夭折した天才漫画家だけど、転生したらTS美少女だったから勝手に続き描く   作:匿名TS美少女

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9話

『雪のために描く』

 

 そう決意してから三日が過ぎた。

 俺の決意とは裏腹に、状況は悪化の一途を辿っていた。

 いや、創作活動自体は順調だ。順調すぎて怖いと言ってもいい。

 ネームは面白いように切れるし、ペンの走りも全盛期並み、いやそれ以上に戻っている。

 問題なのは、外野だ。

 

 俺はPCのモニターを睨みつけたまま、奥歯を噛み締めた。

 画面に映っているのは、匿名掲示板の『Nemo特定スレ Part15』。

 パート15ってなんだよ。三日で十五スレも消費するとか、暇人が多すぎる。

 

『>>345

 昨日の配信のアーカイブ見直したけど、環境音からして都内確定だな。

 14:05頃に入ってる選挙カーの声、「〇〇候補」って聞こえる。これ、港区の補選に出てる奴じゃね?』

 

『>>348

 マジ? 港区住みかよ。

 あの時間帯に家にいて、高級機材揃えてるってことは、やっぱり金持ちの道楽?』

 

『>>352

 窓ガラスの反射解析班、まだか? 

 15:30頃に一瞬だけカーテンの隙間から光が入ってる。角度から階数を絞れるかも』

 

 背筋が凍る。

 俺たちが何気なく生活している中で出している音や光が、ネットの海では「座標」を示すデータとして処理されていく。

 俺は慌ててカーテンの隙間をガムテープでさらに厳重に塞いだ。

 遮光一級のカーテンに、さらに遮音シートまで貼っているが、それでも安心できない。

 

「……気持ち悪い」

 

 如月雪の声で呟くと、その言葉は余計に生々しく響いた。

 まるで、見えない無数の目が、この部屋を覗き込んでいるようだ。

 俺は東條樹だった頃も、ある程度のプライバシー侵害は経験した。週刊誌に撮られたこともあるし、自宅にファンが押し掛けたこともある。

 だが、今のこれは質が違う。

「正体不明の天才」というパズルを解きたがっている、純粋な好奇心と悪意の集合体だ。

 

 そして、その特定班の中に、もっとも厄介な人物の影が見え隠れしていた。

 

『>>410

 関係者だけど、集英談社の真田さんがマジで動いてるらしいぞ。

 法務部使ってプロバイダに開示請求かける準備してるって噂。

 名目は「著作者人格権の侵害」とか言ってるけど、本気でNemoの中身を引きずり出す気満々だって』

 

『>>412

 うわ、真田編集長が直々に? 

 終わったなNemo。業界のタブー踏み抜いた報いだわ』

 

 この書き込みが本当かどうかは分からない。

 ただの愉快犯のデマかもしれない。

 だが、真田さんならやりかねない。あの人は、目的のためなら手段を選ばない男だ。

 俺の絵を見て「東條樹の魂」を感じ取ったなら、法的な手段を使ってでも本人確認に来るだろう。

 

「……開示請求か」

 

 俺は椅子に深く沈み込んだ。

 もしプロバイダから情報が開示されたら、「キサラギ コウサン」の名義で契約されていることがバレる。

 そこから如月雪の名前が出るのは時間の問題だ。

 自殺未遂をした不登校の少女が、死んだ漫画家の絵を描いている。

 そんな事実が世に出たら、俺は精神鑑定コースか、見世物小屋コースだ。

 

「……でも、止めるわけにはいかない」

 

 恐怖はある。

 だが、描きかけの原稿データを見ると、指が疼く。

 アークが、ヒロインのエリスが、俺を待っている。

 雪の日記にあった「先生の漫画だけが居場所だった」という言葉が、俺の背中を押す。

 ここで逃げたら、俺はまた「誰にもなれなかった」ままだ。

 

 俺は大きく深呼吸をして、配信ソフト『OBS』を立ち上げた。

 対策はした。

 マイクの感度は最小限に。ノイズゲートの設定も最強にした。

 物理的にも、部屋のドアは鍵をかけ、インターホンの音も切った。

 これなら、部屋の中の音しか入らないはずだ。

 

『作業配信:アークエンド第159話(二次創作)』

 

 タイトルを打ち込み、配信開始ボタンを押す。

 その瞬間、待機していた視聴者が雪崩れ込んでくる。同接五千人。もはやインフルエンサー並みだ。

 

『きたあああああ』

『待ってたぞNemo!』

『特定班に負けるな』

『今日はどこまで進む?』

 

 好意的なコメントに少しだけ救われる。

 俺は無言のまま、ペンを握った。

 今日の作業は、ペン入れの仕上げと、トーン処理だ。

 地味な作業だが、画面の密度が一気に上がる工程でもある。

 

 カリカリカリ……。

 ペンタブの摩擦音が、静寂な部屋にリズムを刻む。

 集中しよう。

 外野の声はノイズだ。俺の世界には、今はアークと俺しかいない。

 

 一時間ほど経過した頃だろうか。

 俺は完全にゾーンに入っていた。

 背景の廃墟を描き込みながら、光の当たり方を計算する。

 瓦礫の質感、舞い上がる砂埃。

 よし、いい感じだ。

 このページの演出は、前世の俺でも描けなかった領域に達している。

 

