中央区銀座。
十二月の夕方の表通りは、クリスマスの電飾に彩られ、行き交う人々のコートの肩も、どこか華やいで見えた。その表通りから一本裏に入った、静かな通り。案内された先は、いかにも高級そうな喫茶店だった。
飴色の木の扉に、磨き込まれた真鍮の取っ手。ガラス越しに覗く店内は、落ち着いた琥珀色の照明に満たされている。扉の前に立っただけで、自分の制服姿が場違いに思えて、詩乃はその佇まいに怯んだ。
一方の皆月は、たいして気にすることなく、平然と店内に入っていく。
(な、なんでそんなに堂々としてるのよ……)
詩乃も慌ててそれに続くと、丁寧な所作のウェイターに、深々と頭を下げられた。
「いらっしゃいませ。お二人様でしょうか?」
「いや、人と……」
そこまで皆月が喋ったところで——シックな雰囲気をぶち壊す大声がした。
「皆月くーん!こっちこっち」
そちらを向くと、店の奥の窓際の席で、ホワイトカラー然としたメガネを掛けたスーツ姿の男が、大きく手を振っていた。その向かいには、縮こまっている制服姿の少年。周囲の客が一瞬だけ迷惑そうな視線を投げて、すぐに紳士的に目を逸らす。
皆月は、チッと軽く舌打ちしてから、店員に言った。
「……アレと待ち合わせです」
「かしこまりました」
ウェイターは表情ひとつ変えずに一礼して、歩き始めた。プロだ、と詩乃は妙なところで感心した。
テーブルまで案内されると、制服の少年——キリトこと、桐ヶ谷和人が手を挙げる。
「よっ、二日ぶり」
そう言いながら立ち上がり、自分が座っていたソファの窓側へと誘導してくれる。三人掛けの広い高級そうなソファに、窓側から皆月、詩乃、和人の順に並んだ。革張りの座面は、体が沈み込むほど柔らかい。
——現実で見る和人は、不思議な感じだった。
二日前のあの夜、血と割れたガラスの散らばる部屋で会った時と、同じ人のはずなのに。日常の光の中で見る彼は、線が細くて、物静かで。あの《黒の剣士》と同一人物だとは、知らなければ絶対に分からないだろう。
……まあ、それを言うなら。隣でだらしなくソファに沈んでいるこの男が《白狼》だなんて、誰も信じないだろうけれど。
席に着くと、ウェイターがお絞りとメニューを持ってきた。
「さ、何でも頼んでください」
正面の男に促されるまま、メニューに視線を落とす。
——そして、その値段に驚愕した。
全て四桁の数字が並んでいる。ケーキが。たった一切れの、ケーキが。詩乃の三日分の食費が、皿一枚で消える世界が、そこに広がっていた。
狼狽えていると、皆月がまったく気にする様子もなく、店員に言った。
「フルーツタルトとミルフィーユ。あとショートケーキ。……ジンジャーエールも」
とんでもない事を言う。三皿。想像を絶する値段だろう。呆けていると、ウェイターが詩乃の注文を待っているのに気付いた。慌ててメニューに視線を落とす。
「……レアチーズケーキ・クランベリーソース……と、アールグレイで」
注文を終えると、店員が深々と腰を折り、立ち去った。合計金額は、考えないことにした。
「朝田、もっと食っとけよ。どうせこのメガネの奢りなんだから」
「そうそう。食べとかないと損だぞ」
皆月とキリトが、左右から矢継ぎ早に言う。この二人の神経は図太すぎる。
「……あんた、まさかこういう店、慣れてるの?」
小声で皆月に聞くと、彼はあっさり答えた。
「前に一回、このメガネの奢りで来た。ここのショートケーキは悪くねぇ」
——そういえば、キリトと初めて顔を合わせたのも銀座のカフェだと言っていた。まさか、ここだったのか。
二人の図太さに呆れていると、正面に座る男が、詩乃に向けて名刺を差し出した。
「はじめまして。総務省総合通信基盤局の菊岡といいます」
「は、はじめまして。朝田詩乃です」
