銃を取ることを選んだ瞬間から、俺たちは子どもじゃなくなった。
名前で呼ばれなくなった。食事も、与えられる配給のみになった。自由なんてものは、無くなった。
この国で起こっていることは、簡単に言えば内戦だった。政府直属の軍と、元々政府軍に協力していた軍事組織との対立による内戦。町を襲ったのは、反政府を掲げる軍事組織だった。政府軍に対する見せしめ。そのついでに、兵士の補充として子どもたちを攫ったようだった。
戦争は、俺が想像していた喧嘩のようなものとは違った。街の一角が燃えたとか、誰かが撃たれたとか、そういう小さな次元の話じゃない。小さな国の中で、二つに分かれた"正しさ"が殴り合っていた。
政府軍の背後には、アメリカがいた。反政府軍の背後には、イタリアマフィアが牛耳る武器商人がいた。密輸された重火器や機関銃が、反政府軍の戦闘を支えていた。戦争は、金になる。それが、連中の支援の理由だった。
——もっとも、こんな構図が見えるようになったのは、ずっと後のことだ。この時の俺は、ただの"子ども兵"だった。誰が誰と戦っているかなんて、正直どうでもよかった。
◇
戦場の泥は雨じゃなくて、欲と金と恐怖でできていた。俺たち子どもは、その泥の一番下に沈められた。
反政府軍が子どもを集めるのは、理由があった。大人の兵士は減る。逃げる。裏切る。でも子どもは、逃げ場が少ない。そして、制御しやすい。なにより、覚えが早い。大人たちはそれを都合よく使った。
訓練は、地獄だった。
走れ。黙れ。見ろ。聞け。撃て。切れ。
銃の持ち方、構え方、撃つ時の姿勢。武器の手入れ。匂いと音の覚え方。格闘術。ナイフの振り方。人の殺し方。
覚えなければ、殴られた。逃げようとした子どもは、見せしめに殺された。だから、やるしかなかった。母の願いを裏切らない為に。
最初は泣いていた気がする。でも、泣いていても殴られた。だから泣くのもやめた。そしていつしか——泣き方を、忘れてしまった。
◇
そんな毎日が続いたある日、訓練場の隅で、俺と同じくらいの背丈の少年が、やけに明るい声で話しかけてきた。
「お前、日本人?」
発音が変だった。英語でもアラビア語でもない。
日本語だった。
久しく聞いていないその言語に、俺は思わずそいつの顔を見た。明らかに日本人ではない。おそらく、イタリア系。肌は俺より白く、目は軽い。
そして——笑っていた。
この場所で、笑うなんて、どうかしてる。周りの子どもは、みんな死んだ魚みたいな目をしているのに。こいつだけ、何かが違った。
「……そうだけど」
少年は胸を張るみたいに言った。
「俺、ルカ。よろしく、
差し出された手を、俺は警戒する。
「おいおい、そんな目すんなよ。俺も同じ境遇だって。……生きるために、ここにいる。だろ?」
その言い方が、妙に真っ直ぐだった。嘘、という感じはしない。俺は少し警戒を緩め、差し出された手を握り返した。そして、気になったことを聞く。
「……なんで日本語」
俺が聞くと、ルカは笑った。
「前に、日本人の大人がいてさ。ちょっとだけ教えてもらった。でもほとんど忘れちまった。だから、お前が来たのは助かる」
「……なんだそれ」
「いいだろ、日本語好きなんだよ。響きがさ。綺麗だよな。……お前、名前は?」
「……
「よろしく、キョウ」
◇
その日から、ルカはやたらと俺の近くにいた。
食事の列。訓練の待機。夜の薄い時間。やけに話しかけてくる。ルカは、イタリアのスラム出身らしい。親にマフィアに売られてこの国に連れてこられた、と笑いながら話していた。なにがおかしいのか、と聞いたら——
「クソみてぇな人生だからな。笑わねぇとやっていけねぇよ」
と答えた。俺は何も言えなかった。気まずそうにしていると、ルカが聞いてくる。
「お前さ、もし国に帰れたとしたら、何したい?」
「……特に何もねぇ。帰れるかも分かんねえし」
「なんだよ、夢のないやつだな。俺さ、日本に行ってみたいんだよな。飯うまいらしいじゃん?」
「少なくとも、ここよりゃマシだな」
「は、言えてる」
