帰還者と狙撃手   作:きょうりゅう

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前夜

 

八月三十一日。

 

夕方の熱気が、古いアパートの廊下にこもっている。二階の共用廊下は、立ってるだけで汗が滲む。部屋に戻ると、籠った熱気が迎えてくる。日本の夏は、乾いた暑さじゃない分、体に籠る。玄関の鍵を閉め、買ってきた飲み物を冷蔵庫に入れる。奥の六畳間に入り、買ってきた衣類を入れるためにクローゼットを開けると、新品の制服が目に入った。明日から学校が始まる。これを着て学校に通う自分が想像できない。

 

「笑えるな」

 

独り言を呟いた瞬間、インターホンが鳴った。ピンポーン。一拍遅れて、もう一回。ピンポーン。

 

「はいはい、うるせぇな……」

 

覗き穴を見なくても分かる。こんな遠慮のない押し方をするやつは一人しかいない。電子錠を開けてドアを開けると、でかい影が廊下を塞いだ。自分の実質的な保護者である立川が立っていた。Tシャツに薄い上着、手には紙袋とファイル。

 

「よ。生きてるか」

 

「見りゃ分かんだろ」

 

「分かるけど、言っとくのが大事」

 

立川は勝手に頷いて、ビニール袋と紙袋を持ち上げた。

 

「明日から学校だからな。最終確認。あと差し入れ」

 

「差し入れって、何だよ」

 

「コンビニの冷やし中華と弁当。あとスポドリとかその他諸々。……飯ちゃんと食ってるか怪しいからな」

 

「食ってるわ」

 

「"食ってる"の基準が信用ならん」

 

立川は靴を揃えて上がり、部屋を一周、目だけでざっと確認した。冷蔵庫、シンク、ゴミ袋、洗濯物。

 

「ゴミ出し、曜日合ってるな。洗濯も……まぁ、してるな」

 

「何のチェックだよ、それ」

 

「生活チェック。お前、放っておくと必要最低限しかやらねぇだろ」

 

「必要最低限で回るなら、それでいいだろが」

 

「回らねぇ時がある。……それを知ってるから言ってる」

 

立川が言うと、ただの小言にならない。あの地獄の底でも、こいつは同じ目をしていた。心配してるとか、気にかけてるとか、そういう言葉は使わないくせに、行動でそれをやってくる。返す言葉がなくて、鼻で笑って誤魔化した。

 

「ほら、座れ。最終確認するぞ」

 

立川は机の横の椅子にどかっと座って、ファイルを開いた。中身は紙だらけ。学校の書類、健康調査票、緊急連絡先、校則っぽいプリント。

 

「まず、集合時間。明日は転入初日だから、ホームルーム前に職員室寄って担任に挨拶。ここに地図」

 

「地図いらねぇ。頭入ってる」

 

「頭に入ってても、プリントは持っておけ」

 

「だりぃ……」

 

「だるくても持て」

 

立川が言う。保護者か。いや保護者か。

こいつと話していると、妙な感覚になることがある。怒鳴られた記憶も、怒鳴り返した記憶もない。ただ、こういうくだらないやり取りを繰り返してきた。それが積み重なって、今俺はここにいる。

 

「次、制服。サイズ問題ないな?」

 

立川が視線をクローゼットに向ける。

 

「まだ着てねぇ」

 

「着ろ。裾上げ必要なら今夜のうちにどうにかする。俺の家に裁縫道具はあるからな」

 

「裁縫……?似合わねぇ〜」

 

この大男が針を持ってチクチク縫っている姿を想像する。いやマジで似合わねぇ。

 

「意外か?」

 

「意外だわ。あんた、そういう家庭っぽいスキルあるんだ」

 

「海外勤務の男は、できること増えるんだよ」

 

立川は笑って、次の紙をめくった。

 

「通学経路。徒歩でも行けるし、地下鉄でも行ける。なんにせよ、トラブルは起こすなよ?」

 

「俺に寄ってくるやつなんかいると思うのか?」

 

「目つきの悪さで、絡まれる可能性はある」

 

「んなもん返り討ちだろ。たかだかチンピラに負けるとか思ってんのか?」

 

「その相手を心配してるんだよ俺は。帰国早々警察沙汰とか、笑えねぇぞ」

 

