詩乃が、そっと片目だけ瞼を薄く開けると、照明の落ちた室内が、ぼんやりとカーテンの隙間から侵入する街明かりに照らされていた。
体は、まだベッドの上にある。アミュスフィアの重みが、頭を包んでいる。ダイブ明け特有の、意識と肉体の輪郭が噛み合わない数秒間。その数秒の間も、詩乃は動かなかった。
——今、恐らくお前の部屋には、死銃の片方がいる。
洞窟で聞いた、あの言葉が、耳の奥に残っていた。
僅かに首を倒し、部屋を見回す。まだ目が慣れきってはいないが、視界の中にはいつもの詩乃の部屋が映るだけであり、いつもと変わらない。当然、誰かがいるわけでもない。
それでも、詩乃は動かなかった。目だけを、ゆっくりと動かす。
カーテンの膨らみ。不自然な影はない。クローゼットの折れ戸。閉まったまま、隙間もない。勉強机の椅子。出かける前に押し込んだ角度のまま。床には、脱ぎっぱなしのカーディガンが一枚。それも、自分で置いた位置のままだ。
耳を、澄ます。
冷蔵庫の低い唸り。カーテン越しの、遠い車の走行音。時計の秒針。それだけ。人の呼吸の音は、しない。衣擦れも、床の軋みも。
ふと、皆月の動きを思い出す。あの人はいつも、現実でも仮想世界でも部屋に入る時、出る時、視線を一巡させる。退路と、死角と、音。それを、私はずっと隣で見てきた。見よう見まねでも、今はそれをやる。
念のため、ゆっくりと音を立てずに起き上がる。アミュスフィアを外し、ベッドの上に置く。素足が床に触れる感触が、やけに冷たかった。
キッチンへ。シンクの下、収納の扉。閉まっている。換気扇の下の小さな窓。施錠されたまま。
そして、ユニットバスの扉を、そっと押し開ける。
暗がりの中、シャワーカーテンの向こう。息を一つ止めて、一気に引く。
——誰も、いない。
浴槽は空で、鏡には、強張った顔の自分だけが映っていた。
玄関へ回る。ドアスコープを覗く。外廊下には、誰もいない。鍵は——かかっている。チェーンも、そのまま。
部屋の真ん中に戻って、詩乃はようやく、肩の力を抜いた。
「ばっかみたい」
声に出すと、少しだけ笑えた。
考えてみれば、当たり前だ。あの拳銃で撃たれなかったのだから、共犯者の"仕事"は発生しなかった。それに、もし部屋の中にいたなら、ダイブ中の私は、とっくにどうにかされていたはずだ。何もされていないということは、誰もいなかったということ。
きっと、もうすぐ皆月が来る。十分ほどと言っていたので、彼が来たら警察に、全部引き渡して——それで、この長い夜は終わる。
喉の渇きに気づいて、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出し、飲んだ。
冷たい水が、体の内側を落ちていく。
——そのタイミングで、インターホンが鳴った。
ビクッと、肩が跳ねた。ペットボトルの水が、少し零れそうになる。
時計を見る。まだ、早い。暁なら十分かかるはずで、ログアウトからまだ、二分も経っていない。それに——彼なら、鳴らすより先に、隣の自分の部屋の物音がするはずだ。
詩乃は、足音を殺して玄関へ寄った。息を整え、ドアスコープに、片目を当てる。
魚眼の歪んだ視界の中に、見知った顔があった。
線の細い体。柔らかい前髪。白い息を吐きながら、所在なげに立っている。
「朝田さん、いる?僕だよ。新川」
——新川、くん?
詩乃は、スコープから目を離して、扉の前で固まった。
なぜ、彼が。こんな夜中に。
疑問と同時に、別の感情が、胸の奥で気まずく蠢いた。昨日、彼の告白を断ったばかりだ。あんなにはっきり言ってしまった相手と、二人きりで顔を合わせるのは、正直、まだ少し辛い。彼だって、辛いはずだ。
扉の向こうで、恭二が続けた。
「皆月くんに、近くにいるなら朝田さんの家に向かってって言われて……」
——皆月が?