両手で受け取った名刺は、上質な紙でできていた。
「この度は、こちらの不手際で朝田さんを危険に晒してしまい、本当に申し訳ありませんでした」
そう言って、菊岡は深く頭を下げた。
「い、いえ、そんな……」
おずおずと、頭を下げ返す。
頭を上げた菊岡の顔には、柔和な笑みが浮かんでいた。物腰は丁寧で、声は穏やか。なのに——不思議と、その笑みの奥が読めない。眼鏡のレンズが照明を反射して、瞳の色を隠していた。
その後は、テーブルに運ばれたケーキを食べながら、事件の詳細について聞くことになった。
銀のフォークで、レアチーズケーキを一口。……悔しいくらいに、美味しかった。人の生き死にの話を、こんなに美味しいケーキを食べながら聞くことになるなんて。世界は時々、酷くちぐはぐだ。
「さて、事件についてだが……」
菊岡は呟きながら、鞄の中から極薄のタブレットPCを取り出した。細い指が、画面を数度なぞる。
「リーダー役だった新川昌一の事だが……。彼は幼少から体が弱かったそうだ。中学を卒業する頃までは入退院を繰り返していたらしい。高校入学も一年遅れたそうだ。そのせいで父親は実家の総合病院の後継ぎにすることを早々に諦めて、三つ年下の弟の新川恭二にその役目を与えようとしたそうだ。小学校の時から家庭教師を付け、自らも勉強を教えたりしていた一方で、昌一の事はほとんど顧みなかった。兄は期待されないことで追い詰められ、弟は期待されることで追い詰められたのかもしれない……とは、聴取における父親の弁だが」
一度、菊岡は言葉を切り、コーヒーで唇を湿らせた。
——親の、期待。
詩乃は想像しようとしたが、実感することは出来そうになかった。期待という名の重石を載せられる感覚は、詩乃の知らない種類の苦しみだった。ただ——その重石の下で、あの穏やかだった恭二の何かが、少しずつ潰れていったのだとしたら。
フォークを持つ手が、わずかに重くなった。
「それでも兄弟仲は悪くなかったそうだ。昌一は高校を中退してから精神の慰撫をMMORPGに求め、それは弟の恭二にもすぐに伝播した。やがて兄は《ソードアート・オンライン》の虜囚となり、二年のあいだ父親の病院で昏睡していたのだが……生還してからは、彼は恭二にとってある種の偶像……英雄化と言ってもいい。そういう存在になったそうだ」
「……英雄化?」
皆月が呟く。それに応えるように、菊岡は話を続ける。
「ああ。自分がいかにあの世界で多くのプレイヤーを手に掛け、真の殺戮者として恐れられたか……ということをね。その頃、成績の低下や上級生からの恐喝などの重圧を受けていた恭二には、その話はある種の爽快感をもたらすものだったようだね」
「……ハッ。くだらねぇな」
皆月が、吐き捨てた。その声の低さに、詩乃は横目で彼を見た。黒い瞳が、冷たく据わっている。本物の殺し合いの中で生きてきた彼にとって、殺人を武勇伝として語る人間は、どう映るのだろう。
「あの……」
詩乃が小さな声で口を挟むと、菊岡が顔を上げ、詩乃の方を見遣った。
「そういうことは、新川君……いえ、恭二君が話したんですか?」
「いや、これらは全て兄の供述に基づく話です。昌一は、取り調べに訊かれたことは全て答えているらしい。しかし対照的に、恭二の方は完全な黙秘を続けている」
「……そうですか」
完全な、黙秘。
取調室の硬い椅子に座って、口を閉ざし続ける恭二の姿を、詩乃は想像しようとした。でも、浮かんでこなかった。もはや、彼の魂がどの地平を彷徨っているのか、詩乃には想像もつかない。もしかしたら……まだ、《ガンゲイル・オンライン》の中に、シュピーゲルとして立っているのかもしれない。あの砂と鉄の世界のどこかに、たった一人で。
「あ……、どうぞ、続けてください」
