依頼
立川晋也がその少年と出会ったのは、もう二年以上前のことになる。
内戦終結直後の、廃墟と死体と硝煙が混ざり合った街。民間人救出任務の最中、立川たちの部隊は逸れてしまい、別行動を余儀なくされていた。通信は切れていた。仲間の部隊との合流地点まで、まだ距離があった。
そこで、残党兵に遭遇した。
反政府軍の敗北が決定的になった直後の残党兵は、獣に近い。組織から切り離され、補給も指揮もなく、ただ怒りと絶望だけを抱えて彷徨っている連中。プロの傭兵として数多の戦場を経験してきた立川でも、この手の相手は厄介だった。理屈が通じない。取引も成立しない。ただ、殺すか殺されるかだけがある。
五人に囲まれ、弾は残り数発。立川は腹を括った。
——ここまでか、と思った。
元自衛隊。幹部候補だった。それを蹴って民間軍事会社に入った。金のためじゃない。自分の力をもっと必要とされる場所で使いたかった。それだけの単純な動機で、ここまで来た。そして、その終着点がここだというのなら、それも悪くない。
そう思った、次の瞬間だった。
パン、と乾いた音。
残党兵の一人が、いきなり崩れ落ちた。
立川が反応するより早く、二発目。三発目。四発目。——ほんの数秒で、五人全員が倒れた。
どこから撃っている。
立川は警戒しながら周囲を見回した。
やがて、廃ビルの陰から、影がゆっくり歩いてきた。銃を地面に置き、両手を上げている。敵意がないことを示すジェスチャー。
立川は息を呑んだ。
身長は高めだが、線は細く顔には幼さが残る。明らかに子どもだ。だが、その目は——立川が今まで戦場で見てきたどの兵士よりも、冷たかった。殺すことに慣れた目。殺すことを恐れていない目。同時に、何かをすでに失い切った目。それが――14 歳の皆月暁だった。
「……日本人、だよな」
少年は、日本語でそう言った。久しぶりに聞いたような、少し硬い発音だった。
立川は、その日本語を聞いた瞬間に、ほとんど反射で決めていた。
——この子どもを、置いていけない。
理由は、後でいくらでも付けられた。日本人だから。国籍上の保護義務があるから。民間人の救出も任務のうちだから。だが、本当の理由は、もっとシンプルなものだった。
こんな目になってしまうしかなかった少年を、戦場に残してはいけない。
人として、それだけだった。
◇
あれから二年と少し。
立川は車のハンドルを握りながら、アパートの方へ向かっていた。東京都内、文京区湯島。少し古いが手入れの行き届いた建物。暁が住んでいる場所だ。
今日は特に約束はしていない。だから、抜き打ちである。この男、放っておくと生活の最低限しかやらないので、時々こうして様子を見に来るのが立川の習慣になっていた。
「今日で、十一月も終わりか」
独り言を漏らして、車をアパートの前に停めた。時刻は夕方。空は既に暗くなり始めている。冬が近い。
車から降りた瞬間——
「あ?」
低い、聞き覚えのある声。振り向くと、ちょうど制服姿の暁が、通学路の向こうから歩いてくるところだった。鞄を肩に引っかけ、ポケットに手を突っ込んでいる。いつも通りの目つきの悪さ。
「よう。生きてるか」
立川が言うと、暁は目を細めた。
「見りゃ分かんだろ。つーか、来るなら連絡しろよ」
「連絡すると、お前、予定合わせるだろ」
「そりゃそうだろ」
「だから、連絡しねぇの」
「……クソ野郎」
悪態をつきながらも、暁は立川をアパートの前の空間に招き入れる仕草をした。立川はその背中を見ながら、わずかに目を細めた。
——何かが、違う。
二年、この少年を見てきた立川には、暁の変化は些細でも分かる。