詩乃は、瞬きをした。
皆月が、彼を頼った? ……ありえない話ではない、のか。自分が着くまでの間、誰か知り合いを私の傍に、と考えたのかもしれない。恭二の家は病院で、この辺りの地理にも詳しい。
皆月が寄越したのなら。
警戒が、するりと緩んだ。
「ちょっと待ってて」
チェーンを外し、鍵を開ける。
扉の向こうで、恭二が、いつもの柔らかい笑顔で立っていた。
「わ、寒い……。とりあえず、中に入って。皆月もすぐ来ると思うから。一応、鍵かけてね」
「うん。お邪魔します」
部屋に入り、ベッドに腰掛ける詩乃。恭二は、少し距離を置いて、床に座った。その距離の取り方に、昨日の一件への遠慮が滲んでいる気がして、詩乃は少しだけ、申し訳なくなった。
「改めて、優勝おめでとう、朝田さん」
「あ、ありがとう。といっても、皆月と同時優勝だけどね。それにしても、随分早かったんだね?もしかして、近くにいた?」
「うん。近くの公園でね。二人のどっちかが優勝したら、お祝いしようと思って」
「やっぱり。風邪引くよ?……皆月は、なんて言ってた?」
「あー……。えっと…。もし近くにいるなら、朝田さんの家に向かってくれって。そんな感じかな?何かあったの?」
少し言い淀んだのが気になったが、気のせいだろうと会話を続ける。
「そっか。……ちょっと、色々ね。皆月が来たら、説明するね」
意外と、普通に接することが出来ている自分に、詩乃は驚いていた。それに、恭二の様子も、あまり引きずっているようには見えない。昨日の今日で、こうして祝いに来てくれる。彼の優しさに、少しの安堵を覚えた。
「朝田さん、そういえば、洞窟で皆月くんに抱き締められてたけど……もう、告白したの?」
——その言葉に、かあっと、顔が熱くなった。
やはり、中継はあのシーンを映し出し、そして、恭二に見られていたのだ。
抱き寄せられて、心臓の音を聞いて、あまつさえ「頭、撫でて」なんて。全世界に。よりにもよって、告白を断ったばかりの彼にまで。穴があったら入りたいどころの話ではない。ベッドのシーツを、意味もなく指で摘まみながら、詩乃はしどろもどろに答えた。
「う、ううん。その……大会中に、発作が起きちゃって……皆月に、宥めて貰ってたんだ。それだけ。まだ、告白とかは、全然……」
「ふぅん。そっかぁ」
——なんとなく、空虚な返事だと感じた。
さっきまでの会話と、温度が違う。相槌の形はしているのに、中身がない。
詩乃が恭二の方を向くと、彼は、天井を見上げていた。
笑ってもいない。怒ってもいない。ただ、ぼんやりと、蛍光灯の消えた天井を見ている。
少し、様子がおかしい。
「……新川くん?」
「ねえ、朝田さん」
その声には、感情が、なかった。
天気の話でもするみたいな、平坦な、乾いた声。
「このまま皆月が来てさ、朝田さんが死んでたら……アイツ、どんな顔するかな?」
——聞き間違いかと、思った。
言葉の意味が、頭の中で像を結ばない。私が、死ぬ?
「なに、言ってるの……?」
天井を見上げていた恭二が、こちらを向いた。
その目は——虚ろだった。
昨日、公園で告白してきた時の、あの必死な目でもない。いつもの、気弱で優しい目でもない。ガラス玉みたいに、光の焦点が合っていない目。その目のまま、空虚な笑みで、彼は喋り出した。
「ほんとは、アイツを真っ先に殺したかったんだぁ。でも……アイツ、自分の部屋からダイブしなかったからさぁ。本当に、残念だったなぁ」
彼が、何を言っているのか、理解が追いつかない。
「本当に……殺したかったなぁ。僕から、シノンを、朝田さんを奪ったアイツを。クソ。クソ。クソクソクソクソクソクソクソクソクソクソクソ」
狂ったように、繰り返し呟く恭二。声はまだ静かなのに、その静かさが、かえって恐ろしかった。
「しん、かわくん……?」
私の声で、ピタリと、呟きが止まった。
そして、こちらを向く恭二。
「朝田さん、僕のものになってよ」
そう言ったあと、彼は、ゆっくりと立ち上がり、こちらに向かってきた。
私は——動けなかった。理解が追いつかないのか、困惑からか、恐怖からか。逃げるという選択肢が、頭に浮かぶより先に、恭二の手がポケットから何かを取り出し、それが、詩乃の首筋に当てられていた。
