夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
PC画面の隅で、時計の数字が深夜二時を回ったことを告げていた。
丑三つ時。草木も眠る時間だが、ネットの住人たちにとっては活動のピークタイムだ。
俺はモニターに映し出された配信ソフトの設定画面と睨めっこしていた。
『OBS Studio』。
前世でも作業配信に使っていたソフトだ。如月雪のPCには、これもしっかりインストールされていた。
しかも、マイクは数万円するコンデンサーマイク、オーディオインターフェースまで完備されている。
彼女は、配信者になりたかったのか?
それとも、ただ誰かと繋がりたくて、形から入っただけなのか。
「……マイクはオフ、と」
俺はミュートボタンを確認する。
この少女の声は可愛らしいが、中身は二十八歳の薄汚いおっさんだ。喋ればボロが出るし、そもそも「美少女絵師」として売り出すつもりはない。
あくまで、絵だけで勝負する。
今の俺は、過去の栄光も名前も持たない、ただの新人だ。
アカウント名は決めてある。
『Nemo』
ラテン語で「誰でもない」。
ジュール・ヴェルヌの小説に出てくる潜水艦の艦長の名前でもあるが、今の俺には「名無し」の意味がしっくりくる。
死んだはずの男が、他人の身体で描く絵。
そこに個人のアイデンティティなんて乗せられない。
「さて……」
マウスカーソルを『配信開始』ボタンの上に合わせる。
指先が微かに震えた。
緊張しているのか? 俺が?
週刊連載で何百万人という読者を相手にしていた東條樹が、たかだか個人のテスト配信で?
いや、違う。これは武者震いだ。
一年間、誰にも見せられなかった絵を、世界に晒す瞬間への渇望。
深呼吸を一つして、俺はクリックした。
『LIVE』の赤いアイコンが点灯する。
接続完了。
同接者数、ゼロ。
「まあ、そんなもんだよな」
当たり前だ。フォロワーもいない、宣伝もしていない完全新規のアカウント。
タイトルは『深夜の落書き』。
タグは『#お絵かき』『#初見さん歓迎』といったありきたりなものだけ。
誰も見に来ないかもしれない。
それでもいい。誰かの目に触れる可能性があるというだけで、筆の乗りが違う。
俺はBGMにフリー素材のローファイ・ヒップホップを流し、ペンを握った。
キャンバスは真っ白。
何を描くか。
『アークエンド』のキャラは駄目だ。手癖でバレるリスクがあるし、何より精神衛生上よろしくない。
無難なものがいい。
俺はグレーのブラシを選び、ざっくりとしたアタリを取り始めた。
動物にしよう。
狼だ。
それも、吹雪の中に佇む、孤高の狼。
今の俺の心境にぴったりだ。
ザッ、ザッ、ザッ。
静寂な部屋に、ペン先が走る音だけが響く。
キーボードのショートカットを叩く音が、心地よいリズムを刻む。
一分、五分、十分。
視聴者数はゼロのまま。
俺は画面の向こうに誰もいないことを確認しつつ、没頭していった。
毛並みの質感。
冷たい空気感。
吐く息の白さ。
描き進めるうちに、俺の意識は「如月雪の部屋」から「キャンバスの中」へと完全に移行していた。
楽しい。
ただ線を引くだけのことが、こんなに気持ちいいなんて。
前世の末期は、描くことが苦痛でしかなかった。締め切り、プレッシャー、読者の期待。
それらから解放された純粋な創作が、ここにある。
三十分ほど経った頃だろうか。
ふと、サブモニターのコメント欄が動いた。
『初見』
心臓が跳ねた。
一人目だ。
どこかの誰かが、タグ検索か何かで迷い込んできたらしい。
俺は反応したい衝動を抑え、手を止めずに描き続けた。
無言配信だというスタンスを貫く。
『え、うまくね?』
『これ写真?』
『いや描いてるっぽい。左手デバイスの音聞こえるし』
コメントがポツポツと増え始める。
同接数が「1」から「5」へ、そして「12」へと増えていく。
深夜のネットの海を漂流していた暇人たちが、灯りに吸い寄せられる虫のように集まってくる。
『この狼、毛の質感がヤバい』
『プロの人?』
『Nemo……聞いたことない名前だな』
褒め言葉が並ぶ。
単純に、嬉しい。
「東條樹だから」というバイアスなしに、純粋に今の俺の画力が評価されている。
俺の口元が自然と緩んだ。
調子に乗って、背景の雪景色にディテールを加え始める。
枯れ木に積もる雪の重み、遠近感を出すためのぼかし処理。
プロの技術を惜しみなく投入する。
視聴者数が「50」を超えた。
コメントの流れが速くなる。
『神絵師発見』
『拡散しとくわ』
『深夜にこんなもん見せられたら寝れねーよ』
承認欲求の渇きが、水を得た魚のように満たされていく。
そうだ、これだ。
俺はこの感覚を知っている。
自分の内側から吐き出したものが、他人の心を揺らす瞬間。
俺は、まだここにいていいんだ。
その時だった。
一つのコメントが、俺の目を釘付けにした。
