夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
朝、目が覚めると、スマホが文鎮になっていた。
比喩ではなく、バッテリーが完全に放電しきって沈黙していたのだ。
充電ケーブルを差し込み、数分待って再起動すると、今度は通知の嵐でフリーズしかけた。
「……うわぁ」
如月雪の可憐な唇から、おっさんのような呻き声が漏れる。
Xの通知欄が「99+」でカンストしている。
恐る恐るトレンドを確認すると、日本のトレンド1位に『#Nemo』、2位に『#アークエンドの続き』、3位に『東條樹』が並んでいた。
「やっちまった……」
俺はベッドの上で頭を抱えた。
昨日のテンションはおかしかった。
久しぶりに絵を描けた喜びと、自分の作品が誤解されていることへの憤りで、ドーパミンがドバドバ出ていたに違いない。
『二次創作』という免罪符があれば許されると思っていたが、そのクオリティが許容範囲をぶっちぎってしまったらしい。
投稿したイラスト『希望』の「いいね」数は、一晩で二十万を超えていた。
リプライ欄をスクロールする指が震える。
『神絵師爆誕』
『これ公式じゃないの?』
『泣いた。アークはまだ笑えるんだ』
『生きる希望が湧きました』
称賛の嵐。
正直に言えば、めちゃくちゃ気持ちよかった。
死後一年、誰にも届かなかった俺の声が、こうして世界に響いている。
承認欲求という名の麻薬が、脳髄を痺れさせる。
俺はまだ、終わっちゃいない。東條樹の魂はここにある。
だが、甘美な時間のあとには、必ず副作用がやってくる。
リプライ欄をさらに下にスクロールしていくと、空気が変わった。
『死人商法乙』
『東條先生の画風パクって承認欲求満たすなよ』
『AIに学習させたんだろ? 線の処理が不自然』
『未完だから美しいのに、勝手な解釈で汚さないでほしい』
アンチの出現だ。
俺の胃がキリキリと痛んだ。
「パクリ」「冒涜」「偽物」。
投げつけられる言葉の一つ一つが、鋭利な刃物となって刺さる。
特に「東條樹への敬意がない」という批判は、皮肉すぎて笑うしかなかった。
俺が俺に敬意を払えって? こっちは必死に生きてるだけなんだが。
「……でも、逆に好都合か」
俺はふと、冷静になった。
アンチがいるということは、「Nemo=東條樹本人」という可能性が否定されているということだ。
「よくできた偽物」「高精度のAI」「リスペクト過剰なファン」。
世間がそう思ってくれているなら、正体がバレることはない。
俺は「謎の天才新人絵師」というポジションで、のらりくらりとやっていけばいい。
そう楽観視して、俺は匿名掲示板の「Nemo特定スレ」を開いた。
そして、顔面蒼白になった。
そこには、俺の予想を遥かに超える「解析」が行われていたからだ。
『配信アーカイブの音声解析したわ。キーボードの打鍵音からして、Realforceの静音モデル』
『左手デバイスはTourBoxだな。カチカチ音が特徴的』
『ペンの運び方、ストロークの速度、これ完全にプロの挙動だぞ』
『東條先生のアシスタント説が濃厚じゃね?』
特定班の執念が凄まじい。
使用機材までバレている。
だが、一番怖かったのは、ある一つの書き込みだった。
『ID:Edit_Pro >> こいつの線の入り抜き、東條樹の原画と比較してみた。
迷い線の角度、ハッチングのピッチ、全部一致する。
特に、キャラの視線を誘導するための構図の重心。
これは「真似」でできるレベルじゃない。
本人の手癖そのものだ』
背筋が凍った。
専門的すぎる。
ただの絵描きオタクの分析じゃない。編集者か、同業者か、あるいは研究者か。
「Edit_Pro」というIDの主は、俺の絵を丸裸にしていた。
まるで、俺の指紋を採取して照合しているかのように。
「……誰だ、これ」
俺は無意識に自分の左手を握りしめた。
隠せない。
指紋を変えることができないように、十年かけて染み付いた「作家としての手癖」は、そう簡単には消せないのだ。
さらにスレッドには、不穏な空気が漂い始めていた。
『Nemoの配信時間、平日の昼間だよな』
『ニートか?』
『いや、不登校の学生か、金持ちの道楽か』
『背景の映り込み解析班、仕事しろ』
『昨日の宅配便の音、高級マンション特有の重いドア音だったぞ』
やばい。
如月雪としての生活が脅かされる。
もし住所が特定されたら、この安息の地は失われる。
マスコミが押し寄せ、雪の両親にも迷惑がかかり、最悪の場合、俺という存在のイレギュラーさが露見する。
「……対策しなきゃ」
俺はPCに向かい、OBSの設定を徹底的に見直した。
ノイズキャンセリングを最強にする。
環境音が入らないように、マイクの感度を下げる。
部屋のカーテンをガムテープで目張りして、外の光や景色が一切映り込まないようにする。
「これなら……」
そこまでして、なぜ描くのをやめないのか。
恐怖はある。リスクもある。
それでも、モニターの中の『アーク』が、俺を見つめているからだ。
「続きは?」と問いかけてくるからだ。
俺は唇を噛んだ。
アンチの言葉も、特定班の影も怖い。
だけど、それ以上に怖いのは、このまま「描かない」選択をして、二度目の人生も「誰にもなれずに」終えることだ。
ピロン、と通知音が鳴る。
DMだ。
反射的に身構える。
差出人は知らないアカウント。アイコンはない。
『初めまして。突然のご連絡失礼いたします。
集英談社、編集部の真田と申します。
あなたの絵について、重要なお話があります』
心臓が、口から飛び出しそうになった。
真田さん。
やっぱり、あんたか。
さっきの掲示板の書き込み、まさかあんたじゃないよな?
『重要なお話』。
それは勧誘か、それとも「東條樹の権利侵害」に対する警告か。
あるいは──「お前は誰だ」という尋問か。
俺の手は震えていた。
返信ボタンを押すべきか、ブロックすべきか。
画面の向こうに、かつての戦友であり、今は俺を追い詰める狩人となった男の顔が浮かぶ。
その目はきっと、獲物を狙う鷹のように鋭く、そして飢えているはずだ。
「……今は、無理だ」
俺はそっとブラウザを閉じた。
逃げたと言われてもいい。
今の俺は、ただの十五歳の少女だ。
百戦錬磨の敏腕編集者と対峙できる精神状態じゃない。
俺は膝を抱えて、薄暗い部屋の中で息を殺した。
世界中が俺を探している。
「Nemo」という正体不明の幽霊を。
その恐怖と、奇妙な高揚感が、俺の身体を熱くしていた。
「描くよ。……描いてやるさ」
震える声で呟く。
見つかるのが先か、描き切るのが先か。
これは俺と世界との、鬼ごっこだ。
そして鬼は、俺が一番よく知っている、あいつだ。