頭上には、何処までも高く、澄んだ空が広がっている。
十二月半ばにしては暖かく、放課後に騒ぐ生徒たちの喧騒も、ここまでは届かない。校舎裏の花壇の縁に座り、詩乃は空を眺めていた。
なぜ校舎裏にいるかというと、呼び出されたからなのだが——当の本人たちが一向に来ないため、こうしてボーッと空を見上げているのだった。
冬の空は、高い。
数日前まで、自分がどんな夜を潜り抜けてきたのかを思えば、この呼び出しの間の抜けた空気は、ほとんど平和と呼んでよかった。仮想の砂漠で死銃と対峙し、現実の自室で命を狙われた。それに比べれば——と、そこまで考えて、詩乃は小さく首を振った。
比べるものではない。ただ、確かに言えるのは、あの夜を越えた自分が、今ここに座っている、ということだけだ。
しばらくして、甲高い笑い声と共に、焼却炉の向こうの通路から、詩乃を呼び出した張本人——遠藤たちが現れた。
彼女たちは詩乃を見つけると、嗜虐的な笑みを浮かべた。
詩乃は、立ち上がって言った。
「呼び出しておいて、待たせないで」
詩乃の言葉を聞いた取り巻きたちが、笑みを消して言う。
「朝田さぁー、最近マジで調子にのってない?」
「ほんとほんと。イケメンの転校生に気に入られてるからってさぁ」
——なぜそこで皆月が。
と思ったが、反論する必要も無いため、無視する。すると、遠藤がにいっと笑って言った。
「別にいいよ。トモダチだから、何言っても。その代わり、トモダチなんだから助けてくれよ、朝田ぁ。とりあえず、二万でいいや。貸して」
大金を要求しているとは思えないような、何気ない調子で遠藤が言う。
詩乃は、度の入っていない眼鏡を外した。
レンズ越しの、薄い膜のかかった世界が、素の輪郭を取り戻す。この眼鏡は、詩乃の弱さの象徴だった。ガラス越しなら、世界は少しだけ遠くなる。銃も、悪意も、直接には届かない気がする——そんな、まじないみたいな道具。
でも、今は、外す。
両目に力を込めて、ハッキリとした口調で告げた。
「前にも、言ったけど。あなたにお金を貸す気は、ない」
そう告げた途端、遠藤の目が細められ、口から低い声が発せられた。
「いつまでも調子くれてんじゃねぇぞ。言っとくけど、今日はマジで兄貴からアレ借りてきてるんだからな。泣かすぞ、朝田」
そう言い、鞄の中に手を突っ込む遠藤。
取り出されたのは——大型の、黒い自動拳銃のモデルガンだった。
「これ、ダンボールに穴とか空けられんだぜ?絶対人に向けるなって言われたけど……朝田は慣れてるから、平気だよなぁ?」
そう言いながら、銃口をこちらに向けてくる。
その黒い穴に、自然と視線が吸い寄せられ——その瞬間、たちまち、鼓動が跳ね上がった。
心臓が、肋骨を内側から叩く。指先から、体温が引いていく。視界の端が、じわりと狭くなりかける。来る。あの発作が、来る——。
「ほら、泣いて土下座しろよ、朝田ぁ。殺すぞ!」
——奥歯を、噛み締めた。
全精神力を振り絞って、詩乃は、銃口から視線を引き剥がした。
そして、その代わりに——遠藤の、顔を見た。
(……見なさい、詩乃。銃じゃない。人間を)
あの夜、本物の悪意を見た。恭二の、あの虚ろな目を。首筋に当てられた、本物の死の冷たさを。そして、それでも私は、この世界を生きたいと願って、抗った。
それに比べて、今、目の前にあるものは、何だ。
遠藤の顔。それは、暴力に酔う人間の顔だった。借り物の力に酔って、他人が竦むのを楽しんでいるだけの、空っぽの顔。
——恐ろしいのは、銃ではない。
本当に恐ろしいのは、それを扱う人間の方だ。
跳ね上がっていた鼓動が、ゆっくりと、制御の内側に戻ってくる。震えは、まだ指先に残っている。でも、飲み込まれてはいない。受け止めて、立っていられる。
『お前は、自分の弱さから逃げなかった。逃げずに立ち向かい続けること——それこそが、本物の強さだよ』
洞窟で聞いた彼の言葉が、背骨のところにあった。
「クソッ。なんだよ、これ」
遠藤が、苛立った声を上げた。詩乃の左足に向けて撃とうとしたようだが、引き金が引けず、弾が出なかったらしい。銃口を覗き込むようにモデルガンを振っている。
詩乃は、大きく深呼吸をした。
そして——遠藤に近付いた。
「は?な、なに——」
遠藤が言い終わる前に、詩乃の手が動いていた。
アルバから教わった、敵の武器を奪う方法。手首の外側から絡めて、銃口を安全な方向へ逸らしながら、握りの緩んだ指からもぎ取る。GGOの中で、何十回も反復させられた動作。体は、勝手に動いた。
気がつけば、モデルガンは詩乃の手の中にあった。
「1911ガバメントか。渋い趣味ね」
詩乃は、掌の中の黒い銃を、静かに検めた。