菊岡は軽く頷くと、話を続けた。
「昌一がガンゲイル・オンラインを始めたのは、恭二に誘われたかららしいが……最初は熱心にプレイはしていなかったらしい。転機となったのは……リアルマネートレードで《透明化できるマント》を手に入れた時だったようだ」
「あのクソアイテム、RMTで手に入れたのかよ。幾らだよ?」
「日本円で三十万ちょっとだそうだ。昌一は、父親から月に五十万の生活費を貰っていたそうだ」
「クソだなマジで」
皆月が本気で嫌そうな顔をした。
「てことは……あのレア素材のエストックも、あのデカいライフルもRMTで買ったのか。SAOにRMTが無くて良かったよ」
キリトが、満更冗談でも無さそうに呟く。菊岡も真顔で頷いた。
「まったくだ。そして彼は、そのマントを使い、街中で気づかれないようにストーキングする技術を磨いたそうだ。そしてある日、彼は総督府ホールという場所まで尾行した相手が、端末に何かを打ち込んでいることに気付いた。双眼鏡で柱の影から覗くと、そこには……」
「現実世界の個人情報が並んでいた、か」
「まさしく」
「情報を得るためにマントを手に入れたんじゃなく、先にマントありきだったのか……」
キリトが、苦いものを飲んだような顔で呟く。
「……《死銃》が生まれたきっかけが、あのマントだったんですね」
詩乃も、静かに言った。
アイテム一つ。運命の分岐点というものは、こんなにも、くだらない場所にあるのか。
「そういうことになるね。そして、恭二は自分のキャラクターの育成が行き詰まっているという悩みを昌一に打ち明けた。それが《ゼクシード》というプレイヤーが広めた偽情報のせいだ、とも。そして、昌一はその《ゼクシード》の情報を持っている事を思い出し、恭二に伝えた」
「それが……《死銃》の誕生の瞬間って訳か」
「そうだね。そこから先は、皆月くんの推理通りだ。マスターキーや薬品の入手は、彼らの父親の病院から盗み出した物だったそうだ」
「随分とまあ、ザルな管理をしてんだな。その大病院とやらは」
「そこについても、捜査が入るそうだよ。恐らく……彼らの父親は、経営から退くだろうね」
一家が、崩れていく。詩乃は、会ったこともない新川兄弟の父親のことを、ほんの一瞬だけ思った。息子二人を追い詰めた張本人。でも、きっと本人は、そんなつもりは欠片もなかったのだろう。
話を戻す菊岡。
「計画を練るその過程こそがゲームだった、と昌一は供述している。SAO時代にやっていたことと何も変わらない、とね」
「額面通りに受け取らないほうがいいぜ」
キリトが口を挟んだ。その声は、これまでで一番、硬かった。
「奴はあの世界で、その死が本物であったからこそ、あそこまで殺人行為に魅せられたんだ。仮想でも現実でも、都合が悪いことだけリアルではないと信じ込む。VRMMOのダークサイドかもな。現実が、薄くなっていく」
「ふむ……。君の現実は、どうなんだい?」
菊岡に問われたキリトは、宙をじっと見つめ、真剣な顔で答えた。
「あの世界に置いてきたものは、確実に存在する。だからその分、俺の質量は減少しているとは思う」
「戻りたい、と思うかね?」
「聞くなよ、悪趣味だぜ」
キリトは苦笑いした後、詩乃と皆月を見た。
「二人はどうなんだ、そのへん?」
「え……」
「あ?」
唐突に聞かれ、戸惑った。
「え、ええと……」
詩乃は、しばし思考した。
仮想と、現実。シノンと、詩乃。この数ヶ月、その二つの世界を行き来しながら、彼女はずっと、その境界の上で生きてきた。だから、答えは、考えるまでもなく、もう体の中にあった。
「たとえ、ここがアミュスフィアが作った仮想世界だとしても……私にとっては、その時にいるその場所が唯一の現実、だと思う」
ちらりと横を見ると、皆月が目を瞑り、詩乃の話を聞いていた。