『なんかこのタッチ、既視感あるな』
俺の手がピタリと止まる。
心臓が嫌な音を立てた。
既視感。
それは、俺が最も恐れている言葉だ。
『あー、わかる。線の入り抜きとか』
『瞳の描き方かな? 誰だっけ、あの人』
『一年前に死んだ、東條先生に似てない?』
冷や水をぶっかけられたような気分だった。
東條樹。
その名前が出た瞬間、チャット欄がざわつき始めた。
『それだ! アークエンドの作者!』
『言われてみれば似てるかも』
『いやいや、東條先生はもっと線が太いだろ』
『でもこの空気感、アシスタントとかじゃないの?』
まずい。
俺は唇を噛んだ。
手癖は隠せない。無意識のうちに、俺の「作家としての指紋」が画面に出てしまっている。
このままでは、ただの「東條樹のパクリ絵師」として認定されるか、最悪の場合、正体を探られることになる。
俺は慌ててブラシの設定を変えた。
普段は使わない、荒々しいテクスチャの油彩ブラシ。
画風を変えるんだ。
もっとラフに、もっと暴力的に。
繊細な東條樹の絵とは違う、エッジの効いた塗りを重ねていく。
『お、塗り方変わった』
『すげえ、一気に雰囲気変わったぞ』
『東條先生とは違うな。もっと今風だ』
『ごめん、勘違いだったわ。これオリジナルだ』
コメントの流れが変わるのを見て、俺は安堵の息を吐いた。
危なかった。
やはり、俺の絵は世間に深く刻まれている。
死後一年経ってもなお、こうして誰かの記憶に残っていることは光栄だが、今の俺にとっては地雷原を歩くようなものだ。
一時間半が経過し、絵はほぼ完成した。
吹雪の中で、青い瞳を光らせる狼。
その瞳は、どこか俺自身を見透かしているようで、描いていて少し怖くなった。
『完成?』
『乙』
『88888888』
『初配信でこれは伝説だろ』
『フォローした』
同接数は最終的に三百人近くまで伸びていた。
深夜の突発、無名の新人にしては異常な数字だ。
俺は『Thank you for watching』というテキストを画面に手書きして、配信停止ボタンを押した。
「……ふぅ」
一気に脱力する。
背中が汗でびっしょりだった。
ヘッドホンを外し、デスクに突っ伏す。
疲れた。でも、心地よい疲れだ。
久しぶりに「全力疾走」をした後のような、筋肉の心地よい張り。
「俺、生きてるなぁ……」
呟いた声は、相変わらず美少女のものだったが、その響きには確かな熱がこもっていた。
如月雪の身体も、少しだけ熱を帯びている気がする。
彼女もまた、俺を通して何かを感じてくれているだろうか。
アーカイブを残すかどうか迷ったが、とりあえず非公開にしておくことにした。
まだ、正体を悟られるリスクを完全に排除できていない。
戦略が必要だ。
東條樹の幻影を匂わせつつ、あくまで「Nemo」という別人格として確立させるための。
水を飲もうと席を立った時、PCから通知音が鳴った。
Twitter──いや、XのDM通知だ。
アカウントは配信と同時に作ったばかり。フォロワーもまだ数人しかいないはずだ。
誰だろう。
スパムか、それとも勧誘か。
俺は警戒しつつ、DMを開いた。
アイコンは初期設定のままの人。
文面は短かった。
『初めまして、配信見させてもらいました。
あなたの絵に、魂が震えました。
無躾なお願いですが、リクエストを受けていただくことは可能でしょうか?』
丁寧な文章だ。
だが、続く一文を見て、俺は持っていたペットボトルを取り落としそうになった。
『もし可能であれば、漫画『アークエンド』の主人公、アークを描いていただけないでしょうか。
あなたの画力で、あの続きが見てみたいのです』
「……っ」
息が止まる。
アークエンド。
俺が命を削って描いた、俺の子供。
そして、未完のまま置き去りにしてしまった、最大の心残り。
これは偶然か?
それとも、さっきの「東條樹に似ている」というコメントを見た誰かの、カマかけか?
あるいは、純粋に俺の画力に「if」を求めたファンの願いなのか。
俺はモニターの中の文字を見つめ続けた。
断るべきだ。
描けば、間違いなくバレる。
俺がアークを描けば、それは「似ている」では済まない。「本物」になってしまう。
筆跡、表情の作り方、鎧の質感。
俺以外には描けない線がある。
だが。
断れるのか?
俺の右手が、小さく痙攣した。
描きたい。
その強烈な欲求が、理性を食い破ろうとしていた。
俺の中のアークが、叫んでいる。
「まだ終わってない」と。
「……意地悪な世界だ」
俺は苦笑いを浮かべ、そのDMを既読のまま閉じた。
返信はしない。
今はまだ、答えを出せない。
窓の外では、東の空が白み始めていた。
長い夜が終わろうとしている。
だが、俺の、Nemoとしての物語は、まだ始まったばかりだ。
そしてその物語は、俺が思っている以上に、危険で、甘美な罠に満ちていることを、俺はまだ知らなかった。