呪術廻戦0の映画の特典のお話いいですよね。
今回はそれです
目を覚ますと、そこは見慣れた白い天井だった。
家入さんの治療室。
体を起こそうとして、強烈な違和感に襲われた。
自分が起き上がっているのか、寝ているのか、あるいは宙に浮いているのか分からない。視覚情報と平衡感覚が一致しない。まるで宇宙空間を漂っているような、頼りない浮遊感。
ああ……そうか。思い出した。
これが、代償か。
八岐大蛇を破壊されたことによる「触覚」の消失。
「……起きたのか」
気だるげな声がして、頭をグイと押し戻された。
触れられた感触はない。ただ、視界が天井に戻ったことで「押し戻された」と理解した。
家入硝子さんだ。
「そのまま聞いてろ。東堂から聞いたよ。『触覚』がないんだってな」
僕は大人しく瞬きで肯定する。
「丸二週間も寝てたんだぞ。百鬼夜行が終わった後、こっちもてんやわんやでね。神社の結界修復やら、怪我人の治療やら……」
家入さんが煙草に火をつける仕草をする。
「お前には感謝してる。お前の式神……妖怪か。あいつらのおかげで、京都側の死者・重傷者は最小限で済んだ」
「……皆は?」
喉が渇いて声が掠れる。
「無事だ。……ただし、二人は別だがな」
家入さんが少し言い淀む。
「秤と綺羅羅は、上層部を殴って停学になった」
――は?
思考が凍りつく。
「すまない、詳しい話は日下部から聞け。……動けるならもう部屋から出ていいぞ。肉体的な損傷は完治してる」
家入さんが部屋を出ていく。
僕はベッドから降りようとして、床の感覚がないことに躓きそうになる。
足裏からのフィードバックがない。これじゃ歩けない。
なら、補助輪をつけるまでだ。
詠唱は要らない。イメージだけで術式を回す。
足元の影が這い上がり、僕の四肢に絡みつく。筋肉の収縮を影が感知し、物理的に体を動かす。マリオネットのような感覚だが、これなら動ける。
廊下を急ぐ。
教室へ。いつもの場所へ。
ドアの前に立つ。深呼吸。
いつもなら、中から金次のガラの悪い笑い声や、綺羅羅の明るい声が聞こえてくるはずだ。僕がドアを開ければ、「遅いよ欠意ちゃん!」なんて言われて、そのまま放課後の買い出しに行く。
それが、僕たちの日常だった。
ドアを開ける。
そこには、机と椅子が、一組だけポツンと置かれていた。
空っぽの教室。夕日が差し込み、埃が舞っているのが見える。
それが、現実を冷酷に突きつけてくる。
無意識に拳を握りしめる。手のひらに温かいものが滴るのが見えた。
血だ。爪が食い込んで皮膚を裂いている。
なのに、痛くない。痛みさえ感じないなんて。
「……うおっ! びっくりした……!」
背後から声。日下部先生が入ってきた。
「起きてるなら言えよ、心臓に悪い」
「先生。……金次と綺羅羅の件を」
「……ったく。分かったから座れ」
先生に促され、影の補助でぎこちなく椅子に座る。
「単刀直入に言うぞ。秤は現場で保守派の上層部を半殺しにした。それを綺羅羅が手伝った。……で、無期限の停学だ」
先生は頭をガシガシと掻く。
「向こうが何を言ったのか、詳細は来てねぇ。だが、秤がキレるってことは、相応の暴言があったんだろうよ。……あいつの『熱』を侮辱するようなな」
お偉いさんは、どうも時代についていけないらしい。
やっぱり、上層部は一度掃除しないといけないな。
僕の影が、殺気に呼応してゆらりと膨らむ。
「……はぁ、待て待て。殺気を出すな」
日下部先生が慌てて手を振る。
「それと、お前との連絡手段を断つように言われてる。携帯での連絡はブロックされてるはずだ」
慌てて携帯を取り出す。指の感覚がないため、視覚だけを頼りに操作する。
二人に電話をかける。
『おかけになった電話番号は、現在使われておりません』
無機質なアナウンス。
本当に、繋がらない。
「まぁ、その……なんだ」
先生がバツが悪そうに視線を逸らす。
「あいつらは退学になったわけじゃねぇ。ほとぼりが冷めれば戻ってくる可能性もある。……それまで、お前があいつらの『帰る場所』になってやれ」
先生はポンと僕の肩に手を置き、教室を出ていった。
静寂が戻る。
……独りか。
教室に長居するのは辛い。外の空気を吸おう。
廊下を歩いていると、前方から五条先生と、中学生くらいの少年が歩いてきた。
ツンツン頭で、少し生意気そうな顔立ちの少年。
「お! 欠意じゃん。起きたんだ。聞いたよ〜、領域展開したんだって? やるねぇ」
先生は相変わらず能天気だ。
「はい。……ところで、彼は?」
「来年入学する予定の、伏黒恵くんでぇす! 見学に来たの」
「……どうも」
恵くんと呼ばれた少年が、僕を見て怪訝な顔をする。
視線の先は、僕の全身に包帯のように巻き付いている黒い影。不気味なのだろう。