そして、目を開いて、言った。
「……俺は、逆だな。ここが現実で、あっちは現実じゃねぇ。最初にダイブした時から、それだけは決めてる」
「ほう。理由を聞いても?」
菊岡が、興味深そうに軽く身を乗り出す。皆月は、ジンジャーエールのグラスを静かに置いた。
「人の死があり得ない世界が、現実なはずがねぇだろ」
一瞬、テーブルの空気が、張り詰めた。
「……俺は、本物の重さを知ってる。だから、あの世界を現実だなんて、口が裂けても言えねぇ」
その言葉の重さを、この場の全員が知っていた。菊岡ですら、軽口を返さなかった。
「ただ、な」
皆月は、ふっと息を吐いて、続けた。
「仮想か現実かなんてのは、多分、大した問題じゃねぇんだ。どっちの世界だろうと、そこにいる人間の意識は本物で、そいつがやった事も本物だ。過ごした時間も、経験した事もな。だから、ある意味では、もう一つの現実、と言えるかもな。……矛盾してるな。忘れてくれ」
フッと笑い首を振る皆月。そんな皆月をじっと見た後、菊岡は話を続けた。
「彼らは第三回BoBにおいて、新たな殺人計画を立てた。しかしその計画には幾つか障害があり、それを解決する為に、もう一人仲間に引き入れた。金本敦。十九歳。SAO時代のキャラクターネームは《ジョニー・ブラック》。聞き憶えは?」
「あるよ」
キリトが、目を伏せて言った。
「《ラフィン・コフィン》でザザとコンビを組んでた、毒ナイフ使いだ。当時も、二人で組んで何人ものプレイヤーを襲い、殺した……。畜生……こんな、こんなことなら……あの時……」
キリトの声が、震えた。膝の上の拳が、白くなるほど握り込まれている。
「桐ヶ谷」
皆月の声が、それを遮った。
「その悔恨だけは、絶対にする必要は無い」
静かで、しかし有無を言わせない声だった。
その言葉に、キリトは泣き笑いのような顔を作った。詩乃も、ふるふると首を振る。
やがて、キリトはいつもの表情に戻った。それを確認した皆月は、促すように質問をした。
「……その金本とやらは、逮捕されたのか?」
「いや、自宅アパートに捜査員が急行したところ、部屋は無人だった。今現在も監視中のはずだが、逮捕の知らせは無いね」
「薬品は?使い切ったのか?」
「昌一は念の為に三本渡していたそうだ。《ペイルライダー》と《ギャレット》の二人に使用されて、もう一本残っている可能性がある。念の為、月曜日から今朝までキリトくんと朝田さんに警察の警護がついたのは、それが理由だよ」
「おい、俺には一切誰もついてなかったぞ」
ジロリと菊岡を睨む皆月。菊岡は苦笑いをしながら言った。
「いやいや、君に警護なんか必要ないだろう?警察も人手不足でね」
「コノヤロウ……」
皆月の睨みを軽やかに無視して、菊岡が言う。
「さて、僕から説明できるのはこんな所だが……何か質問はあるかな?」
それに、詩乃は、訊かずにはいられなかったことを聞いた。
「……あの。新川君……恭二君は、これから、どうなるんですか……?」
「うーん」
菊岡が、指先で眼鏡を押し上げながら、低く唸った。
「昌一は十九歳、恭二は十六歳なので、少年法による審判を受けることになるわけだが……四人も亡くなっている大事件だから、当然家裁から検察へ逆送されることになると思う。そこで、恐らく精神鑑定が行われるだろう。その結果次第だが……彼らの言動を見るかぎりでは、医療少年院へ収容となる可能性が高いと、僕は思うね。何せ二人とも、現実というものを持っていないわけだし……」
「いえ……そうじゃないと、思います」
詩乃が、ぽつりと呟いた。菊岡は、視線で先を促した。
