路地裏は湿っていた。薄暗く、排気と、ゴミ捨て場のゴミの匂いがする。夕方の冷えた空気がコンクリに貼りついて、足音がやたら響く。普段入ったことのない場所なので、ある種の新鮮さを感じていると、正面から声が聞こえた。
「おい」
目の前にいるこの金髪の男は、別に友達でもなんでもない。そもそも知り合いでもない。今日初めて会った人間だ。それに、正面にもう一人、坊主頭の男。左に短髪の男、右にピアスの男。後ろにも二人。髪を赤く染めた男にロン毛の男。俺を囲むようにして立っている。
「お前、舐めてんのか?」
——なんでこんな状況になったんだ。
◇
——40分前。
学校が終わり、帰宅していた。朝田とは今日は一緒じゃなかった。いつもはたまたま帰る時間も同じなので、なし崩し的に一緒に帰ってる感じになってるだけで、示し合わせたものじゃない。なので、普通に一人で帰っていた。
たまたま駅前に用事があったので、用事を済ませて、家に帰る途中。コンビニの前でいわゆる不良たちがたむろしていた。俺はその光景を、なかば感動しながら見ていた。
(スゲェ、マンガでみたような感じだ)
日本に来る前、コミックの中で見たような不良。それを現実で見れた感動に、ちょっと長く見すぎた。たぶん、それがいけなかった。いや、目つきの悪さが祟ったか。
「おい、お前何睨んでんだよ?」
不良の一人、ピアスのやつがこちらを見てそう言う。後ろを振り返っても、誰もいない。
「お前だよ、お前」
どうやら俺らしい。そこで立川が前言っていたことを思い出す。
『いいか?世の中には目つきが悪いとか、態度が気に食わないだとか、そんなよくわからん理由で人を殴るやつもいるんだよ』
(……マジでいるんだなー)
どうやら立川のアレはマジだったらしい。俺はすぐに謝った。
「悪い。睨んでた訳じゃないんだ。気に触ったなら謝るわ」
穏便に済ませるつもりだった。面倒ごとは避けるのが正しい。立川にも喧嘩はするなと言われたのもあった。
……だが、世の中そんなに甘くないらしい。
「ちょっとこっち来いや」
ぞろぞろと六人でこちらに向かってくる。そのまま囲まれて逃げ場をなくされ、人通りの少ない路地裏まで歩かされた。
◇
——そして、現在に至る。
さっさと目を離して帰るべきだったと後悔していた。
「睨んでた訳じゃないんだ。元々目つきが悪くてさ。ただ見てただけなんだ」
俺はできるだけ落ち着いた声で言った。とりあえず穏便に済まそう。余計な刺激を入れないための言葉を探る。
「お前さー、そんなん通ると思ってんの?」
「いや、事実だしな。悪気はねぇんだ」
「お前、あんまり調子乗るなよ?」
坊主の男がそう言う。何をどう見たら調子に乗ってるとか思えるんだよ。
「別に乗ってねぇよ。睨んで悪かったって。もういいか? 帰りたいんだけど」
どうにかやり過ごせないものかと帰りたいと言ったら、お気に召さなかったようで、全員の顔つきが変わった。
「ふざけんなよ? 舐めてんじゃねえぞ?」
リーダー格であろう金髪が、懐からナイフを取り出した。金属の光。空気の温度が、少しだけ落ちる。
「あんま調子乗るなよ?殺すぞ!」
——殺す。
その一言で、俺の中の何かが切り替わった。
辺りの音が、ふっと遠くなる。視界のノイズが削れて、相手の手首の角度、ナイフの刃の向き、足の重心、呼吸のリズムが一つずつ情報として勝手に入ってくる。心臓の鼓動だけが、静かに聞こえる。
——ああ。これだ。
この感覚を、俺はよく知っている。
瞼を閉じる。銃声。爆音。喉を切り裂いた、あの感触。それらが勝手に蘇る。瞼を開ける。俺の中の何かが、呼び起こされる。
俺はナイフと、男の目を交互に見て、低い声で聞いた。
「お前、それがどんな物か分かってるのか?」
「は?」
「それは人を殺せる道具だ。それを俺に向けて、殺すとお前は言った。その意味を、理解してるのか?」
「何言ってんだよ」
「殺すつもりなら、殺される覚悟はあるのか?って聞いてんだよ」
不良たちが呆気に取られたような顔になる。次いで、どっ、と嘲笑が起こる。