歩幅。いつもより半歩短い。人とぶつからない距離を無意識に確保する癖は抜けていないが、その緊張の度合いが、少しだけ緩い。視線の配り方。周囲への警戒はあるものの、戦場の癖特有の"射線を確認する動き"が、以前より減っている。そして——声。いつもの悪態に、わずかに柔らかさがある。
立川は内心で呟いた。
(顔つきが、変わってきてるな)
「なんだよ、じっと見てきて」
暁が怪訝そうに振り返った。
「いや、何でもねぇ。お前、最近どうだ?」
「別に。普通だよ」
「飯は」
「食ってる」
「寝てるか」
「……それなり」
その"それなり"の重みが、以前より軽い。夜、眠れずに天井を見つめる時間が、少なくとも減っている。立川には分かった。
「学校は」
「問題ねぇ。テストもそこそこ」
「友達は」
一瞬、暁が沈黙した。
「……別に、いねぇよ。どうでもいい」
だが、その沈黙が、立川には引っかかった。以前の暁なら、この質問には即答していた。「いねぇ」「つくる気もねぇ」と。だが今は、一拍置いた。その一拍の中に、何かがある。
「ふぅん」
立川は敢えて追及しなかった。代わりに、別の方向から聞いてみた。
「GGOはどうだ」
「まあ、やってる」
「一人で?」
二度目の沈黙。今度は、さっきより少しだけ長かった。
「……最近、一人じゃねぇ時もある」
「ほう」
「コンビだよ。狩りのな。効率がいいってだけだ」
暁はそう言って、立川の目から視線を逸らした。これは——立川の知る限り、暁が何かを隠そうとする時の動作だった。
立川は、口元を小さく緩めた。
「で、そのコンビってのは?」
「お前には関係ねぇだろ」
「関係あるだろ。保護者だぞ、俺」
「いーや関係ないね」
そんなやり取りをしていた、その時だった。
「——あ」
アパートの敷地に、別の人影が入ってきた。制服姿の女子高生。眼鏡。マフラー。肩にかけた鞄。
女子高生は、立川を見て一瞬、足を止めた。警戒の色が、瞳の奥に走った。それから、暁を見て、少しだけ首を傾げた。
「……お客さん?」
「ああ」
暁が、いつもと同じテンションで返した。
「俺の保護者だよ。前少し話したろ」
「ああ。例の……」
女子高生が納得した顔をした。そして、立川に向き直って、浅く頭を下げた。
「初めまして。朝田詩乃と言います。皆月くんの隣の部屋に住んでいます。学校も同じクラスで、隣の席です」
——隣の部屋。隣の席。
立川は、一瞬でいくつかの情報を処理した。その情報の束を、さっきからの暁の変化と重ねる。GGOのコンビ。隠したがった相手。一人じゃなくなった夜。
(なるほど)
立川は、内心で笑った。
「立川晋也です。暁の後見人をやってます。……そうか、君が隣の」
「はい」
朝田詩乃という少女は、丁寧な挨拶をした。だが、立川の目は彼女を観察していた。
背筋は伸びているが、肩が微かに内側に入っている。他者の視線に慣れていない姿勢——いや、他者の視線から身を守ることに慣れた姿勢。この子も、何かを抱えている。それも、軽いものじゃない。
そして、暁の様子。彼女に対してだけは、警戒を解いていた。完全にではない。でも、かなりの程度。この男が他人に対してこの距離感を取るのを、立川は久しぶりに見た。いや――初めて、かもしれない。
「こいつが迷惑かけてないか?」
立川が聞くと、詩乃は少し口元を緩めた。
「……どちらかと言えば、かけられていますね。学校の授業中に寝てたり、宿題忘れて私のを写したり」
「おい、言うなよそれ」
「事実じゃない」
「事実だけどよ」
立川は、目を丸くした。
——暁が、こうして言い返される関係を持っている。
二年前、残党兵を一瞬で始末した十四歳の子どもが、今、隣の席の女子高生にツッコミを入れられて、顔をしかめている。それが、立川には——信じられないほど、嬉しかった。
