十二月七日。
銀座の表通りから一本入ったところにある、小さなカフェ。
俺、桐ヶ谷和人——こと、キリトは、対面に座る男の話を聞きながら、ここに来たことを心底後悔していた。
「——というわけで、君に頼みたいんだ、キリト君」
向かいでにこやかに微笑むのは、菊岡誠二郎。総務省仮想課の人間。SAO事件の対応チームのリーダーとして、目覚めた直後の俺に最初に接触してきた男。柔らかい物腰の裏に、計算高い官僚の顔を隠している。今日も、そういう顔でここに座っている。
俺は、空になりかけたコーヒーカップを置いた。
「ガンゲイル・オンラインにログインして、この《死銃》なる男と接触してくれないかな」
にっこり。と実に無邪気な笑顔を見せる公務員に、最大限冷ややかな声をぶつける。
「接触、ねえ?ハッキリ言ったらどうだ、菊岡サン。撃たれてこい、ってことだろう、その《死銃》に」
「いや、まあ、ハハハ」
「やだよ!何かあったらどうするんだよ。アンタが撃たれろ。心臓トマレ」
先ほど、GGO内で起こった死銃とやらの銃撃と、それに続く複数の変死体の話を、たっぷり聞かされた後だ。まともな話じゃない。現実世界でプレイヤーが死んでいる。しかも、ゲーム内で《死銃》とやらに撃たれた人物が。
「さっき、その可能性はないって合意に達したじゃないか、僕らは。それに、この《死銃》氏はターゲットにかなり厳密なこだわりがあるようだ」
「……こだわり?」
やむなく腰を下ろし、問い返す。
「イエス。ゲーム内で《死銃》が撃った二人、《ゼクシード》と《薄塩たらこ》はどちらも名の通ったトッププレイヤーだった。つまり、強くないと撃ってくれないんだよ、多分。僕じゃあ何年たってもそんなに強くなれないよ。でも、かの茅場氏が最強と認めた君なら……」
「俺でも無理だよ!GGOってのはそんな甘いゲームじゃないんだ。プロがうようよしてるんだぞ」
「そこで、だ」
菊岡は、待っていたかのようにそう切り出した。
「僕の知り合いが面倒を見ている子が、GGOをやっていてね。しかも、トッププレイヤーらしいんだ。その子に君の案内役を頼んでおいたんだが——」
そう言った、ちょうどその時だった。
カフェのドアベルが鳴った。
◇
その音と同時に、俺の背中が、軽く冷えた。
理由は自分でも分からなかった。ただ、ドアが開いた瞬間、空気の密度が微かに変わったような感じがした。
振り向く前に、菊岡が顔を上げた。
「やあ、皆月くん。時間通りだね」
「よう、久しぶりだな。菊岡サン」
低い、無愛想な声が返って来た。
そこでようやく、俺は振り向いた。
ダウンジャケットを羽織った、高校生ぐらいの男子。目つきが悪い。黒髪を短く切っている。細身だが、手首の筋が浮いて見える。身長は俺よりも10センチほど高い。だが、それ以上に大きく見える。何だろう、この違和感。体格の問題じゃない。姿勢の問題でもない。ただ、そこに立っているだけで、空間の重心が彼の方へ少し傾く。そんな錯覚がある。
視線の動き方が、普通じゃない。入り口から一瞬で店内を確認し、席の配置、客の位置、店員の動線、出口の角度——全部を一巡してから、菊岡と俺の席に視線を戻した。その一連の動きが、反射に近い速さで行われた。一秒もかかっていない。
俺はこの動きを知に似たものを知っている。
——アインクラッドで、俺自身がやっていた動き。
一階層ごとに、ボス部屋の入り口で、俺もあの目をしていた。どこから何が来るか、どの角度から敵の攻撃が通るか、どの位置が一番死ににくいか。それを一瞬で計算する。命が懸かっていた二年間、俺の体はそういう動き方を覚えていた。
しかし、この男は——ゲーム内じゃない。現実のカフェで、この動きをしている。
まだ、人を殺し殺され得る世界の住人みたいな目。
(……何者だ、こいつ)