「お兄さんのことは私には解りませんけど……恭二君は……恭二君にとっての現実は、ガンゲイル・オンラインの中にあったんだと思います。この世界を——全部捨てて、GGOの中だけが真の現実と、そう決めたんだと思います。それは単なる逃避だと……世間は思うでしょうけれど、でも……」
言葉を探しながら、詩乃は自分の胸の中を覗き込んだ。
そこにあるのは、憎しみ、ではなかった。
命を奪われそうになった。多大なる恐怖と絶望を与えられた。首筋の、あの冷たさは、きっと一生忘れない。それでも——彼は、詩乃に好意を向けてくれて、GGOと出会わせてくれた人でもあった。たとえ、その好意が最初から歪んでいたとしても。GGOがなければ、詩乃はシノンに出会えず、そして——この人にも、出会えなかった。
憎み切ることも、許すことも、できない。ただただ……深い、やるせなさだけが、そこにあった。
「でも、ネットゲームというのは、エネルギーをつぎ込むにつれて、ある時点からは娯楽だけの物じゃなくなると思うんです。強くなるために、ひたすら経験値とお金を稼ぎ続けるのは、面倒だし辛いです。……たまに短時間、友達とわいわい遊ぶなら楽しいでしょうけど……恭二君みたいに、最強を目指して毎日何時間も作業みたいなプレイを続けるのは、凄いストレスがあったと思います」
「ゲームで……ストレス?しかし……それは、本末転倒というものじゃ……」
菊岡は、唖然として呟いた。
「はい。恭二君は、文字通り、転倒させたんです。この世界と……あの世界を」
「しかし……何故?なぜ、そこまでして最強を目指さなければならないんだろう……?」
「私にも……それはわかりません。さっきも言いましたけど、私にとってはこの世界も、ゲーム世界も、連続したものだったから……。皆月、キリト、あなた達には、わかる……?」
詩乃の質問に、瞑目して考える二人。
先に、キリトが呟いた。
「強くなりたいから」
「……そうね。私も、そうだった。VRMMOプレイヤーは、誰だって同じなのかもしれない……。ただ、強くなりたい」
自分の弱さを、消してしまいたいから。過去に、追いつかれないように。詩乃の数ヶ月も、突き詰めれば、その一心だった。
そこで、ふと、皆月のことを思った。
彼は、少し違うように思えた。彼には、強さが、最初から備わっていたから。望みもしないのに、あらゆるものと引き換えに。
だから、聞いた。
「皆月。あなたは、なんでGGOを始めたの?」
皆月は、少しだけ黙った。それから、窓の外の銀座の灯りに視線を流して、答えた。
「……俺が、してきたこと、手に入れたものの意味を知るため」
彼の過去は、もう知っている。あの洞窟で、聞いた。それでも——その言葉の真意までは、分からなかった。意味を、知る。彼はまだ、その答えを探している途中なのだろう。それ以上は聞けなかったため、詩乃は菊岡に問うた。
「あの……恭二君には、いつから面会できるようになるんでしょうか?」
「ええと……送検後もしばらくは拘置されるだろうから、鑑別所に移されてからになりますね」
「そうですか。……私、彼に会いに行きます。会って、私が今まで何を考えてきたか……今、何を考えているか、話したい」
自分でも、驚くほど静かに、その言葉は出てきた。
菊岡はわずかに微笑を浮かべると、言った。
「あなたは強い人だ。ええ、ぜひ、そうしてください。今後の日程の詳細は、後ほどメールで送ります」
ちらりと腕時計を覗いた菊岡が、帰り支度を始める。
「申し訳ないが、そろそろ行かなくては。閑職とは言え、雑務に追われていてね」
「ああ……。悪かったな。手間を取らせて」
「あの……ありがとうございました」
「いえいえ。また、新しい情報があったらお伝えしますよ。……そうだ。キリトくん、皆月くん。コレ、頼まれていたものだ」
菊岡が胸ポケットから二枚のメモを取り出し、二人に渡した。