 その時。

 机の上に置いていたスマホが、ブブブッと震えた。

 マナーモードにしていたが、机と共振して結構な音がした。

 俺はビクリと肩を跳ねさせ、反射的にスマホを手に取った。

 画面には『宅配便:お届けにあがりました』という通知。

 

 しまった。

 インターホンを切っていたから、スマホに通知が来る設定にしていたのを忘れていた。

 しかも、これは今日絶対に受け取らなきゃいけない荷物だ。

 画材屋に注文した、最高級のスクリーントーン素材集と、左手デバイスの予備。

 再配達を頼むと明日になってしまう。今の作業にはどうしても必要だ。

 

「……受け取るしかないか」

 

 俺はOBSのマイクボタンをクリックし、ミュートにした……つもりだった。

 アイコンが赤くなったのを目視で確認した、はずだった。

 だが、焦っていた俺は、マウスのクリックが甘かったことに気づかなかった。

 アイコンは一瞬赤く点滅したが、すぐに緑色に戻っていたのだ。

 

 俺はヘッドセットを首にかけたまま、急いで玄関へ走った。

 ドアの鍵を開ける。

 ガチャリ、と重厚な金属音が響く。

 このマンションのドアは、防音性と気密性を高めるために特殊な合金で作られている。

 開閉するたびに、金庫のような重い音がするのだ。

 

「宅配便でーす。如月様ですね?」

 

 配達員の元気な声。

 

「あ、はい。……ここにサインでいいですか?」

 

 俺は小声で答え、端末に指でサインをする。

 荷物を受け取り、素早くドアを閉める。

 バタン、という閉鎖音が、再び廊下に響き渡る。

 

 ふぅ、と息をついて部屋に戻る。

 荷物をデスクの脇に置き、ヘッドセットをつけ直す。

 画面を見る。

 

 コメント欄が、止まっていた。

 いや、違う。

 あまりの速さで流れているから、文字が読めないのだ。

 

『おい今の音』

『聞こえたぞ』

『「キサラギ」って言った?』

『ドアの音、重すぎんだろ。核シェルターかよ』

『特定班! 今のドア音、解析急げ!』

 

 血の気が引いた。

 ミュートになっていない。

 マイクのインジケーターが、緑色に光って激しく振れている。

 俺の足音、ドアの開閉音、そして配達員とのやり取り。

 全部、筒抜けだった。

 

「……あ」

 

 俺の口から、間の抜けた声が漏れる。

 それすらも、マイクは拾って世界中に届けてしまった。

 可愛らしい少女の、絶望に染まった声。

 

『女の声!?』

『Nemo、女だったのか!?』

『しかも若いぞ。高校生くらいか?』

『キサラギ……如月?』

『特定した。港区の「グランドヒルズ〇〇」だ。あのドアの音とチャイムの形式、あそこのマンション特有のやつだ』

 

 終わった。

 特定班の仕事が早すぎる。

 俺は震える手で、配信停止ボタンを連打した。

 画面が暗転する。

 だが、一度ネットに放流された情報は、二度と消せない。

 

 俺はヘッドセットを投げ捨て、頭を抱えた。

 心臓が破裂しそうだ。

 如月。港区。高級マンション。若い女性。

 これだけのピースが揃えば、あとは時間の問題だ。

 週刊誌が来るか、警察が来るか、それとも──。

 

 その時、スマホが再び震えた。

 今度は通知ではない。

 DMだ。

 通知バナーに表示された名前を見て、俺は呼吸を忘れた。

 

『Sanada:

 如月さんですね。

 見つけましたよ、先生。

 今からそちらに向かってもよろしいですか?』

 

「……嘘、だろ」

 

 スマホを取り落とす。

 カーペットの上に落ちた画面の中で、『Sanada』の文字が赤く光って見えた。

 あの人は、最初から当たりをつけていたんだ。

 俺がボロを出す瞬間を、虎視眈々と待っていたんだ。

 

 インターホンは切っている。

 だが、オートロックを突破されたら? 

 いや、あの真田さんなら、管理会社に手を回すくらいやりかねない。

 

 逃げ場はない。

 俺は部屋の隅で膝を抱えた。

 窓の外では、夕暮れの空が赤黒く染まり始めていた。

 それはまるで、俺の二度目の人生の終わりを告げる、カウントダウンの色に見えた。

 

「……どうすればいい」

 

 雪の身体が震えている。

 俺は助けを求めるように、描きかけのアークの絵を見上げた。

 画面の中のアークは、まだ希望を捨てていない目で、俺を見つめ返していた。

 

『まだ終わってない』

 

 そう言われている気がした。

 俺は震える足で立ち上がり、ドアのチェーンを確認した。

 そして、PCの電源を落とすことなく、クリップスタジオの保存ボタンを押した。

 

「来るなら来い」

 

 俺は小さな声で、しかしはっきりと呟いた。

 もしここで捕まっても、もしここで正体がバレても。

 このデータだけは、絶対に守り抜く。

 それが、俺が如月雪として生きるための、最後の防衛戦だ。

 

 その数分後。

 俺の部屋の、重厚な玄関ドアが、外側からノックされた。

 コン、コン。

 礼儀正しく、しかし絶対に入室を拒否させない、意思の強さを感じるノックだった。

 

 俺は息を呑み、ドアノブを見つめた。

 そこに立っているのは、死神か、それとも──。

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