「詩乃ちゃん、だったかな」
「はい」
「こいつは愛想無いし、口も悪いけど、悪いやつじゃない。だから、仲良くしてやってくれると助かる」
立川はそう言って、軽く頭を下げた。詩乃は少し戸惑ったように、しかし真面目な顔で頷いた。
「……こちらこそ、です」
「おい、なんだよ急に。やめろよ、そういうの」
暁が照れたように視線を逸らした。その照れ方が、あまりにも普通の十六歳の少年だったので、立川は思わず笑ってしまった。
「んじゃ、俺は帰る。今日は顔見に来ただけだ」
「もう帰んのかよ?」
「お前の顔見れただけで十分。冷蔵庫にいろいろ入れとくわけじゃねぇけど、何か足りねぇもんあったら連絡しろ」
「必要ねぇよ。買い出しぐらい自分で行くわ」
立川は車のドアに手をかけた。その直前、詩乃に向かってもう一度、少しだけ声を落として言った。
「詩乃ちゃん」
「はい?」
「こいつ、見た目ほど頑丈じゃない。時々、そういう時がある。だから…よろしく頼むよ」
詩乃は、一瞬だけ目を丸くした。それから、小さく、しかし確かに頷いた。
「……知ってます。たぶん」
その答えに、立川はもう何も言わなかった。言わなくても、彼女は分かっている。それが分かった。
車に乗り込み、エンジンをかける。バックミラーに、アパートの方へ歩き始めた二人の姿が映る。何かを言い合いながら、階段を上がっていく二人。
(……そうか)
立川は静かに息を吐いた。
(お前、そんな風に笑えるんだな)
二年間、立川はずっと暁の隣にいた。できる限りのことはしてきたつもりだった。勉強を教え、生活を整え、夜眠れない時には一緒に飯を食い、戦場で壊れかけたこの子どもを、どうにか日常に繋ぎ止めようとしてきた。
でも、立川には限界があった。
暁の抱えているものは、立川にも理解できる。同じ戦場で生きた人間として、想像はつく。だが、俺ではダメだ。戦場で生きてきた自分じゃなく、同年代の戦場とは関係ない相手じゃないと、届かないところがあるのだ。立川には、その領域には入れない。
あの女の子。
戦場帰りじゃないが、何かを抱えている。そして暁の隣にいて、暁もその存在を受け入れている。
立川は、それを見ただけで十分だった。
(よろしくな、詩乃ちゃん)
心の中でもう一度、そう言った。
車を発進させた。
◇
アパートから数分走ったところで、ポケットのスマートフォンが鳴った。運転中だったので、立川は次の赤信号で停まってから、画面を確認した。
——菊岡誠二郎。
立川は、短く息を吐いた。
この男から電話がかかってくる時は、大抵、ろくな話じゃない。防衛大の同期。昔は真面目で物静かな男だったが、今は総務省仮想課に出向している。らしい。いや、"出向"というのも表向きの話で、実際の所属は陸上自衛隊のはずだ。階級は二等陸佐まで上がっていた。
しかも、菊岡はただの官僚じゃない。何年も前から、VRMMOと現実世界の境界線をめぐる事件にちょこちょこ首を突っ込んでいる。旧SAO事件の対応チームのリーダーでもあった。そういう男が、わざわざ立川に連絡してくる。
立川は、電話を取った。
「よう。久しぶりだな、菊岡」
『久しぶり、立川くん。元気かい?』
柔らかい、丁寧な声。昔から変わらない、人の良さそうな喋り方。だが、立川はもうこの声の裏にあるものを知っていた。
「元気だよ。お前は?」
『まあ、相変わらず面倒事ばかりだね。——それで、早速で申し訳ないんだけど、話があってね』
「……嫌な予感しかしねぇな」
『ははは。まあ、聞いてくれ。彼…皆月暁くんのことだ』