俺は気づかれないように、コーヒーカップに視線を戻した。表面では平静を装いながら、内側では警戒のメーターが上がっていた。
男は菊岡の座るソファの横に立ち、無造作に口を開いた。
「俺が帰国してすぐだから…5ヶ月ぶりくらいか?」
「もうそんなになるのか。元気そうでよかったよ」
「は、そりゃドーモ。アンタは相変わらずの胡散臭さだな」
「はは、手厳しいね。…今日はわざわざすまないね。ここに来たっていうことは、依頼の方は受けてくれるのかな?」
「はっ……。それはアンタ次第じゃねえの?」
そう言って、男は俺の方にちらりと視線を向けた。一瞬、目が合った。その鋭い目つきに俺は少し気圧されてしまった。菊岡が、思い出したように口を挟んだ。
「ああ、すまない。キリト君、彼は皆月暁くん。皆月くん、彼は——」
「桐ヶ谷和人、だろ」
男が、言葉を先取りした。
「あんたが寄越した資料に目は通しておいた」
菊岡が苦笑する。皆月暁、と呼ばれた男は、肩を竦めて俺に改めて名乗った。
「皆月暁だ。……面倒な事になりそうだが、まあよろしく」
差し出された手を、俺は握り返した。
「桐ヶ谷和人です。……こちらこそ」
握手をした瞬間、手のひらの感触に違和感があった。手にタコがある。中指側面、それに人差し指と親指の間に厚く。その位置にタコができる何かを、俺は知らなかったので違和感を覚えた。気になってふと視線を握った手に向けると、視線が自然と彼の袖の内側に吸い寄せられた。
手首の内側に、薄く白い線。古い、治りきった傷。それが一本、いや、二本——もっとあるかもしれない。袖で隠されているが、肘の方まで何かがありそうに見える。
男が、俺の視線にわずかに気づいた。
「……古傷でな。あまり気にしないでくれ」
その声は、責めているわけじゃなかった。ただ、"見るな"という静かな要請。
「あ、ああ。こちらこそすまない」
俺は視線を外した。少し不躾すぎたと反省していると、男が俺の隣に座った。ソファが少し沈む。座り方も、無駄がない。背もたれに寄りかかりすぎず、かといって前のめりでもなく、すぐに立ち上がれる姿勢。
「……で? アンタ、本気で信じてんのか?《死銃》が存在するって。GGOプレイヤーの殆どはただの噂やら都市伝説みたいなモンだと思ってるぜ?……ここ、アンタの奢りだよな?好きに頼むぜ?」
そう言いながらメニューを手に取り、店員を呼ぶ暁。マイペースだ。というより、菊岡相手でも全く遠慮がない。
「ああ、何でも頼んでくれ」
菊岡が苦笑交じりに答える。
「……《ゼクシード》に《薄塩たらこ》が死亡したのは事実なんだ。その二人が《死銃》とやらに撃たれたのもね。その因果関係を調査したい。……キミはこの二人と関係は?」
店員に注文を終えた暁は、菊岡の言葉に肩を竦める。
「ゼクシードとは殺り合ったぐらいだ。たらこの方は……特にねえな。名前は聞いたことあるけど。……なんか関係あんのか、それ?」
「いやいや、ただの興味だよ」
菊岡はにこやかに流してから、改めて俺に向き直った。
「改めて皆月くん、君に頼みたいのは彼、キリト君のGGOの案内と、死銃の調査に協力して欲しい、という内容だ」
「おい、ちょっと待て。俺は受けるとは一言も言ってないぞ」
思わず口を挟んだ。
「こう言ってんぞ。菊岡サン」
暁が俺の援護に回る。味方なのか、ただ面白がっているのか、判別がつかない口調で。
「頼むよ、キリト君。そうだ、なら調査協力費という名目で報酬を支払おう」
菊岡はしばらく考えるふりをしてから、指を三本立てた。
「その……GGOのトッププレイヤーが月に稼ぐという額と同じだけ出そうじゃないか。——これだけ」
指を三本立てた菊岡を見て、先程の会話の中に出てきた金額を思い出す。三十万。その言葉に俺の判断が揺らいだ。
