。
「ふぅ……」
俺はソファに深く沈み込んだ。
緊張した。
大人の男相手に啖呵を切るなんて、東條樹時代でも編集長相手くらいしかやったことがない。
でも、勝った。
俺は、雪を買い戻したんだ。
その時、再びインターホンが鳴った。
佐山が忘れ物でもしたのか?
モニターを見ると、そこには派手な金髪が映っていた。
「ユキー! 来たよー!」
ミカだ。
俺は苦笑しながらロックを解除した。
「うっわ、なんか空気重くない? 喪中?」
部屋に入ってくるなり、ミカは鼻をひくつかせた。
彼女の野生の勘は鋭い。
さっきまで弁護士という名の死神がいたことを察知したらしい。
「ううん。ちょっと、大掃除が終わったところ」
「掃除? 部屋、変わってないけど」
「心の掃除。……親からの仕送り、断ったんだ」
俺がさらりと言うと、ミカは持っていたコンビニ袋を取り落とした。
中からスナック菓子とコーラが転がり出る。
「はあ!? マジで!?
あんた、これからどうすんの? 霞でも食って生きる気?」
「働いてるよ。ネットで」
「え、まさかパパ活とかじゃないよね?」
「違うわ! 絵だよ、絵!」
俺は笑いながら否定した。
ミカは「あー、そっか。あのNemoってやつ?」と納得したように頷いた。
彼女には、俺がNemoであることを薄々勘付かれている気がする。
でも、深く追求しないのが彼女の優しさだ。
「まあ、ユキが決めたならいっか!
あの親の金で食う飯より、自分で稼いだ金で食うじゃがりこの方が美味いっしょ!」
「……うん。そうだな」
ミカは転がった菓子を拾い上げ、袋を開けた。
プシュッ、とコーラの炭酸が弾ける音。
俺たちは並んで座り、ジャンクフードを貪った。
弁護士とのヒリヒリした会話の後には、この安っぽい味が最高に染みた。
「ねえ、ユキ」
ポテトチップスを齧りながら、ミカが言った。
「あんた、最近変わったよね」
「そうかな」
「うん。前はさ、なんか透けて消えちゃいそうだったけど。
今はちゃんと、そこにいるって感じがする」
俺はコーラの缶を握りしめた。
そこにいる。
それは、俺が一番欲しかった言葉かもしれない。
東條樹という幽霊ではなく、如月雪という人間として、ここに存在していると認められた気がした。
「ミカちゃんのおかげだよ」
「は? キモッ。何急にデレてんの」
ミカは照れ隠しに俺の肩をバシッと叩いた。
痛い。
でも、その痛みさえも生々しくて嬉しかった。
夜、ミカが帰った後、俺は再びPCの前に座った。
Creatiaの管理画面を開く。
支援者数は、昨日の『最終章』投稿以来、爆発的に増えていた。
金額にして、サラリーマンの月収を軽く超えている。
「稼げるな」
俺は呟いた。
これは、親の金じゃない。
俺の絵に価値を感じてくれた人たちが、対価として支払ってくれた金だ。
これで家賃を払い、光熱費を払い、そして美味い飯を食う。
当たり前のことだが、今の俺にはそれが誇らしかった。
俺はキャンバスを開いた。
第163話。
アークたちが、自らの足で荒野を歩き出すシーン。
そこには、今日の俺の心情が色濃く反映されるだろう。
誰かに守られるのではなく、自分の意志で道を選ぶこと。
その厳しさと、自由の味。
「行くぞ、雪」
俺は心の中の少女に語りかける。
もう、誰も君を縛るものはいない。
この手で稼ぎ、この足で歩く。
それが、俺たちが選んだ「生存戦略」だ。
ペン先が走る。
モニターの中のアークが、不敵に笑った。
その顔は、昼間に弁護士を見返した時の俺の顔に、少し似ていたかもしれない。