ここの食事は栄養バーや缶詰など、とてもまともな食事とはいえないようなものばかりだ。最低限の機能だけの食事。
「いつか、腹いっぱい日本食食ってみてえな。……そんときは案内してくれよ、キョウ」
「……お互い生きてればな」
「違いない」
そう言って、くだらないことで笑い合う。ルカとのこの時間は、兵士ではなく、年相応の子供だった。ほんの一時、それだけのこと。だけど、この一時がなかったら、俺はもっと早くに壊れていたと思う。
◇
「キョウ、日本語教えてくれよ」
「またかよ、飽きねぇな」
「いいだろ、減るもんじゃねえし」
俺たちは、お互いの母国語を教え合うようになった。俺はルカに日本語を教え、ルカは俺にイタリア語を教えた。
「キョウって、どういう意味なんだ?」
ある日、そう聞かれた。その言葉で、昔両親が言っていたことを思い出した。
——もういない、二人の顔。
喉の奥が、少しだけ詰まる。俺はそれを飲み込んでから、口を開いた。
「……あかつきって言葉があってな。そこから取ってる。夜明けのことだよ」
「へぇ、いい名前だな」
ルカは少し考えてから、続けた。
「夜明けはイタリア語だと——
アルバ。
その音が、やけに綺麗で、耳に残った。俺の名前と、同じ意味。違う言語。違う響き。なのに、どこか繋がっている。
「夜明けの時間っていいよな」
ルカが言う。
「なんで?」
俺は特に何も思ったことはないので、その気持ちに共感できなかった。なので、純粋な質問だった。
ルカは少しだけ空を見上げた。夜明けにはまだ早い、ただの暗い空を。
「夜の終わりは——今日も生きてたって証明だろ?」
そう言って笑うルカは、今の俺には少しだけ眩しく映った。
◇
翌朝、俺たちは初めて"訓練"じゃない場所へ連れて行かれた。
銃を持たされ、弾を渡され、トラックの荷台に乗せられる。
「キョウ。大丈夫だ。俺がいる」
俺は頷くしかなかった。
空の青さは、あの日と同じだった。でももう、同じではなかった。
トラックの荷台は、鉄の匂いがした。油と砂と汗が混ざった匂い。座るたびに金属が鳴って、体の芯まで振動が伝わる。
銃は冷たかった。渡されたのは、どこにでもある"それ"だった。黒くて、角張ってて、重い。教わった通りに抱えているのに、手のひらの汗で滑りそうになる。
(落とすな)
そう思うだけで心臓が痛い。
外の景色は、もう"街"じゃない。建物の間隔が広くなり、道は荒れて、時々、燃え跡みたいな黒い壁が見えた。空は青いままだった。あの日と同じくらい高くて、綺麗で、無関心だった。
トラックが減速する。前方で大人たちが手信号を出す。エンジン音が落ちると、今度は遠くの音が聞こえてくる。
風。犬の鳴き声。誰かの怒鳴り声。
そして——乾いた音。
パン。
俺の体が勝手に固まった。あの音は、もう知っている。嫌でも覚えた。
「降りろ」
今回の作戦の指揮を執っている男が言う。俺たちは荷台から飛び降りた。砂が舞い、靴が沈む。呼吸が熱い。
「隊列。二列。頭を上げるな。銃は前」
命令が飛ぶ。俺は言われた通りに動く。考えると遅れる。遅れると殴られる。殴られると倒れる。倒れると——終わる。
俺たちは、低い土壁の陰に並ばされた。向こう側に何があるのか見えない。見ない方がいい気もする。それでも、見ないと死ぬ。本能がそう言っていた。
「敵は政府側の偵察隊だ。数は少ない。だが油断するな」
男がそう言って、俺たちを一人ずつ見回す。子どもを見る目じゃない。道具を見る目だ。
「撃て。躊躇するな。撃たなかったやつは——死ぬ」
"死ぬ"という言葉が、軽く言われた。軽く言われたからこそ、重かった。
俺は銃を握り直す。指が震えている。震えているのに、訓練で叩き込まれた"形"だけは作れる。
構え。頬付け。視線。呼吸。引き金。
土壁の向こうで、誰かが走った音がした。
「来るぞ」
ルカが小さく言う。俺は息を止めた。
次の瞬間、土壁の向こうから影が飛び出した。銃を持っている男が見えた。こちらを向く。
——時間が、伸びた。
相手の動きが遅く見える。自分の心臓の音だけがやけに大きい。相手の顔が見える。ヒゲ。日焼けした肌。目が俺を捉える。
