――八月末。
《ガンゲイル・オンライン》の空は、現実よりずっと澄んでいる。
それが好きだ。余計な湿気も、肌にまとわりつく熱も、現実みたいな生々しさもない。あるのは、乾いた風と、砂と、銃声だけ。
私は稜線の影に身を伏せ、スコープ越しに地形をなぞった。
ここは峡谷地帯。崩れた岩と、乾いた草のパッチが点々と散らばる。狙撃に向く高所は限られているけれど、だからこそ読みやすい。狙撃手にとって、選択肢が少ない地形は恵みだ。相手が通れる道も、私が陣取れる場所も、全部絞れる。
「シノン、まだ見えないか?」
スコードロンのリーダーの男のぼやきが通信越しに聞こえる。
「…ええ。現れる気配もないわ」
自分の声が冷たく聞こえて、少しだけ気分が良くなる。
現実の私は、こんなふうに言い切れない。言い切った瞬間に、何かが壊れそうで怖い。けれど、この世界では――シノンは、強くていい。
今回私は助っ人だ。
スコードロン同士の抗争に、狙撃手が足りないから来てくれ、という依頼。報酬は悪くなかったので、引き受けることにした。
狙いのスコードロンは、十分後にこの峡谷を抜けるはずだった。情報は確かだ、とリーダーは言った。だから私たちは待ち伏せしている。
……なのに。
砂が流れていくみたいに時間だけが過ぎて、敵は一向に来ない。
「おい、情報ミスじゃねぇのか?」
「もう少し待つ。焦るなって」
私は返事をしない。
私は"待つ"のが仕事だ。息を殺して、指先だけで世界を測る。動くものがあれば、必ず視界に引っかかる。生物の動きには、無機物にない"ゆらぎ"がある。岩は揺れない。砂は風の法則で動く。人間だけが、法則からはみ出る。
そして――動いた。
谷の入口側、岩陰から一人のプレイヤーが現れた。
スコープの倍率を上げる。
白い髪。銀色の目。ランダム生成にありがちな、現実離れした色。でも、それより先に目が行ったのは装備だった。中距離用のライフル。腰のホルスターに拳銃。腿にナイフ。重装甲じゃない。けれど、距離によって使い分けることを最初から考えている構成だ。
――何より。
歩き方が、おかしかった。
ただ歩いている。それだけなのに、体の芯が一切ぶれない。重心が低く、なおかつ静かだ。足音を消す意識がある。視線の動きが一定間隔で、左、正面、右、上、と走る。
掃討だ、と気づいた瞬間、胃のあたりが冷えた。
あれは、地形を"読んでいる"。
高所を確認し、遮蔽物を確認し、自分が撃たれうる角度を潰しながら進んでいる。狙撃手がどこにいるかを、まだ見えていないうちから計算している。
「……単独か? バカだろ」
通信越しに誰かの声がした。
バカ、か。私にはそう思えなかった。
「撃てるか? シノン」
言われなくても撃つ。
引き金に指をかけ、呼吸を一度だけ整えた。
風向き。距離。弾道。相手の速度。全部、処理する。
《PGM・ウルティマラティオ・ヘカートⅡ》のスコープを覗く。
「……氷。私は、冷たい氷で出来た機械」
バレットサークルが、白髪のプレイヤーの頭部に重なる。収縮が完了する直前。
私は撃った。
乾いた反動。スコープが跳ねて、視界が一瞬ぶれる。
――外れた。
「なっ……」
弾の着弾点を確認する。砂が跳ねた場所が見えた。相手の頭があったはずの、十センチ右。
外れたんじゃない。
相手が、弾の来る方向から頭を逃がした。
ほんの一拍の先読み。頭だけ、体の動きより早く動かした。狙撃銃の弾速は速い。GGO内でも、回避できる反応速度じゃない。なのに躱された理由は一つだ。
撃つ前から、私の射線を把握していた。
バレットサークルはプレイヤー自身にも見える。でも、狙撃手がどの角度から狙っているかは、そこからだけでは分からない。通常は。
あの視線の動き。高所の確認。掃候補を潰しながら進んでいた理由が、今わかった。
――最初から私を見つけていた。
「外れた!?」
通信越しに誰かが叫ぶ。
白髪のプレイヤーは、こちらを見上げない。でも、顔の向きがわずかに変わった。私のいる稜線の方向へ、一瞬だけ。距離が百メートル以上あるのに、正確に。
「撃て!」
リーダーが叫んだ。
遅い、と思った。その判断は、すでに相手に主導権を渡している。
白髪のプレイヤーが動いた。走るんじゃない。滑るように岩陰に入る。体を低くして、最短距離じゃなく、こちらの射線から外れるルートを選んで。