冷たい。金属の、冷たさ。
「動いちゃダメだよ。これ、無針高圧注射器って言ってね。中身は《サクシニルコリン》ていう薬品で、これが体に入ると、すぐに心臓と肺が止まるんだ」
恭二の言葉は、淡々としていた。
まだ、何かの冗談だと、彼の、振られた腹いせの、たちの悪い冗談だと、そう思いたい自分がいた。でも、首筋に当てられた冷たい感触と、恭二の目が、これが事実だと物語っていた。
そして——彼が口にした二つの単語が、頭を駆け巡った。
注射器。薬品。
それは、アルバが——皆月が、洞窟で言っていたこと。《ゼクシード》や《薄塩たらこ》を殺害した方法を推理し、導いた結論。《死銃》のトリック。
それでは。それでは、まさか。
「新川くん……君が……もう一人の、《死銃》なの……?」
「へぇ。すごいな、朝田さん」
恭二が、感心したように、目を細めた。
「それとも……皆月かな?《死銃》の秘密が、分かったんだね。……そう、僕が《死銃》の片腕だよ。今日までは、僕が《ステルベン》だったんだけどね。今日だけは、どうしてもこっちにさせてもらったんだ。だって……」
その声に、初めて、粘つくような熱が混ざった。
「皆月を、この手で殺してやりたかったからね。僕のシノンを、朝田さんを誑かした、あのクズを」
——違う、と叫びたかった。
彼はクズなんかじゃない。私は誑かされてなんかいない。喉の奥まで、言葉がせり上がってくる。でも、首筋の冷たい感触が、それを堰き止めた。刺激してはいけない。今の彼は、どんな一言で、この指を動かすか分からない。否定したい気持ちと、生き延びるための沈黙が、胸の中でぶつかり合って、詩乃は唇を噛んだ。
「ねえ、朝田さん。騙されてるんだよ、皆月に」
「なに……いってるの……?」
「調子のいいこと言ってるだけなんだよ。朝田さんを理解できるのは、守れるのは、僕だけなんだよ。アイツのことなんて、すぐに忘れさせてあげるからね。……僕も、すぐに行くよ。それで……二人で、別の世界に行こう。こんな現実じゃなく、もっとファンタジーな世界でもいいや。二人で一緒に暮らそう。楽しいよ」
——別の、世界。
彼の言うそれが何を意味するのか、分かってしまった。分かった瞬間、背筋が凍った。
「……だめだよ、新川くん」
詩乃は、震える声で、それでも、はっきりと言った。
「まだ、引き返せるよ。まだ、やり直せる」
「もう、いいんだよ、こんな現実は……。一緒に《次》に、いこう?」
——通じない。
言葉が、届いていない。彼は今、私の知らない場所に立っている。
(……時間を、稼がなきゃ)
何か、会話を。そうすれば、皆月が来てくれる。彼は言った。すぐに行くと。十分程だと。だから、それまで。必死に頭を回転させていると——恭二の手が、詩乃の髪に触れた。
ぞわり、と、肌が粟立った。
「すごく、綺麗だよ……。ずっと、ずっと好きだったんだ……。学校で、あの事件の事を聞いた時から、ずっと……」
「……え……」
——事件の事を、聞いた時から。
それは、つまり。
「……君は、あの事件の事を聞いたから、私に、近づいたの……?」
「そうだよ、もちろん」
恭二は、当たり前のことのように、頷いた。
「悪人をハンドガンで殺したことのある女の子なんて、朝田さんだけだよ。本当に、凄いよ。だから、僕は《死銃》の伝説を作る武器に、《五四式》を選んだんだよ。朝田さんは、僕の憧れなんだ……僕だけの、朝田さん……」
「……そ、んな……」
詩乃は、目を瞑った。この世界から、目を背けるように。
——嘘だと、言ってほしかった。
新川恭二は、友達だった。GGOを教えてくれた。遠藤たちに絡まれた時、助けてくれた。私の過去を知っているはずなのに、普通に接してくれる、数少ない人だと——そう、思っていた。
その全部が、偽物だった。
彼が見ていたのは、私じゃなかった。人を撃った十一歳の詩乃。あの、忌まわしい日の詩乃。私が消してしまいたい過去そのものを、彼は「憧れ」と呼んで、愛でていた。あの銃を、《黒星》を、伝説の道具として選ぶほどに。
私が必死に逃げてきた場所に、彼は、私を閉じ込めようとしていた。