「はあ?意味わかんねぇ!」
「何だコイツ!」
俺はそれを黙って聞いていた。そして、思う。
——ああ。そうか。
この国ではナイフはただの脅しの道具だ。常に明日が保障されるこの国で、それは人殺しの道具じゃない。ただの、強い奴が弱い奴から搾取する為の道具。自分の中の
正面の坊主が言った。
「おい。もうやっちまおうぜ」
次の瞬間、拳が飛んできた。
動きが大きすぎる。隙がありすぎる。それに——遅い。
酔っ払いが殴りかかってくるのと大差ない。
体を半歩ずらして避け、その流れのまま腹に一発入れた。
「かはっ……」
相手が息を吐き切ったところへ、前屈みになった顔に膝を入れる。それだけで、坊主の膝が落ちる。最後に、踵落としを頭に入れた。坊主は気を失ったようで、倒れて動かなくなった。
「……は?」
不良たちの空気が変わる。目の前の光景が信じられないようだ。俺は笑みも浮かべず、他の奴らを見る。
「どうした?来いよ」
口が勝手に挑発する。それを聞いて黙っているほど、コイツらは腐っていないようだった。
「やれ!」
金髪の合図で他の四人が一斉に来た。
後ろの赤髪。振り向きざまに後ろ蹴り。腹に入って吹き飛ぶ。左の短髪が拳を振る。躱しざまに腕を取って、右のピアスに背負い投げ。二人分の衝突音。ロン毛が蹴りかかって来た。腕で防ぎ、足を取り、引き寄せて顎に一発。昏倒。
起き上がった赤髪が向かってくる。最小限の動きで躱し、足を掛ける。バランスを崩したところに腹へ蹴り。うめき声。
起き上がったピアスと短髪。短髪から捌く。頭に蹴り。壁に吹き飛んで動かなくなる。
残ったピアスは格闘技経験者のようだった。こちらとの距離を見定め、雑には向かってこない。なので、こちらから向かう。即座に距離を詰め、反応が遅れたところで顔に一発。怯んだ腹に一発。前屈みになった頭を掴み、顔に膝を入れた。崩れて、地に伏す。
悲鳴も怒鳴り声も、もうない。
——早ぇな。
自分で片付けておいて、そう思った。本物の、命のやり取りと比べれば、ただの乱取りにもならない。
最後に残ったのは、ナイフを持ったリーダー格の金髪だけだった。俺は、そいつに向かって歩いた。
「どうした?俺を殺すんだろ?」
男が後ずさる。
「ひっ……」
足を止めない。静かに向かって行く。
「なにビビってんだよ。ほら、来いよ?」
男が歯ぎしりして、突っ込んできた。
「くそが!舐めてんじゃねえ!」
(……はっ)
内心で、乾いた笑いが漏れた。
ナイフの振り方も分かってない。手首で振ってる。刃の向きも甘い。距離感も最悪。
俺は一歩引いて躱し、腕を取って捻った。ナイフが落ちる。金属音が路地裏に響く。
すぐに腹に一発入れる。前屈みになったところを顔面を殴り上げ、上体を起こさせて——最後に胸を蹴る。男が吹き飛び、ゴミ捨て場に倒れた。
まだ意識はある。目が泳いでいる。
俺は落ちたナイフを拾い上げた。
手に取った瞬間、冷たい金属が掌に馴染んだ。
(軽いな)
愛用していたナイフとは刃渡りも重さも違う。それでも、人の命を奪うには十分なもの。
——そして、その手触りを、俺の手は忘れていない。
背中が、ざわりとした。
路地裏にいるのは、日本の不良の餓鬼どもだ。それは分かっている。分かっているのに、ナイフを握った指は戦場の癖で動こうとしている。
(……クソが)
自分に向けた舌打ちを、飲み込む。
ゆっくり、男に近づく。声は驚くほど静かだった。
「お前さ、俺に殺すって言ったよな?で、ナイフを俺に向けて振った」
男の顔が、恐怖で歪む。俺は男の腹に足を乗せた。動けないように。
「動脈が切れれば、俺は大量に血を出して死んでた。これはそれができる道具だからな」
言いながら、刃先をゆっくり持ち上げる。男の喉が引きつる。
「ま、なんにせよお前は、俺を殺そうとしたって訳だ」
男の目を見て、無表情で静かに言った。
「なら……殺されても、文句は言えねぇな?」
「や、やめ……!」
ナイフを振り下ろした。
——ザクッ!
