夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
通知を見て見ぬふりをするというのは、案外精神力を削られるものだ。
『集英談社・真田』からのDM。
俺はそれをそっと「未読」に戻すこともできず、かといって「既読」をつけてしまった罪悪感に苛まれながら、スマホを布団の奥底へ放り投げた。
「……無理だって」
独り言が漏れる。
真田さんは、俺の前世の担当編集だ。
新人時代から二人三脚で歩んできた戦友であり、締め切り前には鬼のような形相で俺の家に泊まり込み、原稿を毟り取っていった男でもある。
あいつの勘は鋭い。
もし不用意に返信して、言葉の選び方や文体の癖で「東條樹」だとバレたら?
「如月雪の人生が終わる」
俺は枕に顔を埋めた。
死んだ人間が美少女に転生してました、なんてオカルト、誰が信じる?
頭がおかしくなったと思われるか、あるいは本当に信じられて研究所送りにされるかだ。
どっちにしろ、平穏な生活は吹き飛ぶ。
「……でも、描きたい」
布団の中で、俺の右手がシーツを握りしめた。
恐怖はある。
バレるかもしれないリスクもある。
それでも、頭の中には『アークエンド』の続きが、奔流のように溢れ出しているのだ。
あのDMを見た衝撃で、逆にスイッチが入ってしまったらしい。
俺は布団を跳ね除け、机に向かった。
PCの電源を入れる前に、アナログのクロッキー帳を開く。
鉛筆を握る。
『第159話 ネーム』
震える文字でそう書き込んだ瞬間、脳内の映像が紙の上に雪崩れ込んできた。
アークが立ち上がるシーン。
仲間たちが彼を支えるシーン。
そして、絶望的な状況を覆すための、たった一つの秘策。
本来なら、去年の春に週刊少年ジャンプ的な雑誌に載るはずだった幻の原稿だ。
ガリガリガリッ。
鉛筆の芯が削れる音が、静かな部屋に響く。
止まらない。
コマ割りが、セリフが、表情が、次々と形になっていく。
一時間もしないうちに、俺は一話分のネームを描き上げていた。
「……面白い」
自画自賛だが、面白い。
これをペン入れして、仕上げたらどうなる?
見たい。俺自身が、一番見たい。
「やるか」
俺はPCを起動した。
配信ソフト『OBS』を立ち上げる。
タイトルは『作業配信:漫画練習』。
タグには『#創作』『#新人』。
そして、迷った末に『#アークエンド二次創作』を追加した。
もう逃げない。
俺は「Nemo」だ。ただのアークエンドオタクの神絵師だ。
そういう設定で押し通す。
配信開始ボタンをクリック。
待機していた視聴者が、雪崩を打って入ってくる。
同接数は開始一分で千人を超えた。
昨日のバズりのおかげで、注目度は桁違いだ。
『待ってた』
『今日は何描くの?』
『Nemo先生きたああああ』
好意的なコメントに混じって、アンチのコメントもちらほら見える。
『パクリ乙』
『今日はどんなトレースを見せてくれるんですか?』
俺はそれらを意識的に視界から外し、キャンバスにペンを落とした。
下書きレイヤーに、さっきのネームを元にしたラフを描き始める。
その時だった。
『ピロリン♪』
軽快な通知音と共に、画面の上部に真っ赤な帯が表示された。
スーパーチャット。
金額は、上限いっぱいの五万円。
コメント欄が一瞬で止まり、次の瞬間、爆発的な勢いで流れ出した。
『うおおおおお!?』
『赤スパ!?』
『石油王きた』
俺の心臓が早鐘を打つ。
五万円なんて大金、中学生や高校生が投げられる額じゃない。
恐る恐る、送り主の名前を確認する。
『Sanada』
アイコンは、見覚えのある黒猫の写真。
真田さんが飼っている猫だ。
そして、添えられたメッセージは、俺の呼吸を止めるのに十分な破壊力を持っていた。
『あなたの絵に感動しました。一度お話できませんか。DMを送っています』
「……っ!?」
俺は危うくペンを落とすところだった。
公開処刑だ。
何千人も見ている前で、天下の集英談社の編集者が、新人に「話がしたい」と直談判に来たのだ。
これはもう、勧誘なんて生易しいものじゃない。
「お前を見ているぞ」という、強烈なプレッシャーだ。
視聴者たちが騒ぎ出す。
『Sanadaって、あの真田編集?』
『本物だ! 本物が来たぞ!』
『Nemo先生、プロデビュー確定演出!?』
『逃げてー! 編集者に捕まるぞー!』
俺の左手が、キーボードの上で硬直した。
どうする?