こんな世界、認めたくない。信じた友人が、こんなにも隔絶した何かだったなんて。首筋には死の冷たさがあって、部屋の空気は粘ついていて、世界のすべてが、あの日の郵便局みたいに、暗く歪んでいく。いっそこのまま意識を手放してしまえば、この悪夢から降りられるんじゃないか——そんな、甘くて危険な考えが、暗闇の底から手招きをする。
でも。
それでも。
深い闇の底で——白銀の光が、見えた。
そうだ。私はこの世界で、アルバに——皆月暁に、出会った。
奇跡のような偶然で出会った彼。無理矢理関係を築き、共に戦って来た彼。詩乃の過去を知って尚、隣にいてくれた彼。口が悪くて、ぶっきらぼうで、少し常識がなくて……そして……。
そして——朝田詩乃が初めて、恋をした男の子。
最初は、彼の側にいれば強くなれると思っていた。そして、いつか彼を倒し、詩乃は強さを得る。それだけだった。そのためだけの、関係だった。
でも、いつしか、それは変わっていった。
彼と話すのが、楽しかった。彼の存在が、温かかった。彼の隣が、心地よかった。彼の事を、もっと知りたいと思うようになった。ずっとずっと、彼の隣にいたいと思うようになった。
未来を——彼と共に、歩みたいと思った。
だから。
だから、私は、この世界を諦めたくない。
この世界を——生きていたい。
目を開けた。
恭二は、私の服に手をかけようとしていた。片手に注射器を持ったままの動作は、しかし、上手くいっていない。焦りが、彼の指先を鈍らせている。
(——今しか、ない)
詩乃は、気取られないように、首筋に当てられた注射器を、不自然でないよう体を傾け、ずらした。呼吸を浅く保ったまま、慎重に。
やがて、体勢の悪さに、恭二の体がバランスを崩し——注射器の先が、ベッドのシーツに押しつけられた。
その瞬間を、逃さなかった。
詩乃は注射器ごと恭二の手首を掴み、その手を、思い切り彼の顔に叩きつけた。
「がっ——」
くぐもった声を出す恭二。その隙を逃さず、注射器を奪おうと指をこじ開けにかかる。だが、恭二の握力は、細い外見からは想像もつかないほど強く、うまくいかない。
体勢を立て直した恭二が、左手を振り回した。それが詩乃の肩口に当たり、詩乃はベッドから転がり落ちた。
床の硬さが、背中に走る。構わず、すぐに起き上がり、恭二と距離を取った。
「朝田さん、どうして、こんな事するの……?」
恭二の声は、心底不思議そうだった。それが、恐ろしかった。
「朝田さんだって、こんな世界、辛いはずでしょ……?」
「……新川くん」
詩乃は、乱れた呼吸のまま、それでも、まっすぐに彼を見た。
「確かに、辛いことばかりだった。でも……それでも……私はこの世界で、皆月に出会えた」
——皆月。
その単語に、恭二の顔が、歪んだ。
「私は、彼とこの世界を生きたい。だから……君とは、一緒に行かない」
それが、答えだった。昨日の公園と、同じ答え。でも、昨日よりずっと深い場所から出てきた、命の重さの乗った答え。
「あんなヤツ……。なんで、なんで……なんでなんでなんでなんでなんでなんでナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデナンデ」
恭二の口から、壊れた機械のような音が、漏れ始めた。
目の焦点が、完全に失われていく。詩乃は、じりじりと玄関の方へ後退る隙を窺った——その時。
インターホンが、鳴った。
『おい!朝田!無事か!?』
——皆月の、声。
その声が聞こえた一瞬、恭二の体が、硬直した。
その隙を逃さず、詩乃は玄関まで走った。そして、叫んだ。
「皆月!助けて!」
だが、急ぎすぎたのか、足がもつれた。キッチンの辺りで、転ぶ。右膝に鋭い痛みが走るも、気にせず起き上がり、玄関に走ろうとして——その足首を、誰かに掴まれた。
「——っ!」
強い力で引きずられ、仰向けにさせられる。
「アサダサンアサダサンアサダサンアサダサンアサダサンアサダサンアサダサンアサダサン」
覆い被さってくる恭二の口から、抑揚のない音が漏れ続けている。目の焦点は、もう、合っていない。とてつもない力で手首を掴まれ、床に固定される。どうにか振りほどこうと、詩乃が全身で抵抗していた、その時——。
ガシャアァン!!