キリトはメモを開いて、じっと見つめた。皆月は一瞥して、目を細めた後、無言でジャケットの内ポケットに仕舞った。詩乃の位置からは、その内容は見えなかった。
「それと、キリト君。キミに、新川昌一……赤目のザザからの伝言だ。聞くかい?」
キリトの肩が、僅かに強張った。それでも、彼は頷いた。
「……ああ。頼む」
菊岡は、タブレットに視線を落とし、感情を排した声で読み上げた。
「『これが、終わりじゃない。終わらせる力は、お前にはない。すぐにお前も、それに気付かされる。イッツ・ショウ・タイム』——以上だ」
店内の暖かい照明の下で、その言葉だけが、氷のように冷たかった。
キリトは、しばらく目を閉じていた。詩乃の背筋を、あの砂漠の夜の寒気が、一瞬だけ撫でていった。
◇
「食えない奴だ」
「まったくだ」
喫茶店を出ると、外はもう夕日の色だった。街路樹に絡んだ電飾が、白く瞬いている。
店の前で、皆月と菊岡が二人だけで何かを短く話した。詩乃の位置からは聞こえなかったが、皆月の目つきが、一瞬だけ鋭くなったのが見えた。菊岡は最後まで笑みを崩さないまま、黒塗りの車に乗って去っていった。
詩乃たちは、停めたバイクに向かって歩き出した。銀座の裏通りは人が少なく、三人の足音と、遠いクリスマスソングだけが聞こえる。
「……あの人は、一体何者なの?総務省の役人、って言ってたけど……なんか……」
「ハッ。ただの役人なわけあるかよ」
「……どういうこと?」
疑問に思う詩乃の目を見た皆月は、推測した情報を組み合わせて話し始めた。
「アイツと俺が知り合ったのは、立川経由だ。あ、桐ヶ谷に言っとくと、立川ってのは俺の保護者だ。で、その立川は、元自衛隊所属だ」
「菊岡さんも、自衛隊員ってこと?」
「立川は何も言わねぇけどな。多分そうだろ」
「俺も以前、奴を尾行したことがあったんだけど……」
キリトが続けた。
「アイツが車を降りたのは、総務省のある霞ヶ関じゃなくて、市ヶ谷だった」
「防衛省があるとこじゃねえか。ほぼ確定だな。実際、アイツの立ち振る舞いはプロのそれだしな」
同じくプロである皆月が言うのなら、説得力のある言葉だった。
「でも……仮にあの人が自衛隊の関係者だとして、どうしてVRMMOの調査なんかしてるの?まるで縁もゆかりもないでしょ?」
皆月が、首を振った。
「人間の作り出したもので、軍事転用されなかったものは殆どないぜ。船は軍艦に。トラクターは戦車に。車は装甲車に。飛行機は戦闘機に。ロケットはミサイルに。ラジコンは無人攻撃機に。VR技術も、それは同じだ」
「……」
淡々と並べられる言葉の一つ一つが、街灯の下で、妙に冷たく響いた。
「朝田。お前は多分、今現実で、実銃を渡されたら、弾を込めて撃つところまでは可能だろ?」
「え、ええ。多分、できると思う」
昨日の校舎裏の一件が、頭をよぎった。あの流れるような自分の手つき。あれは全部、GGOで覚えたものだった。
「そういう事なんだよ。仮想世界で経験を積めば、現実世界でもその経験はフィードバックされる。その逆も然りだ。俺のようにな」
現実の戦場を生きた皆月が、仮想世界でアルバとして、あれ程の技術を持っている。まさしく、彼の理論の証明だろう。
「実際、米軍でもフルダイブ技術を訓練に転用する計画があるらしいからな」
キリトが、補足するように言う。
「実際、アイツも、その調査に来たって言ってやがったからな。世界中が、その可能性を探ってる」
アイツというのは、皆月の昔の仲間だという、《ソルダート》のことだろう。彼を日本に送り込んだ、どこかの誰かのことも。
「本当に、そんなことが……」
「ああ、まったく……、クソ程愚かだ。戦争なんざ、やるもんじゃねぇってのになぁ……」
そう言う皆月は、複雑な感情が入り混じった顔をしていた。
