夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く   作:匿名TS美少女

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3話

 PC画面の隅で、時計の数字が深夜二時を回ったことを告げていた。

 丑三つ時。草木も眠る時間だが、ネットの住人たちにとっては活動のピークタイムだ。

 

 俺はモニターに映し出された配信ソフトの設定画面と睨めっこしていた。

『OBS Studio』。

 前世でも作業配信に使っていたソフトだ。如月雪のPCには、これもしっかりインストールされていた。

 しかも、マイクは数万円するコンデンサーマイク、オーディオインターフェースまで完備されている。

 彼女は、配信者になりたかったのか? 

 それとも、ただ誰かと繋がりたくて、形から入っただけなのか。

 

「……マイクはオフ、と」

 

 俺はミュートボタンを確認する。

 この少女の声は可愛らしいが、中身は二十八歳の薄汚いおっさんだ。喋ればボロが出るし、そもそも「美少女絵師」として売り出すつもりはない。

 あくまで、絵だけで勝負する。

 今の俺は、過去の栄光も名前も持たない、ただの新人だ。

 

 アカウント名は決めてある。

 

 『Nemo』

 

 ラテン語で「誰でもない」。

 ジュール・ヴェルヌの小説に出てくる潜水艦の艦長の名前でもあるが、今の俺には「名無し」の意味がしっくりくる。

 死んだはずの男が、他人の身体で描く絵。

 そこに個人のアイデンティティなんて乗せられない。

 

「さて……」

 

 マウスカーソルを『配信開始』ボタンの上に合わせる。

 指先が微かに震えた。

 緊張しているのか? 俺が? 

 週刊連載で何百万人という読者を相手にしていた東條樹が、たかだか個人のテスト配信で? 

 

 いや、違う。これは武者震いだ。

 一年間、誰にも見せられなかった絵を、世界に晒す瞬間への渇望。

 深呼吸を一つして、俺はクリックした。

 

『LIVE』の赤いアイコンが点灯する。

 接続完了。

 同接者数、ゼロ。

 

「まあ、そんなもんだよな」

 

 当たり前だ。フォロワーもいない、宣伝もしていない完全新規のアカウント。

 タイトルは『深夜の落書き』。

 タグは『#お絵かき』『#初見さん歓迎』といったありきたりなものだけ。

 誰も見に来ないかもしれない。

 それでもいい。誰かの目に触れる可能性があるというだけで、筆の乗りが違う。

 

 俺はBGMにフリー素材のローファイ・ヒップホップを流し、ペンを握った。

 キャンバスは真っ白。

 何を描くか。

『アークエンド』のキャラは駄目だ。手癖でバレるリスクがあるし、何より精神衛生上よろしくない。

 無難なものがいい。

 

 俺はグレーのブラシを選び、ざっくりとしたアタリを取り始めた。

 動物にしよう。

 狼だ。

 それも、吹雪の中に佇む、孤高の狼。

 今の俺の心境にぴったりだ。

 

 ザッ、ザッ、ザッ。

 静寂な部屋に、ペン先が走る音だけが響く。

 キーボードのショートカットを叩く音が、心地よいリズムを刻む。

 一分、五分、十分。

 視聴者数はゼロのまま。

 俺は画面の向こうに誰もいないことを確認しつつ、没頭していった。

 

 毛並みの質感。

 冷たい空気感。

 吐く息の白さ。

 描き進めるうちに、俺の意識は「如月雪の部屋」から「キャンバスの中」へと完全に移行していた。

 楽しい。

 ただ線を引くだけのことが、こんなに気持ちいいなんて。

 前世の末期は、描くことが苦痛でしかなかった。締め切り、プレッシャー、読者の期待。

 それらから解放された純粋な創作が、ここにある。

 

 三十分ほど経った頃だろうか。

 ふと、サブモニターのコメント欄が動いた。

 

『初見』

 

 心臓が跳ねた。

 一人目だ。

 どこかの誰かが、タグ検索か何かで迷い込んできたらしい。

 俺は反応したい衝動を抑え、手を止めずに描き続けた。

 無言配信だというスタンスを貫く。

 

『え、うまくね?』

『これ写真?』

『いや描いてるっぽい。左手デバイスの音聞こえるし』

 

 コメントがポツポツと増え始める。

 同接数が「1」から「5」へ、そして「12」へと増えていく。

 深夜のネットの海を漂流していた暇人たちが、灯りに吸い寄せられる虫のように集まってくる。

 

『この狼、毛の質感がヤバい』

『プロの人?』

『Nemo……聞いたことない名前だな』

 

 褒め言葉が並ぶ。

 単純に、嬉しい。

「東條樹だから」というバイアスなしに、純粋に今の俺の画力が評価されている。

 俺の口元が自然と緩んだ。

 調子に乗って、背景の雪景色にディテールを加え始める。

 枯れ木に積もる雪の重み、遠近感を出すためのぼかし処理。

 プロの技術を惜しみなく投入する。

 

 視聴者数が「50」を超えた。

 コメントの流れが速くなる。

 

『神絵師発見』

『拡散しとくわ』

『深夜にこんなもん見せられたら寝れねーよ』

 

 承認欲求の渇きが、水を得た魚のように満たされていく。

 そうだ、これだ。

 俺はこの感覚を知っている。

 自分の内側から吐き出したものが、他人の心を揺らす瞬間。

 俺は、まだここにいていいんだ。

 

 その時だった。

 一つのコメントが、俺の目を釘付けにした。

 

