1級昇格査定の任務として、僕は出羽三山へ向かった。
今回指定されたのは、その一つである月山。修験道の聖地であり死と再生の山とも呼ばれる場所だ。
朝靄の奥で、杉の大樹がまっすぐに天へ伸びている。足元には湿った石畳の参道。踏みしめるたびに水気を含んだ音が返り、苔の匂いがゆっくりと立ちのぼる。山の空気はひんやりとしていて、都会の排気ガスとは違う、肺の奥まで清められるような清涼感があった。
月山は、広い空の下にゆるやかな稜線が続く美しい山だ。
木道の両脇には湿原と草原が広がり、ところどころに夏でも消えない雪渓が白く残る。風は強く乾いていて、草が一斉に波のように揺れる様は、緑の海のようだ。
頂へ近づくにつれ視界は開け、雲が流れ込んでは山を白く包み、すぐに晴れて遠くの連なりが現れる。色は緑と土の淡い対比だけ。音は風と自分の足音だけ。広く、静かで、どこか時間の流れが薄い場所。
「……帰りは温泉でも行こうかな」
独り言が空に吸い込まれる。
それにしても空気が美味しい。前回の霊山では散々な目にあったから、山にはいい思い出がないが、ここなら観光気分で悪くない。
だが、違和感がある。
気配的に、呪霊が少なすぎるのだ。
ここは霊場だ。負の感情も溜まりやすいはずだが、雑魚の気配すら希薄だ。まるで、誰かが根こそぎ掃除した後みたいに。
……まあいい。今回の任務は残存呪霊の殲滅だ。
「闇より出でて闇より黒く、その穢れを禊ぎ祓え」
山全体を覆うように『帳』を下ろす。
今回は広範囲の索敵と殲滅が必要だ。彼らに頼もう。
「お出で――『
影から四体の鬼が現れる。
赤い肌に乱れた髪と鋭い牙を持つ茨木童子。
巨体で濃い体毛に覆われた星熊童子。
熊のようにガッシリとした熊童子。
そして虎縞の体毛を持つ虎熊童子。
大江山の配下としても知られる、武闘派の鬼たちだ。
「呪霊は祓っていいよ。のびのびやっておいで」
彼らは並の呪霊相手ならまず負けない。四方へ散っていく鬼たちを見送り、僕はゆっくりと登山を再開した。
中腹まで登ったところで、空気が変わった。
――『帳』が、もう一つ下ろされた。
僕が下ろした帳の内側に、さらに別の結界。
携帯を取り出すが、表示は圏外。
呪霊の気配はもうない。鬼たちも破壊されていない。つまり、ターゲットは呪霊ではなく――僕か。一旦、鬼たちを戻し、警戒しながら山頂を目指す。
どうやら「主」はそこにいるらしい。
「……登山して温泉入って帰ろうと思ったのに」
山頂に近づくほど、異質な気配が強くなる。
禍々しいが、どこか澄んでいる。矛盾した強者の気配。
一応の用心だ。
「重ねて――『空狐』」
遠距離攻撃の構えを作りつつ、頂上へ足を踏み入れる。
そこに、男がいた。
黒の僧衣に、五条袈裟をまとった長身の男。
長い黒髪を一つに結い、整った顔立ちに静かな笑みを浮かべている。だが、その細められた瞳の奥には、冷え切った理知と深い闇が宿っていた。
ゆったりとした袈裟が風に揺れるたび、穏やかな外見とは裏腹の、底知れない威圧感が滲み出る。
「初めまして。噂は聞いているよ、君のこと」
男が親しげに話しかけてくる。
……なんだ? 最近僕の情報が安売りされている気がする。九十九さんといい、どこから漏れてるんだ。
「実際に会ってみて分かった。……やはり特別だね」
男は少し間を置き、視線だけを柔らかく向けてきた。
「君は今、
「……は?」
「彼らは弱く、無力で、そして無自覚に呪いを生み続ける存在だ。守れば守るほど、君のような優秀な術師が消耗していく」
男は静かに、けれど断定的に言い切る。
「私はね、その構造が間違っていると思っている」
「呪いの原因が人間にあるなら――最初から呪いを生まない世界にするべきだ」
視線を外さず、わずかに笑う。
「そのために私は動いている。術師だけが生きる世界を作るためにね」
一歩だけ、距離を詰めてくる。
「君の力は、その理想に届く。いや……届かせるべきだ」
最後は柔らかく、逃げ道を残さない甘い声で。
「私の家族になりなよ。君の力を、本当に正しい形で使わせてあげるよ」
なるほど。イカれてるね。
「……宗教の勧誘なら間に合っているので、結構です。それより名前は?」
「はは……手厳しいな」
男は苦笑したが、すぐに真顔に戻った。
「宗教か。まぁ、似たようなものかもしれないね。……名前を聞く前に断るあたり、君らしい」
ほんのわずかに間を置いて、男は名乗った。
「
夏油傑。
100人以上の一般人を虐殺して逃走した、最悪の呪詛師。
「……術師だけが生きる世界、ですか」
僕はため息をついた。
「世の中は非術師で回っているんですよ。なのに排除するなんて、理想論にも程がある。やめてもらえます?」
「その通りだよ。今の社会は非術師で回っている」
夏油は一歩も引かず、穏やかな口調のまま続ける。
「だからこそ歪んでいるんだ」