夕日が、彼の横顔に濃い影を作っている。その目は、銀座の裏通りではない、どこか遠くを見ていた。詩乃は、その顔をジッと見つめた。きっと、彼は、昔を思い出しているのだろう。仮想ではない、本物の戦場を。
何を言うべきか考えていると、皆月がふいに、詩乃に聞いてきた。
「朝田、この後まだ時間あるか?」
「え?ええ。大丈夫だけど……」
「んじゃ、もう一軒付き合ってくれ。主に桐ヶ谷の用事に」
「キリトの?」
「その……昔の仲間に、今回のことが色々バレて……。説明を、二人に手伝って欲しいんだ」
キリトが、バツが悪そうに言った。無慈悲に、皆月が言う。
「ラーメン奢れよ」
「うぐ」
詩乃も続いた。
「私はケーキね」
「ぐ」
「じゃ、決定で。場所は御徒町だったか?」
「ああ、そうだ」
「なんだ、帰り道じゃない」
さっきまでの重い空気が、少しだけ、軽くなった。たぶん、皆月はわざとやっている。そういう人だということも、もう、知っている。
◇
御徒町に到着して、何本かの細い道を曲がりながら着いたのは、【Daicy Cafe】とサイコロの付いた看板の下がった店だった。
銀座のあの店とは、何もかもが違った。年季の入った木の扉。手書きめいた看板。窓から漏れる灯りは、琥珀というより、蜂蜜の色。店先には『Closed』の札が下がっている。
「……ここ?」
「ああ」
そう言って和人が扉を開けると、カランとベルが鳴り、深いバリトンボイスが聞こえてきた。
「いらっしゃい」
その声の主は、カウンターの向こうに立つ、チョコレート色の肌の巨漢だった。磨き込まれた木のカウンターに、コーヒーの香り。この店のマスターなのだろう風貌だ。
彼とは別に、店内には先客が二人いた。キリトと同じ制服を着た、二人の少女。
「おっそーい!待っている間にアップルパイ二切れも食べちゃったじゃない。太ったらキリトのせいだからね!」
「なんでそうなるんだ……」
髪を肩辺りまで伸ばしたそばかすの少女がキリトに向かって言うと、もう一人の、栗色の髪を腰辺りまで伸ばした少女が、二人の間に割って入って言った。
「それより、早く紹介してよ、キリトくん」
「あ、ああ。そうだった」
キリトが、詩乃の方を向きながら言う。
「こちら、ガンゲイル・オンラインの三代目チャンピオン、シノンこと朝田詩乃さん」
「ちょっと、やめてよ」
「で、こっちが同じく三代目チャンピオンの、アルバこと……」
「皆月暁だ。どうも」
そっけなく言う皆月。二人の少女は、皆月の雰囲気に少し面食らっているようだった。
確かに、初対面だと、彼は少し怖いかもしれない。背は高いし、目つきは鋭いし、声は低いし、愛想は皆無だし。詩乃は、少しだけ勇気を出して、二人に向けて言った。
「この人、誰に対してもこんな感じだから、気にしないで下さい。口は悪いし態度も目つきも悪いけど、悪気はないので」
「おい、なんだそれ」
「事実でしょ。二人が怖がってるじゃない。もう少し愛想良くしなさいよ」
「俺ができると思うか?」
「努力ぐらいはしなさいよ」
皆月といつもの様なやり取りをしていると、クスクスと笑い声が聞こえてきた。栗色の髪の少女のものだった。キリトとそばかすの少女も、微笑ましそうにこちらを見ている。
それに気づいて、詩乃は急に恥ずかしくなってしまった。
「ご、ごめんなさい」
「いやいや、二人は仲いいな。……で、こっちがぼったくり鍛冶屋のリズベットこと、篠崎里香」
「なっ!何よその言い方!!」
思いもしない紹介の仕方をされ、里香が思わずパンチを喰らわせようとするが、キリトに軽くあしらわれていた。キリトは気にせず、もう一方の少女の方に手を向ける。
「んで、あっちがバーサクヒーラーのアスナこと、結城明日奈」
「ひ、ひどいよー」