「笑えるだろ。笑えよ」

 

「笑えるか」

 

立川はさらっと言い切って、急に声のトーンを落とした。

 

「暁」

 

「んだよ」

 

「とりあえず、絡まれても殴るな」

 

「殴んねぇよ」

 

「…本当に?喧嘩っ早いからなぁ、お前」

 

「……殴られる理由がなきゃ殴られねぇ。だろ?」

 

「いいか?世の中には目つきが悪いとか、態度が気に食わないだとか、そんなよくわからん理由で人を殴るやつもいるんだよ」

 

「そんな奴ら殴っても問題ねぇじゃねぇか」

 

「だめだ、とりあえずやり過ごせ。…絶対にだぞ?」

 

「わーったよ。うるせえオカンか、お前は」

 

「そこはオトンだろう」

 

「知るか!」

 

くだらないやり取り。この1年で何度この男とこんな会話をしたか分からない。

内心では、こういうやり取りが嫌いじゃないことも知っている。だが、それを口にするつもりは全くない。

立川が指で机をトントン叩いた。

 

「9月いっぱいはとりあえず問題起こすな。その後はまあなるようになる。喧嘩の一つぐらいならまあ許す」

 

「んだそりゃ」

 

「冗談だ。なるべくするな」

 

立川は悪い笑いをして、紙袋から冷やし中華を取り出して机に置いた。

 

「まあこんなもんだろ。あとは飯食いながら世間話でも、だ」

 

「なんの話があんだよ」

 

「お前、寝れてるか?」

 

少し間があった。

 

「別に。普通」

 

「嘘つけ。顔に書いてあんぞ、あんま寝れねえって」

 

「…仕方ねえだろ。体が寝ないことに慣れちまってんだ」

 

この数年、熟睡などほとんどできたことはない。浅く眠り、爆音や銃声や悪夢で目が覚める。それが、日常だった。日本に戻ってから少しはマシになったが、体に染みついたものはそう簡単には抜けない。

 

「…何度も言うが、ここはもう戦場じゃない」

 

立川が真剣な目をしてそう言う。だが、

 

「分かってるよ。頭ではな」

 

そう、分かっているのだ。それでも、染み付いた習慣はそう簡単には拭い落とせない。この男はそれも分かっていて、それでも言い続けている。

 

「…まあ、どうにか慣れるわ。そうするしかねぇし」

 

立川は頷いて、話題を変えた。

 

「それで、GGOはどうだ」

 

その一言で、空気が少しだけ軽くなった。現実の確認事項より、そっちのほうがまだ話しやすい。俺は肩をすくめた。

 

「暇つぶしにはなってる」

 

「それだけ?」

 

「感覚を忘れねえためには丁度いい」

 

「実は、最近妙に噂になってる奴がいてな」

 

立川がスマホを取り出して、画面を俺に向けた。ガンゲイル・オンラインのネット掲示板。タイトルにでかでかと書いてある自分につけられた渾名が目に入った。

――白狼。

ソロでスコードロンを狩る男。

 

「……何だよそれ」

 

「お前だろ」

 

「知らねぇな」

 

とりあえずとぼける。立川は苦笑いした。

 

「こんなこと出来るの、お前ぐらいだろ。かなりハマってんだな」

 

「言ったろ。暇つぶしにはなってる」

 

「そうか…。どうだ、死なない戦場は」

 

立川が真剣な目でそう言う。あの仮想の戦場は、撃たれようが撃とうが、死なないし殺せない。引鉄を引いても、血しぶきが飛ぶこともない。

だが――何かが、満たされる感覚がある。

何かが、静まる感覚が。

それが何なのか、俺にはまだうまく言葉にできない。

 

「…まあ、普通」

 

立川が苦笑いをする。

 

「まあ、楽しめ。友達でも作れよ」

 

「いらねぇな。ソロの方が楽でいい。足手纏いだ」

 

「手厳しいな」

 

そう言って苦笑いする立川。ファイルを閉じて、ため息みたいに息を吐いた。

 

「よし。確認はこんなもん」

 

「そうか。さっさと帰れ」

 

「酷くない?お前」

 

そう言いながら立川は立ち上がって、玄関に向かった。

立川はドアの前で振り返って、いつもより少し真面目な目をした。

 