男の顔のすぐ横、ゴミ捨て場のゴミ袋に刃が突き立った。男が声にならない声を出す。震えている。
俺は、刃を抜かずに言った。
「殺す覚悟も、殺される覚悟もねぇ。人を殺す道具を持ってるのに、それを正しく理解してねえ」
息を吐く。
「そんなんで——軽々しく殺すなんざ口にすんじゃねえよ」
半分は男に向けた言葉で、半分は、ナイフを握ったまま戦場の動きをなぞろうとしていた自分自身への言葉だった。
俺は背を向けて歩き出した。路地裏の出口が近づく。空気が少しだけ広くなる。
「……あ」
思い出したみたいに、顔だけ振り向いた。
「次絡んできたら——殺すぞ」
自分の声が、遠く聞こえた。
◇
路地裏を出ると、人通りが戻る。薄暗い場所から出てきたので、夕焼けが眩しい。
(やっちまったな……)
喧嘩するなと立川に言われてたのに。
(いや、俺からは仕掛けてないからノーカンにしよう)
立川には黙っておくことを決め、家に帰ろうと横を向くと、見慣れた人物がいた。眼鏡をかけ、マフラーをした女子高生。朝田だった。
——見られたか。
胸の奥が、軽く冷える。どこから見られていた?
「……何してんだよ」
俺が言うと、朝田は少し息を乱したまま、答えた。
「……あんたが、連れて行かれるのが見えたから」
どうやら彼女は俺がアイツらに連れて行かれるところを見て、様子を伺っていたらしい。
「それはそれは。心配してくれたみたいでどうも」
戯けるように言うと、朝田が眉をひそめる。
「なによそれ」
「いーや別に?行こうぜ」
歩き出すと、足音がついてくる。少し遅れて、朝田が口を開いた。
「……ねえ」
「なんだよ?」
「……さっきのこと。喧嘩、強いのね」
「あー……まあ、な」
「海外にいたって言ってたわね?」
「……そーだけど?」
そこで、朝田の歩みが少しだけ遅くなった。迷ってる呼吸が聞こえる。
「あんたは昔……何をしていたの?」
俺の足が止まった。背中に、朝田の視線が刺さる。
「さっきのこともそうだし、GGOでもシステムアシスト無しで弾を当てる技術。そんなの、普通じゃない」
黙っていると、続けて言葉が落ちてくる。
「それに、さっきの言葉。殺し、殺される覚悟」
朝田の声が少しだけ、震えている。
「そんなの、普通の生活じゃ考えない。思いもしない。なのに、あなたはそれを理解しているみたいに喋っていた」
朝田が一息つく。そして、再びその質問を投げかけてきた。
「あなたは昔、どんな場所にいたの?」
俺は空を仰いだ。夕方の空。雲が流れている。
(どんな場所、か)
砂と、鉄と、爆炎の熱。ナイフで首元を切り裂く感触。吹き出る血。銃声が響き、倒れ伏す仲間だった少年たち。爆撃により跡形もなくなった瓦礫の山。それに潰された人の原型を留めない肉の塊。そこで俺は——
俺は、ゆっくりと振り向いた。
「それを知って……」
朝田の目を見た。たぶん俺の目は、きっと——空っぽだっただろう。
「お前はどうするんだ?」
◇
「それを知って……お前はどうするんだ?」
皆月の目を見て、私は息が詰まった。
こちらを見ているのに、見ていない。まるで、その瞳には何も映っていないみたいに錯覚するほど空虚だった。
私は、言葉が出なかった。
知って、どうする?
