夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
通帳の残高を見た瞬間、俺の思考は数秒間停止した。
「……え、いち、じゅう、ひゃく……」
桁を数える指が震える。
七桁だ。それも、頭の数字が大きい。
毎月二十五日、『キサラギコウサン』という名義で百万円が振り込まれている。
家賃や光熱費は別口で引き落とされているから、これは純粋な「生活費」らしい。
「高校生のお小遣いにしては、バグりすぎだろ」
俺はリビングのソファに深く沈み込んだ。
高級マンションに、最新の家電、そして毎月の大金。
だが、家の中に家族の写真は一枚もない。生活の痕跡があるのは、この広いリビングの隅にあるデスク周りと、寝室だけ。
親はいない。電話の一本もない。
ただ、金だけが機械的に送られてくる。
「手切れ金、あるいは口止め料……ってところか」
如月雪という少女の境遇が、少しだけ見えた気がした。
金はあるが、愛はない。
典型的なネグレクトか、あるいはもっと複雑な家庭の事情か。
昨日の遺書めいたメモと、大量の睡眠薬。
彼女にとってこの金は、自分を縛り付ける鎖のようなものだったのかもしれない。
「でもまあ、今の俺にはありがたい」
俺は通帳をテーブルに放り投げた。
感傷に浸っている場合じゃない。
俺は東條樹だ。一度死んで、生き返った。
この身体の持ち主が戻ってくる可能性があるなら、それまでこの「容れ物」を維持管理する義務がある。
そのためには金が必要だ。食うため、住むため、そして──描くために。
腹が鳴った。
可愛らしい音だが、胃袋が訴えている飢餓感は深刻だ。
俺はスマホを取り出し、フードデリバリーのアプリを開いた。
指が無意識に「ピザ」や「カツ丼」のカテゴリをタップしようとする。
締め切り前の深夜、ジャンクフードをコーラで流し込むのが俺の常食だった。
「……駄目だ」
俺は自分の指をぺちんと叩いた。
今のこの身体でそんなものを食ったら、間違いなく救急車行きだ。
それに、前世の俺を殺したのは、過労と不摂生だ。
二度目の人生で同じ轍を踏むわけにはいかない。
「検索、おかゆ。……いや、スープ専門店にするか」
野菜たっぷりのミネストローネと、柔らかいパンを注文した。
届くまでの間、俺は部屋の掃除をした。
散乱した睡眠薬の瓶を片付け、換気をする。
少し動くだけで息が切れる。体力はマイナスからのスタートだ。
三十分後、届いたスープを一口飲んだとき、五臓六腑に染み渡るとはこのことだと知った。
温かい。生きている味がする。
完食するのに時間はかかったが、身体の芯から熱が生まれてくるのを感じた。
「さて」
腹が満たされると、次に頭をもたげてくるのは「退屈」と「焦燥」だった。
俺は仕事場の椅子──エルゴヒューマンの高級チェアに座り直した。
座り心地は最高だ。腰への負担が少ない。
目の前には、まだ電源を入れていないPCと、大きな液晶タブレット。
俺はPCの電源を入れた。
高速な起動音とともに、デスクトップ画面が表示される。
壁紙は初期設定のまま。インストールされているのは、ブラウザと、プロ御用達のお絵かきソフト『クリスタ』だけ。
やはり、彼女も描くことが好きだったのか。あるいは、描こうとして挫折したのか。
ブラウザを開き、再び『アークエンド』について検索する。
昨日は見出しを見るだけで精一杯だったが、今日は少し冷静に中身を読める気がした。
大手掲示板の考察スレを開く。
そこには、俺が死んでから一年間、積み重ねられてきたファンたちの妄想と議論が渦巻いていた。
『最終章の展開予想。アークは魔王と刺し違えて死ぬはず』
『いや、東條先生の過去作の傾向からして、ヒロインが生贄になるバッドエンドだろ』
『未完だからこそ美しいんだよ。続きなんて誰も描けない』
画面をスクロールする手が止まる。
違う。
俺が描こうとしていたラストは、そんな絶望的なものじゃない。
主人公のアークは、全てを失ってもなお立ち上がり、最後には泥だらけで笑うんだ。
希望を描くために、俺はずっと伏線を張ってきた。
なのに、世間では「鬱展開の巨匠」みたいな扱いを受けている。
「……解釈違いだ」
苛立ちが募る。
作者本人なのに、反論できないもどかしさ。
俺の頭の中には、第158話の続き、第159話のネームが完成しているというのに。
「……リハビリ、するか」
独り言が口をついて出た。
描くつもりはなかった。まだ早い。
でも、この誤解されたままの空気を感じていると、呼吸が浅くなる。
線を引きたい。形を作りたい。
自分の存在証明を、画面の中に刻み込みたい。
俺は震える手で、スタイラスペンを握った。
軽い。
前世で使っていたものより細いが、グリップの感触は悪くない。
左手をキーボードのショートカットキーに置く。
身体が、指が、位置を覚えている。
ソフトを起動し、新規キャンバスを作成する。
真っ白な画面。
広大な雪原のような、あるいは深淵のような白。
「線一本、引くだけだ」
自分に言い聞かせ、ペン先を画面に走らせた。
シュッ、という擦れる音。
黒い線が一本、画面に現れる。
入りと抜き。筆圧の感知。
「……あ」
その一本で、分かった。
脳の信号が、ダイレクトに指先に伝わっている。
筋肉は衰えている。持久力もないだろう。
だが、「どう動かせばどういう線が引けるか」という感覚は、魂に焼き付いていた。
俺の手は、思考より速く動き始めた。
ラフのつもりだった。
丸を描き、十字を切り、輪郭を取る。
描くのは『アークエンド』のキャラじゃない。手癖で描ける、名もなき少女。
ザッ、ザッ、ザッ。
リズムが生まれる。
ショートカットキーを叩く音が、ドラムのように部屋に響く。
拡大、縮小、回転、反転。
レイヤーを重ね、瞳に光を入れる。
髪の毛の流れを、一本一本、風を感じるように描いていく。
楽しい。
ああ、なんて楽しいんだ。
線が繋がるたびに、脳内でエンドルフィンが炸裂する。
空腹も、身体のダルさも、孤独も、全てが消え去っていく。
俺は今、世界を創造している。
一時間後。
俺はペンを置き、大きく息を吐いた。
「……はぁ、はぁ」
肩で息をする。指先が微かに痺れている。
だが、画面の中には、確かな「生」があった。
こちらを見つめる少女のイラスト。
ラフのつもりが、つい熱が入って厚塗りまでしてしまった。
客観的に見ても、十五歳の少女が描いたとは思えないクオリティだ。
プロの技術。それも、業界トップクラスを走っていた東條樹の技術そのもの。
線の勢いは前世より少し弱いかもしれないが、その分、繊細さが増している。
この身体特有の感性みたいなものが、混ざり合っているのかもしれない。
「描ける……」
俺は自分の手を見つめた。
この白くて細い手は、魔法の杖だ。
これがあれば、俺はもう一度、あの世界に行ける。
「……これ、ネットに上げたらどうなるかな」
悪魔的な囁きが脳裏をよぎる。
承認欲求? いや、ただの確認だ。
俺の絵が、東條樹の名前がなくても通用するのか。
そして、この「如月雪」という少女の存在を、誰かに知らせたいという思いもある。
俺はまだ、その先に待っている地獄と天国を知らなかった。
ただ、久しぶりに味わう創作の熱に浮かされながら、俺は保存ボタンをクリックした。
ファイル名、『untitled』。
それが、全ての始まりだった。