「暁、これからの日常は、お前が選んで、生き残って、辿りついたものだ」

 

「…」

 

その言葉が、妙に胸に残る。

お前が選んだ。

俺はずっと、選ばされてきた気がしてた。生きろと言われて、生きる方を選んで、撃てと言われて撃って。選択肢があると言えばあったが、どれを選んでも死が隣にあった。

でも、今は――ほんの少しだけ、自分で選べる。

 

「だからまあ、なんだ。楽しめよ、暁」

 

それだけ言って、立川は出ていった。廊下に足音が遠ざかって、やがて階段を下りる音が消える。ドアが閉まると、部屋がまた静かになった。

 

静かになると、途端に頭が動き始める。

立川がいる間は、声と動きで埋まっていた。こいつが去ると、その余白に余計なものが入り込んでくる。

 

夜。

冷やし中華を食って、スポドリを飲んで、風呂に入って、制服を一度だけ羽織ってみた。鏡の前の自分は、どう見ても"普通の高校生"じゃない。細身のくせに肩のラインが硬い。腕の筋が浮く。目つきが悪い。首筋に古い傷がある。隠したつもりでも、シャツの襟から覗く。

 

「……楽しめ、か」

 

制服の襟元を直している手が止まった。

 

――自分に、そんな資格はあるのか?

 

鏡の白い光が、別の白に繋がる。砂埃の白。太陽が焼いた空の白。目が痛くなるほどの白。次に音が来る。乾いた破裂音。遠くの叫び。砂が舞う感触。鉄の匂い。匂いはこの部屋にはないのに、鼻の奥が勝手に思い出す。記憶は順番通りに来ない。断片が、勝手な順序で浮かんでは消える。

 

『何としても生き延びて』

 

母の声。

祈りみたいに優しい。だけど、呪いみたいに重い。俺はあの言葉を守った。守って、守って、守った結果が――この制服だ。

それで良かったはずなのに、鏡の中の自分がひどく場違いに見える。

 

次に浮かぶのは別の顔。

笑ってるくせに目だけが真剣なやつ。俺にイタリア語を教えながら、わざと変な発音をさせて笑っていた。孤児で、売り飛ばされて、それでもあいつは笑っていた。腹立つくらいに、笑っていた。

 

『生きろ』

 

最後の戦場で、あいつはそう言って――それ以上は思い出さない。思い出すと、映像が鮮明になりすぎる。匂いまで戻ってくる。金属と、熱と、乾いた風。呼吸が浅くなる前に、切り上げる。それが、この一年で覚えた処理の仕方だ。

 

もう一つ浮かびかけた断片を、意識して押し込めた。

あの地獄にいた頃の自分が、普通の高校生の制服を着た自分を見たら何を思うだろう。笑うか。呆れるか。それとも――

 

「……駄目だな」

 

声に出すと、少し落ち着いた。

 

静かすぎる夜は、どうしても考えてしまう。机の上のアミュスフィアが目に入る。指が伸びかけて、止まった。

 

「……今日は、寝る」

 

誰に言うでもなく言って、制服を脱いで椅子にかけ、ベッドに倒れ込んだ。天井を見る。最初の夜と同じ天井。まだ慣れない白。

隣の部屋から、微かに生活音がした。戸棚を閉める音。水の音。誰かが、ちゃんと"明日"の準備をしている。

 

―明日、か。

 

戦場で"明日"という言葉は、贅沢品だった。死ぬか、生きるか。それだけを考えた毎日。それが今は、普通に考えている。そんな資格があるかも分からないのに。

立川の声が、頭の奥に残っている。

 

――楽しめよ、暁。

 

楽しむ。

その言葉の意味を、まだ俺はよく知らない。

 

目を閉じた。暗闇の中、母の声と、戦友の声と、立川の声が重なって、少しだけ遠のいた。

 

明日は、九月一日。

俺の"普通"が始まる日だ。眠りはすぐには来なかった。でも、来ないことにも慣れている。そして、銃声か爆音の幻聴で目が覚めることも。俺はただ、呼吸を数えて――夜をやり過ごした。

 




最近の学校始まるのって9月1日なんですかね。自分の時には8月末だった気がするようなしないような。まあ、なんとなくでいきましょう。
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