「……ガバメントは、こことここに安全装置があるから、解除しないと撃てないわ。それと、最初はコッキングしないとだめ」
呟きながら、流れるような動作でレバーを操作していく。カチ、カチ、と小気味よい金属音。
唖然として、眼と口をぽかんと開けている遠藤たちを無視し、周囲を見回すと——何故か、バケツの上に置かれている空き缶があった。
オーソドックスな構え。両手でグリップを包み、肩の力を抜く。空き缶に照準を定め——引き金を絞った。
パス、と頼りない音のあと、オレンジ色の弾が発射され空き缶に命中した。
空き缶はくるくると回り、やがて、バケツから転がり落ちた。
ふう、と一息ついて、詩乃は呆然としている遠藤たちを見た。その視線に気づき、今度は自分が撃たれる、と思ったのか、遠藤が後ずさる。
「や、やめ……」
その姿を見て、詩乃は視線を緩めた。二つの安全装置を丁寧に戻してから、グリップを遠藤に向けて、差し出す。
「確かに、人には向けない方がいいわ、コレ」
一瞬ビクリとした遠藤だが、恐る恐るという風に、モデルガンを受け取った。
詩乃は振り向いて鞄を拾い、じゃあね、と踵を返した。
しばらく歩いた所で——一つ、言い忘れていた事を思い出し、振り返る。尚も唖然としている遠藤たちに向けて言った。
「殺す、って言葉」
冬の午後の光の中で、詩乃の声は静かに響いた。
「本当に殺す覚悟も、殺される覚悟もないのに、簡単に使わない方がいいわ」
それは、彼の…皆月暁の言葉だった。その重さが伝わったのかどうかは、分からない。ただ、遠藤たちは動かなかった。
ただ、立ち尽くしているだけだった。
詩乃は、再度振り向き歩き出した。
そして——遠藤たちが視界から消えた後。
両足から、力が抜けそうになった。
慌てて校舎の壁に手を突き、どうにかこらえる。膝が、今頃になって笑っている。心臓の鼓動もまだ速い。強がりの反動が、一気に来ていた。
でも——口元は、笑っていた。
倒れなかった。逃げなかった。過去は消えていない。発作の種も、まだ体の中にある。それでも、受け止めて、立っていられた。
「これが……最初の一歩よ」
誰にともなく、詩乃はそう呟いた。
高い冬空が、それを見下ろしていた。
◇
——あの後のことを、少し整理しておく。
あの夜、ひとしきり泣いた後、キリトが警察を連れて、遅れて到着した。皆月に昏倒させられた新川恭二は、警察にその場で逮捕された。キリトは部屋の惨状と、皆月の血だらけの腕を見て、大層慌てていた。当の皆月は、
「こんなもん、ただのかすり傷だろ」
と言っていたが。だが流石に、救急車に渋々押し込まれていた。私も念のため、ということで病院に連れられた。そのまま検査に異常なし、という事で、病室で事情聴取が始まった。ひとしきり色々聞かれたあと、あてがわれた病室でそのまま眠り、翌朝の月曜日、一度アパートまで戻り、教科書等を持って、そのまま登校した。皆月は、流石にあの怪我なので、登校していなかった。
眠い目をこすりながらその日を乗り切り、帰宅すると、アパートの前で警察が待っていた。部屋に戻り、改めて見回すと——割れた窓ガラスに、床に滴り落ちた血痕という酷い惨状で、思わず目を逸らした。しばらくこの部屋には帰れないな、と思う。今度は着替え等も持ち、再び病院へ連れられた。
簡単な検査の後、再び警察に色々聞かれた。詩乃も、恭二の事や皆月の様子等を聞いた。恭二については、たいした怪我ではない事や、黙秘を続けていることが聞けた。皆月については、緊急性が高かった為にほぼお咎め無しなことや、怪我については十針程縫う、結構な怪我らしかった。もう退院しているらしく、別の場所で事情聴取をしている、ということだった。
その後、再び病院に泊まった。疲れていたのか、そのまま泥のように眠ってしまった、
そして翌朝、登校の為に病院を出たところで、皆月から電話があった。
『よう、元気か?』
『元気か、じゃないわよ!』
『元気そうで何よりだ』
『あんた、学校は?ていうか、怪我は大丈夫なの?』
『学校はまだ無理。事情聴取がまだあるらしいわ。怪我は問題ない。かすり傷だっつーのに、大袈裟なんだよなぁ』
『十針縫う怪我を、かすり傷とは言わないわよ……』
『そうかぁ?まあいいや。朝田、今日の放課後、時間あるか?』
『あるけど、どうしたの?』
『俺とキリトの依頼人が、お前に会いたいらしいわ』
『依頼人って、政府の役人だっていう?』
『そーそー。とりあえず、放課後迎えに行くから。そんじゃ』
そう言い放ち、すぐ電話を切った皆月。
色々他にも聞きたいことがあったのに、と思ったが——声を聞けて安心したのか、気持ちは晴れやかだった。電波越しの、あのぶっきらぼうな声一つでこんなに軽くなるのだから、我ながら現金なものだと思う。