「もちろん、安全は保障する。キリト君には、こちらが用意する部屋からダイブしてもらって、モニターしているアミュスフィアの出力に何らかの異常があった場合はすぐに切断する。撃たれてこい、とは言わない。君の目から見た印象で判断してほしいんだ」
まだ迷ってはいるが、腹の内はほぼ決まりつつあった。俺は、隣で平然とショートケーキを食べ始めている暁に話しかける。
「……皆月さんはどうなんだ?てゆうか、皆月さんに頼めばいいんじゃないか?」
暁が視線を向けた。フォークを持ったまま、口の端を微かに上げる。
「死銃と接触する確率を増やしたいんだろ? このお役人様は。俺らは生贄ってわけだ」
「それで納得したのか?」
「癪だがこの男には借りがあるんでな。さっさと返しておきたいから受けることにした」
借り。それがどういう種類のものかは、聞かない方が良さそうだった。菊岡はにこにこと微笑んだまま、何も言わない。
俺は、観念したように絞り出した。
「……わかったよ。行くだけは行ってやる」
菊岡が、心から嬉しそうに頷いた。暁は、ケーキにフォークを突き刺しながら、興味なさそうに窓の外を見ていた。
ただ、その窓の外を見る目も——やっぱり、普通じゃなかった。
◇
話がまとまった後、店を出ると、もう陽が落ちかけていた。
銀座の裏通りは、あまり人通りがない。等間隔に並んだ街灯が、ビルの壁に長い影を落としている。
「しかしまあ、エグい金額だったな」
暁が、両手をポケットに突っ込んで呟いた。
「ああ……カフェであんな金額初めて見た」
そう返すと、暁がこちらに向き直る。
「ま、面倒な事になるが改めてヨロシク」
「ああ、こちらこそ」
「アンタ、BoB大会当日にコンバートするんだよな?」
「そのつもりだけど」
「なら、開始二時間前ぐらいに初期リスで待ってな。迎えに行ってやるよ。GGOの説明やら装備を揃えるのやらがあるからな」
「ああ、助かるよ」
「んじゃ、それで」
そう言って暁が歩き出した。
俺はその背中を少しだけ目で追った。歩き方にも無駄がない。視線は前を向いているのに、周囲の情報を常に取り続けている気配がある。その背中を眺めていると、暁がふと思い出したように振り返った。
「あ」
「?」
「向こうでの俺の名前。アルバだ」
「アルバ、か。いい名前だな」
「そりゃどーも」
そう言って、今度こそ暁は歩き去った。夕方の光の残りが、彼の肩のあたりで薄く跳ねる。
俺はしばらくその場に立って、冬の銀座の空気を吸った。
(……案内役、ね)
あの皆月暁という男。
もし、《死銃》が本当に存在するなら、そして、本当にトッププレイヤーを狙っているなら。
——あの男は、きっと狙われる。
俺の勘は、そう告げていた。
だから、一緒に行くのは悪くない。互いが互いの目になる。俺はSAO生還者で、彼は——何者かは知らないが、少なくとも戦いの経験が身体に染みついている。二人なら、片方が見落とした何かを、もう片方が拾える。
俺はマフラーを巻き直して、この後の約束へ向かって歩き出した。冬の空は、低く、ひどく冷たかった。
◇
同じ日の、ほぼ同じ時刻。
ある部屋で、《彼》は苛立たしく舌打ちした。
どこの掲示板や情報サイトでも、《死銃》の与える真の恐怖に気付かず、冗談めかしたやり取りに終始していたからだ。ただの都市伝説だろ。偶然の事故だろ。演出じゃないか。GGOの大人気スコードロンが仕掛けた話題作りじゃないか——。
違う。そんな軽いものじゃない。
だが、それでいい、と《彼》は思い直した。
今、舐められているほど、第三回BoBが終わる頃の恐怖は大きくなる。噂だと嘲笑っていた連中ほど、真実を突きつけられた時に壊れる。プレイヤーが、掲示板の管理人が、評論家どもが、報道が——全員、《死銃》という名前を口にする時、声を震わせるようになる。