それは、私への問いであり、同時に——彼の警告だった。
踏み込むな。ここから先は、お前が軽く触っていい場所じゃない、という警告。
——知りたい。
喉の手前まで、そう出かかった。あの路地裏の、静かで、恐ろしいほど手慣れた動き。ナイフを握った瞬間の、空気の変わり方。それを今までどこで身につけたのか。何を見てきたのか。
知りたい。
でも。
知って、どうする?
私は、彼の何になれる?
たかがクラスメイトで、隣の部屋の住人で、GGOで組んでるだけ。彼の抱えているものを受け止められる関係じゃない。受け止める資格も、たぶんない。
そして何より——私だって、同じことをされたら困る。
あの事件を。あの銀行強盗の夜を。銃を握った私の手が、今も震えて動けなくなる理由を。
私は他人に踏み込まれるのが怖い。だから、他人にも踏み込まない。そうやって生きてきた。
皆月の目が、同じことを言っている。
踏み込むな、と。
しばらくの沈黙。
皆月が「はー」と大きくため息をついて、視線を外した。
「……ちょっとばかし治安が悪い所に住んでたからな。
殺人もそのへんで起きるような。そこで銃の撃ち方も、喧嘩の仕方も覚えたってだけだよ。自分の身は自分で守るしかなかったんでな」
淡々とした声。言葉は軽いのに、どこか重い。
私は直感した。
——嘘。
全部が嘘じゃない。でも、一番大事な部分を隠してる。嘘というより、切り取った真実。
だけど、私は何も言えなかった。言う資格がない。だって、私も隠しているから。あの事件を。あの忌まわしい過去を。
それは彼からの忠告で、私もまた同じように"踏み込まれたくない場所"を持っている。
「……そう」
それが、私にできる精一杯だった。
皆月は、さっきまでの空気を振り払うみたいに、急に調子を変えた。
「んじゃ、この話は終わりだ。……さっさと帰ろうぜ」
そう言って歩き出す皆月。私もそれについて歩き出す。
「あ、そういえば今日さ。地下ダンジョン潜ってあれ探そうぜ。メタマテリアル
そう、思い出したように言う皆月。メタマテリアル
「……そんなの、あるわけないじゃない」
「あるって噂だぜ?探してみようぜ。手に入ったら売るか使うか迷う所だなー」
わざとらしいほど、当たり障りのない話をする皆月。私はその横を歩く。
街灯が灯り始めて、影が伸びる。胸の奥はまだざわついていた。彼が見せた空虚な目が、ずっと頭に残っている。
あの目の奥に何があるのか——知りたい。
だけど、知るのは簡単じゃない。踏み込む資格を、私はまだ持っていない。
だから今は、ただの会話を続ける。隣を歩く。それだけ。
いつかこの沈黙が、言葉に変わる日が来るのかもしれない。あるいは、来ないのかもしれない。
それでも私は、この隣を降りない。
そう決めて、詩乃は彼の横に並んだまま、街灯に照らされた道を歩いていった。
SAO新作ゲームが発表されましたね。非常に楽しみです。ただ、アインクラッドの話なので、シノンは出ない様子。悲しみ。