大きな、金属とガラスが割れたような音が、部屋に響いた。
恭二と詩乃が、同時にそちらを向く。
ベランダの窓ガラスを割って——一人の背の高い男が、部屋に入って来るところだった。
夜風が、カーテンを大きく膨らませる。散ったガラス片が、街明かりを反射して光る。その中に、彼は立っていた。
「——よう」
「みな、つき」
恭二の、くぐもった声が聞こえた。皆月を、見ている。
皆月は、一瞬だけこちらに視線を向け、詩乃の無事を確認した後——恭二を見た。その右腕から、ガラスで切ったのか、少なくない血が滴り落ちていた。詩乃の声を聞いたすぐ後、おそらくは自分の部屋からベランダへ回り、非常壁を破って詩乃の部屋のベランダまで来て、素手で窓ガラスを破ってきたのだ。
「新川よぉ。お前が殺したいのは、俺だろ?」
皆月の声は、低く、挑むようだった。
恭二の目が——狂気の虚ろから、憎悪に染まったように見えた。詩乃の手首を掴む力が、緩む。
「そら、どうした?目の前に、殺したい程憎い相手がいるぜ?」
皆月は、わざと、挑発しているようだった。恐らく——詩乃から、自分に注意を向けさせるために。
ゆらり、と、恭二が立ち上がった。詩乃から離れて。その姿は、まるで亡霊のようだった。
その姿を見て、皆月は、さらに挑発を続ける。
「それにしても、くだらねぇよなぁ?《死銃》伝説ってやつ」
「くだ、らない?」
「ああ、そうだろ?要は、ゲームで自分より強いヤツがいるのが気に食わなくて、ゲームで勝てねぇから、現実で無防備な時を狙って殺しちまおうって事じゃねぇか。ダセェこと、この上ねぇだろ」
「……なにが、いいたい」
「お前は、自分の弱さを棚に上げてるだけだっていう話だよ」
「……」
「強くなる方法なんざ、いくらでもあったはずなのに、他人の強さを妬んで、逆恨みだ。ありえねぇだろ」
「……黙れ」
「所詮テメェがしてるのは、弱さを盾にした……くだんねぇ現実逃避だよ、新川」
「黙れぇぇぇ!!」
金切り声を上げながら、恭二が皆月に向かって突進した。その右手には、注射器が握られていた。
——詩乃の目には、その後の一瞬が、ほとんど映らなかった。
皆月は、動かなかった。突っ込んでくる恭二を、最後の一歩まで引きつけて——半身になった。
振り下ろされる注射器が、皆月のいた空間を、素通りする。
次の瞬間には、皆月の左手が恭二の手首を外から絡め取り、指の付け根を捻り上げていた。恭二の手から、注射器が、あっけなく床に落ちる。皆月はそれを足で遠くへ滑らせながら、同時に、恭二の襟首を引き寄せ——鳩尾に、掌底を一つ、沈めた。
「か、はっ——」
恭二の体が、くの字に折れる。
崩れかけたその首筋に、皆月の手刀が、正確に、必要最小限の速度で落ちた。
——それで、終わりだった。
糸の切れた人形のように、恭二は、床に横たわった。突進から数えて、二秒とかかっていない。あれほど恐ろしかった彼が、あまりにも、あっけなく。
これが、戦場を生き抜いた者と、そうでない者の——絶対的な、隔たりだった。
「……お前は、道を間違ったんだよ。無限に選べたはずの道を」
横たわる恭二を見下ろして、皆月が呟いた。
その表情は、怒ってはいなかった。憎んでもいなかった。強いて言えば——哀れんでいるように、見えた。道を選べる場所に生まれながら、自ら暗闇へ歩いて行った少年への、静かな哀れみ。
やがて、皆月が、詩乃の方を向いた。
「朝田、ガムテープあるか?ロープ的な物でもいいけど」
「え?」
「とりあえず、新川を縛っとく。起きたらめんどくせぇしな」
「ちょ、ちょっと待ってて」
詩乃は、押し入れから段ボールを縛る用のビニールテープを持って来て、皆月に渡した。手際よく、両手首、両足首を縛っていく皆月。眠る恭二の顔は、先程までの狂気と憎悪が、嘘のようだった。ただの、気弱そうな、少年の顔だった。
作業を終えた皆月が、立ち上がる。割れた窓から、十二月の夜気が流れ込んで、部屋の粘ついた空気を、少しずつ洗い流していく。
「さて、朝田」
「何?」
「——遅くなってすまん。よく頑張った」
そう、声をかけられた瞬間。
安心したのか、ふいに視界が滲んで——涙が、出てしまった。
「あ、あれ?」
自分でも驚いて、慌てて目元を拭う。でも、後から後から、溢れてくる。
「殺されかけたんだ。怖かったに決まってる」
皆月の声は、いつも通り、ぶっきらぼうだった。でも、その響きの奥が、どこまでも優しかった。
「……ひっく……」
ボスッと、詩乃は、皆月の胸に飛び込んだ。
血の匂いと、冬の夜の匂いがした。彼の右腕の傷が気になったけれど、離れられなかった。
声は、上げなかった。
それでも——涙は、止まらなかった。
生きている。私は、生きている。この世界を、生きていたいと願って、抗って、そして——生き延びた。
その温かい実感を、彼の胸の中で、詩乃はいつまでも噛み締めていた。
ド素人と戦闘のプロなら絶対こうなるよなと思い決着は一瞬です。