立川の表情が、一瞬で変わった。菊岡と暁は、帰国した直後に面会している。立川は暁の帰国の際に、菊岡に連絡を取り、政府との間を取り持ってもらった。穏便に暁の帰国が許可されたのは、菊岡のおかげ、と言ってもいい。
「……あいつが、何だ」
『安心してくれ。悪い話じゃない。いや——悪い話か、良い話かは、立川くんや、彼次第かもしれないけどね』
菊岡は一拍置いてから、続けた。
『GGOで、少し厄介なことが起きている。知っているかい?』
「GGOで?…いや、知らないな」
『とあるプレイヤーがゲームの中で撃たれたんだが、そのプレイヤーは現実世界でも死亡していたという事があったんだ』
立川は、息を呑んだ。
菊岡は、淡々と続けた。
『先月、第2回BoBの優勝者だったゼクシードというプレイヤーが、生放送のインタビュー中に銃撃された。もちろん、ゲームの中でね。銃撃された直後に、現実でも急性心不全で死亡。偶然か、因果関係があるのか、我々はまだ判断しかねている』
「……ゲームで死んだら、現実で死ぬ?そんな馬鹿な話があるか」
『普通ならあり得ない。でも、現に起きている。同じような事例が、もう一つ報告されているんだよ』
立川は、ハンドルを握る手に力を込めた。
「で、何で暁の話になる」
『皆月くん、GGOでかなり名を上げているようだね。《白狼》、と呼ばれている』
「……知ってんのかよ」
『立場上、仮想世界関連の有名プレイヤーは把握していてね。それに皆月くんは、君の——我々の知る少年だからね。経歴も含めて』
立川は舌打ちをした。この男、相変わらず抜け目がない。
『彼の戦闘能力、それから戦場での経験。それらを踏まえて、少しお願いしたいことがあるんだ』
「……依頼か」
『ああ。皆月くんに、GGOでの調査に、協力してほしいんだ』
立川は、しばらく黙った。
信号が青に変わる。後ろの車がクラクションを鳴らした。立川はゆっくり車を発進させ、路肩に寄せて停めた。
「……菊岡」
『なんだい?』
「あいつを、もう一度戦場に戻すのか」
『ゲームだよ』
「ゲームで、人が死んでるんだろ」
『……そうだね。失礼した』
菊岡は短く謝った。だが、引き下がらなかった。
『立川くん。率直に言わせてもらう。皆月くんの経験と能力は、この事件の調査に大きな助けになると僕は思っている。彼がGGO内で戦う実力、そして彼の戦場での判断力。どちらも、普通のプレイヤーには期待できないものだ』
「あいつは、その普通になろうとしてる」
『もちろん、分かっている。だから——強制はしない。皆月くんが嫌だと言えば、それで終わりの話だ』
「本人に直接言え。俺を通すな」
『通さざるを得ないんだよ、立川くん。彼の後見人は君だ。それに——この話を彼にどう伝えるかは、君の判断に任せたい』
立川は、目を閉じた。
暁の顔が浮かんだ。十四歳の、あの冷たい目。そして、今日見たばかりの、少しだけ柔らかくなった表情。隣の女の子に言い返されて照れている顔。
その顔に、また戦場を被せるのか。
自分は、何のために二年間、暁を守ってきた?
『立川くん』
菊岡の声が、電話の向こうから聞こえる。
立川は、しばらく言葉を失っていた。
やがて、短く息を吐いて、口を開いた。
「……詳しい話、持ってこい。判断は、俺じゃなく暁がする」
『承知した。明日、伺うよ』
通話が切れた。
立川は、フロントガラス越しの夜空を見上げた。
東京の夜空は、あの戦場の夜空とは違う。星が見えない。でも、同じように冷たかった。
(暁)
立川は、心の中で呼んだ。
(お前が選ぶ道を、俺はまた、隣で見守るしかねぇんだな)
答える声は、ない。
代わりに、都会の車の音が、遠くから響いていた。
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