夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く 作:匿名TS美少女
『雪のために描く』
そう決意してから三日が過ぎた。
俺の決意とは裏腹に、状況は悪化の一途を辿っていた。
いや、創作活動自体は順調だ。順調すぎて怖いと言ってもいい。
ネームは面白いように切れるし、ペンの走りも全盛期並み、いやそれ以上に戻っている。
問題なのは、外野だ。
俺はPCのモニターを睨みつけたまま、奥歯を噛み締めた。
画面に映っているのは、匿名掲示板の『Nemo特定スレ Part15』。
パート15ってなんだよ。三日で十五スレも消費するとか、暇人が多すぎる。
『>>345
昨日の配信のアーカイブ見直したけど、環境音からして都内確定だな。
14:05頃に入ってる選挙カーの声、「〇〇候補」って聞こえる。これ、港区の補選に出てる奴じゃね?』
『>>348
マジ? 港区住みかよ。
あの時間帯に家にいて、高級機材揃えてるってことは、やっぱり金持ちの道楽?』
『>>352
窓ガラスの反射解析班、まだか?
15:30頃に一瞬だけカーテンの隙間から光が入ってる。角度から階数を絞れるかも』
背筋が凍る。
俺たちが何気なく生活している中で出している音や光が、ネットの海では「座標」を示すデータとして処理されていく。
俺は慌ててカーテンの隙間をガムテープでさらに厳重に塞いだ。
遮光一級のカーテンに、さらに遮音シートまで貼っているが、それでも安心できない。
「……気持ち悪い」
如月雪の声で呟くと、その言葉は余計に生々しく響いた。
まるで、見えない無数の目が、この部屋を覗き込んでいるようだ。
俺は東條樹だった頃も、ある程度のプライバシー侵害は経験した。週刊誌に撮られたこともあるし、自宅にファンが押し掛けたこともある。
だが、今のこれは質が違う。
「正体不明の天才」というパズルを解きたがっている、純粋な好奇心と悪意の集合体だ。
そして、その特定班の中に、もっとも厄介な人物の影が見え隠れしていた。
『>>410
関係者だけど、集英談社の真田さんがマジで動いてるらしいぞ。
法務部使ってプロバイダに開示請求かける準備してるって噂。
名目は「著作者人格権の侵害」とか言ってるけど、本気でNemoの中身を引きずり出す気満々だって』
『>>412
うわ、真田編集長が直々に?
終わったなNemo。業界のタブー踏み抜いた報いだわ』
この書き込みが本当かどうかは分からない。
ただの愉快犯のデマかもしれない。
だが、真田さんならやりかねない。あの人は、目的のためなら手段を選ばない男だ。
俺の絵を見て「東條樹の魂」を感じ取ったなら、法的な手段を使ってでも本人確認に来るだろう。
「……開示請求か」
俺は椅子に深く沈み込んだ。
もしプロバイダから情報が開示されたら、「キサラギ コウサン」の名義で契約されていることがバレる。
そこから如月雪の名前が出るのは時間の問題だ。
自殺未遂をした不登校の少女が、死んだ漫画家の絵を描いている。
そんな事実が世に出たら、俺は精神鑑定コースか、見世物小屋コースだ。
「……でも、止めるわけにはいかない」
恐怖はある。
だが、描きかけの原稿データを見ると、指が疼く。
アークが、ヒロインのエリスが、俺を待っている。
雪の日記にあった「先生の漫画だけが居場所だった」という言葉が、俺の背中を押す。
ここで逃げたら、俺はまた「誰にもなれなかった」ままだ。
俺は大きく深呼吸をして、配信ソフト『OBS』を立ち上げた。
対策はした。
マイクの感度は最小限に。ノイズゲートの設定も最強にした。
物理的にも、部屋のドアは鍵をかけ、インターホンの音も切った。
これなら、部屋の中の音しか入らないはずだ。
『作業配信:アークエンド第159話(二次創作)』
タイトルを打ち込み、配信開始ボタンを押す。
その瞬間、待機していた視聴者が雪崩れ込んでくる。同接五千人。もはやインフルエンサー並みだ。
『きたあああああ』
『待ってたぞNemo!』
『特定班に負けるな』
『今日はどこまで進む?』
好意的なコメントに少しだけ救われる。
俺は無言のまま、ペンを握った。
今日の作業は、ペン入れの仕上げと、トーン処理だ。
地味な作業だが、画面の密度が一気に上がる工程でもある。
カリカリカリ……。
ペンタブの摩擦音が、静寂な部屋にリズムを刻む。
集中しよう。
外野の声はノイズだ。俺の世界には、今はアークと俺しかいない。
一時間ほど経過した頃だろうか。
俺は完全にゾーンに入っていた。
背景の廃墟を描き込みながら、光の当たり方を計算する。
瓦礫の質感、舞い上がる砂埃。
よし、いい感じだ。
このページの演出は、前世の俺でも描けなかった領域に達している。
その時。