それを、想像するだけで、《彼》は笑みがこぼれそうだった。
モニターの前で、《彼》はマウスをゆっくり動かす。
ターゲットの写真をスクロールする。第三回BoBで狙う、ターゲットたち。トッププレイヤーの肖像が、順に表示されていく。
そして、ある女性プレイヤーの写真で、指が止まる。
《シノン》。
GGOにてその美貌も相まって、知らぬ者のいない程のプレイヤー。《氷の狙撃手》として、対物狙撃ライフル《ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》を使う冥界の女神としてその名を轟かせている。
《彼》の指が、その写真を、ゆっくりとなぞった。
——君は、特別だよ。
他のプレイヤーとは違う。彼女は、《彼》にとって、単なるターゲットじゃなかった。《彼》がこの世界で、唯一、特別な感情を抱いた相手。
シノン。氷のように冷たく、誰にも屈しない狙撃手。あの強さ。あの孤高さ。あの、銃を握る横顔。
——君なら、僕の成し遂げることの、意味を分かってくれるはずだ。
《彼》は、頭の中で何度もそう反復した。そう思い込もうとした。
そして、もう一枚、写真をスクロールする。
真っ白な髪に、銀色の瞳。獣を思わせる風貌をした男性プレイヤーの写真。
《アルバ》。
《白狼》の名で知られるその男は、GGOで最強を噂されていた。単独でスコードロンを狩り回り、BoBにこそ出場していないものの、実力は優勝者、《ゼクシード》以上と目されている。
そして——この男は、シノンの相棒だった。
GGO内で、頻繁に二人で行動している。スコードロンを二人で狩る。情報を共有する。シノンが最も信頼を寄せている、ただ一人のプレイヤー。
その事実を、《彼》はよく知っていた。嫌というほど、知っていた。
シノンの隣に、こいつがいる。
シノンの笑顔が、こいつに向けられる瞬間がある。
シノンが、こいつとなら戦える、と判断している。
《彼》が、逆立ちしても、どれだけ願っても届かない場所に——こいつは、最初から立っている。
モニターに映る銀色の瞳を、《彼》は歯を食いしばって見つめた。
それから——
モニターを、思い切り殴りつけた。
ガン、と鈍い音が部屋に響いた。画面にヒビが入ったかもしれない。でも、構わなかった。
《彼》の表情には、憎しみが籠もっていた。《アルバ》。お前は、邪魔だ。
《死銃》のターゲットリストに、お前は追加されている。
最強は二人もいらない。ゼクシードのような派手なトップを狙うのが本筋だが、《白狼》もまた、名前の売れたプレイヤーとしては申し分ない。
しかし、アルバを銃撃するのは容易ではない。アルバは敵の弾丸を殆ど受けることがない。その異常なまでの強さを《彼》は知っていた。
だが、あの
いまいち信用はしていなかったが、あの男はアルバの強さの理由を知っていた。それを聞いたときには驚いたが、妙に納得もいった。あの
あの男は自分が相手をしているその隙にアイツを撃てばいいと言っていた。その事情もあり、《白狼》を死銃のターゲットにすることに決めた。
そして、《彼》個人の事情としては——
シノンの隣から、こいつを消すことには、もう一つ別の意味がある。
最も信頼する相棒を失ったシノンは、きっと、もう《彼》の声を拒まないはずだ。
そうして、全てが、あるべき場所に収まる。
《彼》は、殴りつけた拳をモニターから離し、ゆっくり深呼吸をした。
——笑って、《彼》は呟いた。
「待っててよ、シノン」
「すぐに僕が、全部終わらせてあげるから」
画面の向こう、《アルバ》の銀色の瞳は、何も答えなかった。
原作のキリトとシノンの偶然の接触はこの物語だと起こらないので、キリトとアルバを関わらせる為にこんな展開にしてみました。