「呪いを生み出す側が多数派で、それを処理する側が少数。しかもその少数が、命を削って尻拭いをしている」
「それを“正常”だと言うのなら……私はその正常を壊したい」
彼の目は本気だ。狂信者のそれではない。長い思考の末にたどり着いた、冷徹な結論の目だ。
「理想論? そうかもしれないね」
「だが、現実に縛られて何も変えない方が、よほど無責任だとは思わないかい?」
ほんの少しだけ声音を落とす。
「君はその現実の側に立ち続けるのか、それとも変える側に回るのか」
静かに、選択を迫る。
「私は、後者だよ」
説得力がある。
実際に仲間が傷つき、理不尽な任務で死にかけている僕には、その言葉の甘さが分かる。
だけど。
僕には、守ると誓った人たちがいる。その中には、術師じゃない人たちもいたんだ。
「……こちらには五条先生がいます。出来もしない理想を語って悦に浸るのは勝手ですが、他所を巻き込まないでください」
五条の名前を出した瞬間、夏油の眉がピクリと動いた。
「僕は僕の誓いを守るために呪術師をしている。……貴方は呪詛師だ。ここで処理します」
構える。
楽な任務だと思ったのにな。
「……悟か」
夏油は寂しげに笑い、そして僕を見つめた。
「残念だよ。君さえいれば、私の勝率も跳ね上がったろうに」
夏油の背後の空間が歪み、複数の呪霊が現れる。
術者とは違う、澱んだ呪力の集合体。呪霊操術だ。
1級相当が数体。残りは2級か3級の群れ。
僕を殺す気はないようだが、足止めには十分すぎる戦力だ。
「私はここいらでお暇させてもらうよ。これ以上は“本番”まで取っておかないとね」
夏油が鳥のような呪霊に乗り、空へ舞い上がる。
「待て!」
『空狐』の呪力弾を放つが、盾となった呪霊に阻まれる。
夏油が下ろしていた帳が解除された。
逃げられたか。僕の帳は「一般人を入れない」条件だから、術師の出入りは自由だ。
深追いは無理だ。なら、置いていかれたこの呪霊たちを祓って、報告するしかない。
僕は『空狐』を解除し、別の拡張術式を展開する。
反転術式を習得した今なら、この子の能力を最大限に活かせる。
「重ねて――『白狐』」
白い毛並みの狐の力が宿る。
『白狐』の能力は「治癒」。つまり、正のエネルギーのアウトプットだ。
対呪霊において、これ以上の武器はない。
襲いかかってくる1級呪霊。
僕は回避せず、その体に掌を押し当てた。
反転術式のエネルギーを流し込む。
断末魔すら上げず、呪霊が消滅した。
残りの雑魚も、触れるだけで溶けていく。多少数が多いだけで、作業だ。
数分後。
山頂には静寂だけが残った。
帳を解除する。
携帯の電波が戻ったのを確認し、僕は五条先生に電話をかけた。
『はーい、五条先生でーす。もう終わったの?』
「終わりましたけど……夏油傑が出ました」
『…………あー、そっか』
一瞬の沈黙。いつもより少し低い声。
『何か言ってた?』
「勧誘されました。断りましたけど。『術師だけの世界』を作ると言っていました」
『はは、相変わらずだね傑は。……無事でよかったよ。報告ありがと』
「はい。あと、この山の呪霊が少なかったのは、彼が取り込んだからだと思います」
『なるほどね。戦力増強か……。りょーかい、気をつけて帰ってきてね』
通話が切れる。
先生の反応、少し遅かったな。何か思うところはあるだろう。
「……さて」
深く息を吸う。山の空気はまだ美味しい。
温泉に行って、お土産を買って帰ろう。
僕はこの任務で、無事に1級呪術師へと昇格した。
だが、その肩書きよりも、夏油が残した「本番」という言葉の方が、重く心に残っていた。
轟鬼君が夏油側についていたら呪霊を2箇所に分ける必要もないし新宿か京都が更地になります。五条には勝てないけど
【設定資料:百鬼夜行】
・茨木童子
赤い肌と乱れ髪を持つ鬼。
能力:概念拘束
視認した対象に「掴まれる」という概念を強制的に付与する。
物理的な距離に関係なく、空間越しに対象を不可視の握力で捕縛・固定することができるため、高速で移動する敵への対策として有効。
・星熊童子
濃い体毛に覆われた巨体の鬼。
能力:内部破壊
打撃が命中した瞬間、対象の内部へ浸透する衝撃波を発生させる。
外殻や防御力がどれほど高くても、内臓や骨格へ直接ダメージを通すことができる。
・熊童子
熊のようながっしりとした体躯の鬼。
能力:運動エネルギー増幅
突進した距離に比例して、衝突時の威力と質量効果が指数関数的に増大する。
十分な距離から放たれるタックルは、戦車すら容易に粉砕する。
ほぼ貫牛。
・虎熊童子
虎の縞模様を持つ荒々しい鬼。
能力:瞬発力暴発
一瞬だけ自身の身体能力のリミッターを解除し、爆発的な速度とパワーを発揮する。
「初速」に特化しており、静止状態から相手が反応できない速度での奇襲攻撃を得意とする。