「ありがとうございます」と反応するべきか?
いや、声を出せばボロが出る。
チャットで返すか?
なんて? 「検討します」? それとも「興味ありません」?
東條樹なら、ここでどう返す?
いや、俺はNemoだ。Nemoならどうする?
思考がぐるぐると空回りする。
冷や汗が背中を伝う。
画面の向こうで、真田さんが腕を組んで、ニヤリと笑っている姿が目に浮かぶようだ。
あの人は、俺が追い詰められた時に一番いい顔をすることを知っている。
性格の悪い男だ。
「……無視だ」
俺は奥歯を噛み締めた。
反応したら負けだ。
俺はあくまで、趣味で描いているだけの一般人。
プロの編集者なんて知りません、という態度を貫くしかない。
俺は震える手でペンを握り直し、キャンバスに向かった。
線の運びが乱れる。
アークの顔が歪む。
くそっ、集中できない。
視界の端に、あの赤いスパチャが残り続けている。
五万円の重圧。
『Nemo先生、スルーかよw』
『大物すぎる』
『編集者の赤スパ無視して漫画描くとか、メンタル強すぎんだろ』
視聴者たちは俺の沈黙を「大物ムーブ」と受け取ったらしい。
違うんだよ。ビビって声が出ないだけなんだよ。
だが、不思議なことに、描き進めるうちに乱れていた線が安定し始めた。
恐怖が、集中力へと変換されていく感覚。
そうだ。俺はこうやって、ずっと描いてきた。
締め切りという恐怖。読者の期待という重圧。
それらから逃げる唯一の方法は、作品の世界に没入することだけだった。
俺はゾーンに入った。
真田さんの存在を意識から追い出し、目の前のコマ割りにだけ集中する。
アークが叫ぶ。
剣を振るう。
効果音を描き込む。
「ドンッ!!」
力強い筆致。
いつの間にか、俺は二次創作の枠を超えていた。
これは、ファンアートじゃない。
漫画原稿だ。
プロの技術と、本人の魂が込められた、紛れもない「第159話」。
一時間後。
俺がペンを置いた時、コメント欄は静まり返っていた。
いや、違う。
あまりの衝撃に、言葉を失っていたのだ。
画面に映し出されていたのは、完成した見開きページ。
アークが絶望を切り裂いて、光の中へ踏み出すシーン。
その迫力は、週刊誌の紙面を超え、モニター越しに視聴者の網膜を焼いていた。
『……これ、本物じゃん』
『二次創作のレベルじゃない』
『東條先生が乗り移ったとしか思えない』
そして、その流れの中に、もう一度だけ『Sanada』の名前が現れた。
今度はスパチャではない。
通常のコメントだ。
『Sanada:待っていました。この続きを』
俺は息を呑んだ。
その短い一文に込められた、万感の思い。
彼は確信したのだ。
ここに、東條樹がいると。
俺は逃げるように配信終了ボタンを押した。
真っ暗になった画面に、自分の顔が映る。
如月雪の顔をした俺は、泣きそうなほど歪んだ笑みを浮かべていた。
「……バレたな、これ」
完全にロックオンされた。
あの執念深い編集者が、これで諦めるはずがない。
俺の平穏な引きこもり生活に、終わりの足音が近づいていた。
それでも、俺の胸の中には、言いようのない高揚感が残っていた。
届いた。
俺の「続き」が、一番読んでほしかった男に届いたのだ。
それがどんな破滅を招くとしても、今はただ、その事実だけが嬉しかった。