『なんかこのタッチ、既視感あるな』

 

 俺の手がピタリと止まる。

 心臓が嫌な音を立てた。

 既視感。

 それは、俺が最も恐れている言葉だ。

 

『あー、わかる。線の入り抜きとか』

『瞳の描き方かな? 誰だっけ、あの人』

『一年前に死んだ、東條先生に似てない?』

 

 冷や水をぶっかけられたような気分だった。

 東條樹。

 その名前が出た瞬間、チャット欄がざわつき始めた。

 

『それだ! アークエンドの作者!』

『言われてみれば似てるかも』

『いやいや、東條先生はもっと線が太いだろ』

『でもこの空気感、アシスタントとかじゃないの?』

 

 まずい。

 俺は唇を噛んだ。

 手癖は隠せない。無意識のうちに、俺の「作家としての指紋」が画面に出てしまっている。

 このままでは、ただの「東條樹のパクリ絵師」として認定されるか、最悪の場合、正体を探られることになる。

 

 俺は慌ててブラシの設定を変えた。

 普段は使わない、荒々しいテクスチャの油彩ブラシ。

 画風を変えるんだ。

 もっとラフに、もっと暴力的に。

 繊細な東條樹の絵とは違う、エッジの効いた塗りを重ねていく。

 

『お、塗り方変わった』

『すげえ、一気に雰囲気変わったぞ』

『東條先生とは違うな。もっと今風だ』

『ごめん、勘違いだったわ。これオリジナルだ』

 

 コメントの流れが変わるのを見て、俺は安堵の息を吐いた。

 危なかった。

 やはり、俺の絵は世間に深く刻まれている。

 死後一年経ってもなお、こうして誰かの記憶に残っていることは光栄だが、今の俺にとっては地雷原を歩くようなものだ。

 

 一時間半が経過し、絵はほぼ完成した。

 吹雪の中で、青い瞳を光らせる狼。

 その瞳は、どこか俺自身を見透かしているようで、描いていて少し怖くなった。

 

『完成?』

『乙』

『88888888』

『初配信でこれは伝説だろ』

『フォローした』

 

 同接数は最終的に三百人近くまで伸びていた。

 深夜の突発、無名の新人にしては異常な数字だ。

 俺は『Thank you for watching』というテキストを画面に手書きして、配信停止ボタンを押した。

 

「……ふぅ」

 

 一気に脱力する。

 背中が汗でびっしょりだった。

 ヘッドホンを外し、デスクに突っ伏す。

 疲れた。でも、心地よい疲れだ。

 久しぶりに「全力疾走」をした後のような、筋肉の心地よい張り。

 

「俺、生きてるなぁ……」

 

 呟いた声は、相変わらず美少女のものだったが、その響きには確かな熱がこもっていた。

 如月雪の身体も、少しだけ熱を帯びている気がする。

 彼女もまた、俺を通して何かを感じてくれているだろうか。

 

 アーカイブを残すかどうか迷ったが、とりあえず非公開にしておくことにした。

 まだ、正体を悟られるリスクを完全に排除できていない。

 戦略が必要だ。

 東條樹の幻影を匂わせつつ、あくまで「Nemo」という別人格として確立させるための。

 

 水を飲もうと席を立った時、PCから通知音が鳴った。

 Twitter──いや、XのDM通知だ。

 アカウントは配信と同時に作ったばかり。フォロワーもまだ数人しかいないはずだ。

 誰だろう。

 スパムか、それとも勧誘か。

 

 俺は警戒しつつ、DMを開いた。

 アイコンは初期設定のままの人。

 文面は短かった。

 

『初めまして、配信見させてもらいました。

 あなたの絵に、魂が震えました。

 無躾なお願いですが、リクエストを受けていただくことは可能でしょうか?』

 

 丁寧な文章だ。

 だが、続く一文を見て、俺は持っていたペットボトルを取り落としそうになった。

 

『もし可能であれば、漫画『アークエンド』の主人公、アークを描いていただけないでしょうか。

 あなたの画力で、あの続きが見てみたいのです』

 

「……っ」

 

 息が止まる。

 アークエンド。

 俺が命を削って描いた、俺の子供。

 そして、未完のまま置き去りにしてしまった、最大の心残り。

 

 これは偶然か? 

 それとも、さっきの「東條樹に似ている」というコメントを見た誰かの、カマかけか? 

 あるいは、純粋に俺の画力に「if」を求めたファンの願いなのか。

 

 俺はモニターの中の文字を見つめ続けた。

 断るべきだ。

 描けば、間違いなくバレる。

 俺がアークを描けば、それは「似ている」では済まない。「本物」になってしまう。

 筆跡、表情の作り方、鎧の質感。

 俺以外には描けない線がある。

 

 だが。

 断れるのか? 

 俺の右手が、小さく痙攣した。

 描きたい。

 その強烈な欲求が、理性を食い破ろうとしていた。

 俺の中のアークが、叫んでいる。

「まだ終わってない」と。

 

「……意地悪な世界だ」

 

 俺は苦笑いを浮かべ、そのDMを既読のまま閉じた。

 返信はしない。

 今はまだ、答えを出せない。

 

 窓の外では、東の空が白み始めていた。

 長い夜が終わろうとしている。

 だが、俺の、Nemoとしての物語は、まだ始まったばかりだ。

 そしてその物語は、俺が思っている以上に、危険で、甘美な罠に満ちていることを、俺はまだ知らなかった。

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