次の瞬間、銃口が岩陰から出た。
一発。
立ち位置を変えていなかった部隊の一人が、HPバーを一気に削られて砕けた。
「うわっ!」
崩れる。待ち伏せしていたはずの側が、崩れていく。
相手は一人なのに。
二人目が遮蔽物へ飛び込む。そこへ追わない。追う代わりに、次の移動ルートを潰した。岩陰の出口側に銃を向けて、動けなくする。封じてから、別の動きをする。
一対多の戦いを、"個別に分断して各個撃破する"形に持ち込んでいる。
これは戦術だ。咄嗟に組み立てたものじゃない。体に入っている動き方だ。
「な、なんだこいつ……!」
三人目が突っ込む。近距離なら、と焦った判断だった。
白髪のプレイヤーは、相手が踏み込んでくる速度を見た瞬間にライフルを背へ回した。拳銃を抜く。抜きながら、体を半歩横へ逃がす。突っ込んできた相手の軌道の外へ。
パン、パン、パン。
三発。一発目で体幹。二発目で腕を封じ、三発目で頭部判定。
止まる間もなく、消えた。
残りは私とリーダーの二人。
リーダーが私の位置まで這ってくる。
「シノン!もう一発!もう一発当てろ!」
分かってる。
私は再びスコープを覗く。白髪のプレイヤーが岩陰から出る瞬間を待つ。
動きに一定のリズムがあるはず。岩から岩へ詰める時の間隔、踏み出すタイミング。人間の動きには必ずクセがある。私はそれを読んで、次の出口を先に狙う。
出た。
私は一拍だけ待った。相手が遮蔽物の間を移動する、一番体が開く瞬間。普通なら、そこへ弾を通せば避けようがない。
撃った。
また、外れた。
外れたんじゃない。
相手が、弾道の外へ体を曲げた。腰から上を折るように、重心を崩さないまま体幹だけを逃がした。弾が通るはずの位置に、体がなかった。
背筋が冷えた。
私の狙撃の癖を、たった二発で読んだ。
一発目で私の射線の角度を特定し、二発目でタイミングのパターンを把握した。
このプレイヤーは、狙撃されることに慣れている。
ゲームでじゃない。
もっと手前の何かで。
白髪のプレイヤーが今度こそはっきりこちらを見た。
銀色の瞳がスコープ越しに刺さる。距離があるのに、近い。視線が"当たっている"感覚。
次の瞬間、走った。
直線でも、ジグザグでもない。
岩の陰を縫い、私の視界が途切れる一瞬一瞬を使って距離を詰めてくる。狙撃手の視界を断続的に遮断しながら近づく動き。教科書通りに合理的で、なのに体に染みついている。
頭で考えた動きじゃない。
「来る!来るぞ!」
リーダーが叫ぶ。でも叫びながら、足が竦んでいる。
弾が砂を蹴る。当たらない。
白髪のプレイヤーは最後の岩陰を蹴ると同時に拳銃を捨てた。ナイフを逆手に構える。
近距離での刃の光は、銃より怖い。
でも私は怖くない。ここはGGOだ。痛みはない。死んでも戻れる。
そう、思っているのに。
指が、強張った。
GGOでこんな感覚になったことは、ない。
私はサブのハンドガンに切り替えて、引き金に指をかける。
視界が跳ねた。
何かが足元に弧を描いた瞬間――閃光。
強烈な光と、高周波の音。
フラッシュグレネード。
視界が白く焼けて、音が一瞬遅れて頭の中で暴れる。
反射的に体を縮めた、その隙が全部だった。
肩に硬い衝撃。ハンドガンが弾き飛ぶ。背中から地面に落ちた瞬間、体重が乗った抑えが左腕にかかる。
視界が戻る。
白髪のプレイヤーが、私の喉元にナイフの先を置いていた。
銀の瞳が、冷たかった。表情は、どこか、楽しそうだった。
背後でリーダーが砕けた音がした。
もう、終わっている。
私は動かない。動けない。動く意味もない。
ゲーム内の敗北が、喉の奥に苦い。それより重いものが、胸の中にある。
私は完璧に負けた。狙撃手として、プレイヤーとして。二発の狙撃でパターンを読まれ、距離を詰めることも阻めなかった。
「……やるじゃない」
出てきたのは、負け惜しみみたいな言葉だった。
白髪のプレイヤーが、ふっと口角を上げた。
「そりゃどうも」
そう言う男は、シノンを見て、言葉を続ける。
「お前、氷の狙撃手だろ」
心臓が一瞬だけ跳ねた。
“氷の狙撃手”。それは私についた呼び名だ。誰が広めたのかは知らない。
「……私のこと、知ってるの?」
「有名人は辛いな」