(撃て)
頭の中で、誰かが言った。母さんの声じゃない。父さんの声でもない。訓練官の声でもない。
——これはきっと、俺自身の声だ。
俺は引き金を引いた。
乾いた衝撃。肩が跳ね、耳が詰まる。
視界が一瞬揺れて——戻った時、男は膝から崩れた。
倒れた。
"倒れた"という事実だけが、先に入ってきた。それが何を意味するかは、少し遅れて追いついてくる。
——俺が、撃った。
——俺が、当てた。
——俺が、殺した。
段階を踏んで、事実が体に入ってくる。腹の奥が冷たくなる。吐き気が上がる。でも吐く時間なんてない。
二人目が出てきた。三人目が、壁の影から銃口を向けた。
「キョウ!」
ルカの声が耳を刺す。俺はもう一度、引き金を引いた。
また肩が跳ねた。音が鳴った。相手が倒れたかどうかを見る前に、次の影に照準を移した。
(見るな)
見ると、止まる。止まってしまう。止まったら、終わる。
俺は撃った。訓練のように。ただひたすらに。何も考えずに。撃つ。当てる。敵が倒れる。
その繰り返しが、俺の中の何かを薄くしていく。薄くなるほど、動きは速くなる。速くなるほど、周りの大人たちは満足そうになる。
気づけば、土壁の向こうは静かになっていた。風の音だけが戻る。遠くの犬の鳴き声が、やけに普通に聞こえた。
「終わりだ」
男が言った。誰かが笑った。誰かが咳き込んだ。
俺は銃を下げたまま、手の震えだけを見ていた。
(……俺、人を……)
事実が、じわじわと体に染みてくる。初めて、人を撃った。その弾丸で、人が倒れた。そしてもう——戻ってこない。
俺がその事実に浸る前に、男が次の命令を投げた。
「弾を回収しろ。使えるものを集めろ。走れ」
走る。拾う。銃弾。マガジン。水筒。ナイフ。手が勝手に動く。考えない。考えたら、崩れる。
ルカが俺の横に来た。いつも通りの顔。でも——目だけが、少し遠くを見ていた。こいつも撃ったんだ、と分かった。同じ日に、同じ数だけ、何かを失ったんだ。
ルカが、小さく息を吐いた。
「……生きたな」
その言葉に、俺は頷けなかった。
確かに生き残った。でも、俺が生きたことで誰かが全てを失った。
褒め言葉のはずなのに、胸の奥が冷たくなった。
◇
その日の夜、俺は眠れなかった。
目を閉じると、倒れた男の"形"だけが浮かぶ。顔は、思い出せない——いや、正確には、思い出したくない。見たはずなのに、見なかったことにしたい。ただ、膝が折れて、倒れた。それだけが繰り返される。
ルカが隣で小声で言った。
「キョウ、大丈夫か」
「……わかんねぇ」
それが正直な答えだった。大丈夫かどうかを判断するための"基準"が、もう消えかけていた。
「吐きそうか」
「……吐けるなら、吐きてぇ」
ルカは少し笑って、俺の肩を軽く叩いた。
「吐けないなら、まだどうにかなる」
その言葉に、妙に納得してしまうのが腹立たしかった。こいつも、同じ夜を何度か通ってきたんだろう。そう思うと、少しだけ息ができた。
その直後、外でまた銃声がした。遠い。だけど確かに聞こえる。
「起きろ」
大人の声。
「移動だ」
休む暇なんてなかった。事実に浸る時間なんて、最初から与えられていなかった。
俺たちは立たされ、また銃を持たされ、また走らされた。次の戦闘が来る。次の命令が来る。次の敵が来る。
そして俺は——また引き金を引く。
最初の一発ほど、手は震えなかった。最初の一人ほど、胸は痛まなかった。
代わりに、空っぽになっていく感覚だけが増えた。
"殺した"という事実が、俺の中で重くならないように、世界が勝手に速く進む。止まってしまうと、俺は壊れるから。だから俺は、動く。撃つ。殺す。次々に。
でも、分かっていた。
本当はもう——とっくに壊れている。きっと初めて人を殺した瞬間から。
それでも、生きる。生き延びる。
母さんに約束したから。
ただ、それだけ。
そうして俺は、初めて人を殺した事実を"背負う"前に、それが"日常"になる側へ、転がり落ちていった。
過去編残り1話です。お付き合いください。