机の上に置いていたスマホが、ブブブッと震えた。
マナーモードにしていたが、机と共振して結構な音がした。
俺はビクリと肩を跳ねさせ、反射的にスマホを手に取った。
画面には『宅配便:お届けにあがりました』という通知。
しまった。
インターホンを切っていたから、スマホに通知が来る設定にしていたのを忘れていた。
しかも、これは今日絶対に受け取らなきゃいけない荷物だ。
画材屋に注文した、最高級のスクリーントーン素材集と、左手デバイスの予備。
再配達を頼むと明日になってしまう。今の作業にはどうしても必要だ。
「……受け取るしかないか」
俺はOBSのマイクボタンをクリックし、ミュートにした……つもりだった。
アイコンが赤くなったのを目視で確認した、はずだった。
だが、焦っていた俺は、マウスのクリックが甘かったことに気づかなかった。
アイコンは一瞬赤く点滅したが、すぐに緑色に戻っていたのだ。
俺はヘッドセットを首にかけたまま、急いで玄関へ走った。
ドアの鍵を開ける。
ガチャリ、と重厚な金属音が響く。
このマンションのドアは、防音性と気密性を高めるために特殊な合金で作られている。
開閉するたびに、金庫のような重い音がするのだ。
「宅配便でーす。如月様ですね?」
配達員の元気な声。
「あ、はい。……ここにサインでいいですか?」
俺は小声で答え、端末に指でサインをする。
荷物を受け取り、素早くドアを閉める。
バタン、という閉鎖音が、再び廊下に響き渡る。
ふぅ、と息をついて部屋に戻る。
荷物をデスクの脇に置き、ヘッドセットをつけ直す。
画面を見る。
コメント欄が、止まっていた。
いや、違う。
あまりの速さで流れているから、文字が読めないのだ。
『おい今の音』
『聞こえたぞ』
『「キサラギ」って言った?』
『ドアの音、重すぎんだろ。核シェルターかよ』
『特定班! 今のドア音、解析急げ!』
血の気が引いた。
ミュートになっていない。
マイクのインジケーターが、緑色に光って激しく振れている。
俺の足音、ドアの開閉音、そして配達員とのやり取り。
全部、筒抜けだった。
「……あ」
俺の口から、間の抜けた声が漏れる。
それすらも、マイクは拾って世界中に届けてしまった。
可愛らしい少女の、絶望に染まった声。
『女の声!?』
『Nemo、女だったのか!?』
『しかも若いぞ。高校生くらいか?』
『キサラギ……如月?』
『特定した。港区の「グランドヒルズ〇〇」だ。あのドアの音とチャイムの形式、あそこのマンション特有のやつだ』
終わった。
特定班の仕事が早すぎる。
俺は震える手で、配信停止ボタンを連打した。
画面が暗転する。
だが、一度ネットに放流された情報は、二度と消せない。
俺はヘッドセットを投げ捨て、頭を抱えた。
心臓が破裂しそうだ。
如月。港区。高級マンション。若い女性。
これだけのピースが揃えば、あとは時間の問題だ。
週刊誌が来るか、警察が来るか、それとも──。
その時、スマホが再び震えた。
今度は通知ではない。
DMだ。
通知バナーに表示された名前を見て、俺は呼吸を忘れた。
『Sanada:
如月さんですね。
見つけましたよ、先生。
今からそちらに向かってもよろしいですか?』
「……嘘、だろ」
スマホを取り落とす。
カーペットの上に落ちた画面の中で、『Sanada』の文字が赤く光って見えた。
あの人は、最初から当たりをつけていたんだ。
俺がボロを出す瞬間を、虎視眈々と待っていたんだ。
インターホンは切っている。
だが、オートロックを突破されたら?
いや、あの真田さんなら、管理会社に手を回すくらいやりかねない。
逃げ場はない。
俺は部屋の隅で膝を抱えた。
窓の外では、夕暮れの空が赤黒く染まり始めていた。
それはまるで、俺の二度目の人生の終わりを告げる、カウントダウンの色に見えた。
「……どうすればいい」
雪の身体が震えている。
俺は助けを求めるように、描きかけのアークの絵を見上げた。
画面の中のアークは、まだ希望を捨てていない目で、俺を見つめ返していた。
『まだ終わってない』
そう言われている気がした。
俺は震える足で立ち上がり、ドアのチェーンを確認した。
そして、PCの電源を落とすことなく、クリップスタジオの保存ボタンを押した。
「来るなら来い」
俺は小さな声で、しかしはっきりと呟いた。
もしここで捕まっても、もしここで正体がバレても。
このデータだけは、絶対に守り抜く。
それが、俺が如月雪として生きるための、最後の防衛戦だ。
その数分後。
俺の部屋の、重厚な玄関ドアが、外側からノックされた。
コン、コン。
礼儀正しく、しかし絶対に入室を拒否させない、意思の強さを感じるノックだった。
俺は息を呑み、ドアノブを見つめた。
そこに立っているのは、死神か、それとも──。