軽い。
その軽さが逆に不気味だった。殺気が薄いわけじゃない。むしろ、殺し方を知り尽くしている人間の、余裕みたいなもの。
私は喉元の刃を見ないようにして、相手の顔を見る。
「……名前を聞かせて」
白髪のプレイヤーは、ナイフを少しだけ引いた。
そして、名乗る。
「アルバだ。よろしく、シノン」
その名前が、やけに耳に残った。
アルバ。意味は知らない。
私は息を吐いて、確信を言葉にする。
「…最近噂になってる、“白狼”。実際にいたのね。一人でスコードロンを襲って回ってるって。……本当だった」
アルバは肩をすくめた。
「らしいな。しかしまぁ、噂になるの早すぎねぇ?始めて1ヶ月も経ってねえのに」
「…スコードロンを潰しまわるなんて真似、噂になるに決まってるわよ。しかも、ソロでなんて」
「面白いからやってるだけなんだが。まあ、暇つぶしだな」
――面白い。暇つぶし。
その言い方が、嘘に聞こえなかった。
でも、どこか空っぽにも聞こえた。楽しんでいる、というより、“楽しむしかない”みたいな。
私は倒れたまま、もう一つだけ問う。
「……どうして、私の狙撃を避けられたの?」
アルバは一瞬だけ黙った。
銀の瞳が、私ではなく遠くの何かを見た気がした。ほんの瞬きほどの時間。
「勘」
それだけ言って、アルバはナイフを完全に引いた。
そのまま首筋にナイフを沿わせるだけで、私のHPはゼロになるのに。それができるのに、しない。
「え……?」
倒れたままの私の疑問に、私を見下ろしたままのアルバは笑った。嘲笑じゃない。子どもみたいな、短い笑い。
「面白かったぜ、お前。またやろうや」
そう言って、彼は背を向けた。私は急いで呼び止める。
「ま、待ちなさい!」
白髪が振り返る。
「なんで、殺さないの…?」
その問いに、狼は笑う。
「理由は特にねぇな。なんとなくだ」
そう言ってのける男に、私は怒りを含んだ声で返す。
「ふざけないで…!」
「別にふざけてねぇよ。ま、悔しいなら殺しに来いよ。歓迎するぜ?」
そう言った後、もう話すことはないとばかりに振り返り歩き出す。
砂を踏む音が遠ざかる。白い髪が、乾いた風に揺れて、岩陰に消えていく。
私はその場に残された。
私は唇を噛んだ。
悔しさもあるが、それよりも胸の奥がざわつく。
あの強さ。
あの距離の詰め方。
あの無駄のなさ。
まるで、ここがゲームじゃないみたいだった。
ログアウトすると、世界は現実の暗さに戻った。
アミュスフィアを外し、上体を起こす。
ワンルームの部屋。古いエアコンの音。カーテンの隙間から入り込む、夏の夜の街灯の光。
私は度の入っていない眼鏡を手探りでかける。
視界が現実の輪郭を取り戻すと同時に、さっきまでの砂と銃声が遠くなる。
……なのに。
アルバの銀の瞳だけが、やけに鮮明だった。
「……勘、ね」
小さく呟く。
狙撃を避ける勘なんて、普通は育たない。撃たれる側の経験がないと。何度も、何度も、死にそうにならないと。
そんな経験を、ゲームの中だけで積める?
ただ遊んでいるだけで、あんな動きになる?
私はスマートフォンを開き、無意識にGGOの掲示板を開き、検索窓に文字を打ち込んでいた。
――白狼。アルバ。ソロ。スコードロン狩りの男。
掲示板の噂は、どれも断片的だ。
矛盾する話も多い。でも、どれも共通している。
“強い”。
私は画面を閉じ、息を吐いた。
現実の部屋で、心臓が静かに脈打つ。銃の写真を見た時みたいな動悸はない。吐き気もない。ここは、現実だ。なのに。
胸の奥が、妙に落ち着かない。
隣の部屋の方から、微かに物音がした気がした。
床がきしむような、短い音。誰かが立ち上がった? それとも、ただの配管が軋む音?
私は首を振る。
そんなことより――今は、あの白い髪のプレイヤーだ。
自分を殺せたはずなのに、殺さなかった。
それが、気に入らなかった。
そして――気になった。
あれ程の、強さの理由が。
「……次は、当てる」
誰に向けた言葉かは分からない。
けれど、口にした瞬間、胸のざわつきが少しだけ形を持った。
アルバ。白狼。
あの強さの理由を、私は知りたい。
そして、打ち倒せた時には、きっと。
朝田詩乃は強くなれる。そう思いながら、眠りについた。
うーん、戦闘描写ムズいですね。すごくムズい。