「ごめんね。今は触覚がなくて、影を補助として使っているんだ。怪しいものじゃないよ」
僕は努めて明るく振る舞い、手を差し出す。
「2年の轟鬼欠意だよ。来年はよろしくね、恵君」
恵君は一瞬躊躇したが、握り返してくれた。
「……伏黒です」
ついでに、ポケットから飴を取り出して渡す。
「はい、これ」
「そういえばさ、今1年が料理にハマっててね。すごいいい匂いするでしょ?」
五条先生が鼻をクンクンさせる。
「匂い、ですか?」
鼻で呼吸をする。
……何も感じない。
消毒液も、夕飯の匂いも、埃っぽさも。
……なるほど。そういうことか。
「すみません。『嗅覚』もなくなってるみたいで。感じませんでした」
「あー……そっか。触覚と嗅覚、2つ持ってかれたのか」
先生の声色が少しだけ真面目になる。領域の代償は嗅覚だったか。
「大変だね。ま、リハビリがてら1年に顔出してみなよ。それじゃ行くよ恵」
五条先生が歩き出す。
恵君が、去り際に振り返って尋ねてきた。
「あの……その影は、あんたの術式か?」
「うん。拡張術式で、僕の式神の能力を宿してるんだ」
そう答えると、彼は少し考えてから一礼して去っていった。
影使い……彼も何か近いものを持っているのかもしれない。
ひとまず、寮のキッチンに向かうか。
途中、共有スペースを通ると、歌姫先生と家入さんがテーブルを囲んでいた。
テーブルの上には大量の酒瓶とジュース。宴会?
「あら! 起きたの! ……って、何その黒いの。刺青入れた?」
歌姫先生が既に出来上がった顔で絡んでくる。
「轟鬼、病み上がりなんだからあんま歩き回るなよ」
家入さんは缶ビールを片手に手を振る。
「……何をしてるんですか?」
「ガキどもがキッチン占領してるから待機中。今夜は『クエ』よ! クエ鍋!」
……クエ? 高級魚じゃないか。誰が捌くんだ?
挨拶をしてキッチンへ向かう。
中を覗くと、真希、棘、パンダ、そして優太が作業をしていた。
調理道具が以前の3倍くらいに増えている。
まな板の前で、真希が見事な包丁さばきで巨大なクエを解体していた。すごい集中力だ。
邪魔になりそうなので、後ろから見守る。
料理か。懐かしいな。孤児院にいた頃は、よくみんなで作ったっけ。
優太が、チラチラとこちらを見ている。
真希と棘も、作業の手を止めてこちらを見て固まった。
「「「……どちら様ですか?」」」
あ。
そういえば、今は学生帽もマントも着けていない。
Yシャツにスラックス、そして全身に黒い影がのたうっている。顔色は死人のように白い。
……不審者だこれ。
「え〜と……君たちの先輩だよ。轟鬼です」
「パンダは気づいてたろ!?」
真希が包丁を構えたままパンダを睨む。
「いやぁ、反応が見たくて……」
パンダが悪びれもせずに言う。
「先に言えや!」
「真希、包丁は人に向けちゃダメだよ」
苦笑しながら近づくと、みんなが心配そうな顔をする。
「先輩、体は大丈夫なんですか?」
優太が駆け寄ってくる。
「しゃけ」
「これは術式で動かしてるだけだから大丈夫。今は触覚と嗅覚がないからね」
「……マジかよ」
真希が顔をしかめる。
「何か手伝おうか?」
「おかか!!」
「ダメですよ! 安静にしててください!」
棘と乙骨君に背中を押され、キッチンから共有スペースに強制送還された。
優しい後輩たちだ。
共有スペースに戻ると、歌姫先生に捕まった。
「何? 追い出されたの?」
「まぁ、はい」
「こっち来なさいよー! ほら!」
ガシッと肩を組まれる。酒臭い……はずだが、匂いがしないのが逆に怖い。
「そう言えば感謝してるのよ。アンタ、私の生徒たちを守りながら戦ってくれたんでしょ?」
先生が勝手に僕のコップに日本酒を注ぐ。
「途中で抜けちゃいましたけどね」
「いいのよ! 結果的に全員無事だったんだから! ほら飲め!」
「未成年です」
「私の酒が飲めないっての!?」
理不尽だ。家入さんに助けを求めるが、視線を逸らされた。
しばらくして、後輩たちが鍋を持ってやってきた。
豪華なクエ鍋。他にも色とりどりの料理が並ぶ。
五条先生と恵くんもちゃっかり参加している。
宴が始まる。
騒がしい。楽しい。料理も美味しい。
でも。
僕の隣と、その隣。
いつもなら一番騒がしい二人がいない空白が、どうしても埋まらない。
――あいつらが帰ってくる場所になってやれ。
日下部先生の言葉を反芻する。
そうだ。僕はここで待つ。
また次の春が来れば、新しい出会いもあるだろう。
二人がいつ帰ってきてもいいように。そして、この優しい後輩たちを守れるように。
僕はもっと強くならなきゃいけない。
感覚のない手でグラスを握りしめ、僕は夜空を見上げた。
次は三年生ですね。
いよいよ原作です。