◇
そんなことを考えながら放課後、校門付近に到着すると——人だかりがあった。
何の騒ぎかと思い、そちらに歩みを進めると、その人だかりの中の、同じクラスのそこそこ仲の良い女子二人が、こちらを向いた。
「あっ、朝田さん!」
そう言いながら、こちらに駆け寄ってくる。
「ど、どうしたの?」
「どうもこうもないよ!ほら、アレ」
少し興奮気味に言葉を放った後、校門の方を向く二人。つられてそちらを向くと——信じがたい光景があった。
校門のすぐ前の道にバイクが停まっており、そのすぐ側に、物凄く見覚えのある少年が立っていた。茶色のライダースジャケットを羽織った彼は、人だかりなど視界に入っていないかのように、ボーッと空を眺めていた。
——迎えに行く、とは言っていた。
言っていたけれど。まさか、校門のど真ん前にバイクを停めて待つなんていう、大胆不敵な真似をするとは思わなかった。
栗色の髪の女子生徒が、嬉々として言う。
「あれ、皆月君だよね?今日学校休んでたけど……」
「あれ、朝田さんを待ってるんだよね?」
「え、えーと……」
どう説明したものか、言い淀んでいると、眼鏡をかけた女子生徒が聞いてくる。
「ねぇ、やっぱり朝田さんと皆月君って、付き合ってるの!?」
その言葉に、かあっと顔が熱くなった。
「ち、違う!」
「えー、でも、二人いつも一緒だし、登下校も一緒だよね?」
「そうそう!それにお昼休みも一緒に食べてるし!それで付き合ってないは、ちょーっと無理があるよ〜」
「ほ、ほんとに違う!私と皆月は、まだ……」
「まだ、ってことは、朝田さんは、そういうことなんだ?」
「なぁっ……」
きっと、私の顔は真っ赤だろう。
墓穴を掘った。
それもこれも、全部皆月のせいだ、と校門を向くと——こちらを見ていた皆月と、目が合った。
気持ち睨みつけてみると、彼は首を傾げた後——なんということか、こちらに向かって、歩いてきた。
隣でキャアキャア騒いでいる女子生徒二人を無視して皆月を睨んでいると、やがて目の前まで来た皆月が、あっけらかんと言った。
「何その顔?」
「何、じゃない」
「つーか、遅えよ。待ちくたびれたぜ。……てか、この人だかり、何?」
「あ、アンタねぇ。待つにしても、場所考えなさいよ。校門のど真ん前で待つなんて……しかもアンタ、今日学校休んでるのよ? そんな人が校則違反のバイクで人を待ってたら、目立つに決まってるでしょ!」
「そういうもんかぁ?分かりやすいと思って、あそこにいただけだけど。……まあいいや。さっさと行こーぜ。ぼちぼち時間だし」
そう言って、ヘルメットを手渡してくる。
両手でそれを受け取ると、人だかりをまったく気にする素振りもなく、バイクまで戻っていく皆月。その背中を少し睨んだ後、ついて歩き出そうとすると——私と皆月のやり取りを見ていた、先程の女子生徒二人が声をかけてきた。
「朝田さん!明日、色々聞かせてねー!」
「たっぷり吐いてもらうからねー!」
その声を背中に受けながら、皆月のバイクの側まで着く。
「何、なんかしたのお前?」
「……アンタのせいよ」
「はぁ?」
当の本人は、何も分かっていないらしい。はー、と、ため息をつく。彼の鈍さは、今に始まったことではない。
ヘルメットをかぶり、顎下のハーネスを止めようとするが、慣れない金具に手こずっていると——皆月の手が、伸びてきた。
「これは、こうやんだよ」
そう言いながら、手慣れた手つきで、ハーネスを止めてくれる。
彼の指が、顎のすぐ下で動く。近い。息が、かかりそうなくらい。
その動作に、見物人たちが、キャー、と黄色い声を上げた。
再び、顔が熱くなる。逃げるように彼の跨るバイクの後部座席に乗った。要領は、祖父のバイクに乗っていたので大体分かっている。
「うおっ。なんだあれ」
背後の人だかりから上がった一際大きな歓声に、皆月が振り向く。
「は、早く行くわよ!」
一刻も早く、ここから逃げ出したい。皆月を急かすと、彼はこちらを振り向いて言った。
「そいや、スカートは大丈夫か?」
「下スパッツ履いてるから!いいから行くわよ!」
「あ、そう。……そんな急がなくても」
「いいから!」
「へーいへい。しっかり捕まってろよ?」
エンジンが、低く唸った。
私は、彼の背中に腕を回した。ライダースジャケット越しの、確かな体温。GGOのバギーの後部座席と、同じ位置。でも、これは仮想じゃない。本物の冬の風と、本物の彼の背中。
バイクが、滑り出す。
背後の歓声が、あっという間に遠ざかっていく。頬を刺す十二月の風は冷たいのに、腕の中だけが、温かかった。
——明日の教室が、少し恐ろしい。
でも、まあ、いいか。
私は彼の背中に、少しだけ深く、額を寄せた。