ふわりとした動作で、明日奈は会釈をした。その所作の一つ一つが、綺麗な人だった。
「で、アレが壁のエギルこと、エギル」
「おいおい、俺は壁かよ。それに、俺にはちゃんとママから貰った立派な名前があるんだ」
巨漢の男は、分厚い胸板に手を当てて言った。
「初めまして。アンドリュー・ギルバート・ミルズです。今後とも宜しく」
流暢な日本語で挨拶をしたエギルに、詩乃は思わず驚きながら挨拶をした。
「さ、座って座って。色々とお話ししたいし」
明日奈がグイグイくるせいで、詩乃は若干戸惑ってしまった。そして、されるがままに席に着き、温かい飲み物を渡される。カップから立つ湯気が、頬に触れて温かい。
「さて、じゃあ、リズとアスナに日曜日の事を説明するよ」
そうして、日曜日に実際にあった出来事と、事件の概要をかい摘んで話し終えるのに、十分以上の時間を要した。話が進むにつれ、里香と明日奈の顔から、少しずつ血の気が引いていくのが分かった。
「——とまあ、これが、事の経緯かな」
「……アンタって、なんていうか、本当に巻き込まれ体質よね……」
里香がそう言うと、キリトが首を振った。
「いや、そうとも言えないよ。この事件は、俺の昔の因縁も絡んでた訳だからな」
「お前だけじゃねぇけどな。俺と朝田の過去も絡んでた訳だし」
皆月が口を挟む。それに頷いた後、キリトが、そう言えばと皆月に聞いた。
「アルバ、怪我は大丈夫なのか?」
「だから、かすり傷だっつの。大袈裟なんだよ、医者も」
思わず、詩乃は口を挟んだ。
「あのね、十針も縫って、包帯ぐるぐる巻きのその状態を、かすり傷とは世間一般では言わないの」
「そうだぜ。最初にシノンの部屋に着いた時、本当に驚いたんだからな。アルバは血だらけだし、窓ガラスは割れてるし、知らない男は倒れてるし、シノンは泣きながら血だらけのアルバに抱きついてるし、パニックだったよ」
「「……なんか、ごめん」」
詩乃と皆月は、二人してキリトに謝罪した。確かに、さぞ驚いた事だろう。……抱きついていた件を蒸し返されたのは、非常に不本意だったけれど。
仕切り直すように、里香が手を叩いて言った。
「ともあれ、女の子のVRMMOプレイヤーと知り合えて嬉しいな」
「本当だね。色々GGOとかの話を聞きたいな。友達になってくださいね、朝田さん」
そう言って、明日奈が手を差し出した。
——その瞬間、詩乃は、突然すくんでしまった。
差し出された、白い手。友達に、と言ってくれる、優しい声。
でも。
もし今後、あの事件のことが知れたら。この綺麗な人は、きっと自分のことを、嫌悪の色で見るのだろう。過去、そうだったように。「人殺し」という囁きと、遠巻きの視線。あの繰り返しが、また始まるのだろう。
だったら、最初から、この手を取らない方がいい。近づかなければ、失わない。
詩乃が、ごめんなさい、と言おうとした、その時。
明日奈が言った。
「……あのね、朝田さん……詩乃さん。今日、この店に来てもらったのは、もう一つ理由があるの。もしかしたら詩乃さんは不愉快に感じたり……怒ったりするかもしれないけど、私たちは、どうしても、貴方に伝えたい事があるんです」
「え……?……理由?私が、怒る……?」
何一つ、意味がわからなかった。
差し出されていた手は、いつの間にか、静かに下ろされていた。店内の空気が、少しだけ、変わった。エギルが、グラスを磨く手を止めている。
そこで、キリトが、頭を下げながら言った。
「シノン、まず君に謝らなきゃならない。……俺、君の昔の事件の事を、アスナとリズに話した。どうしても、彼女たちの協力が必要だったんだ」
「えっ……!?」
狼狽している詩乃に向けて、明日奈が続ける。
「詩乃さん。実は、私とリズとキリトくんは、昨日の月曜日、学校を休んで、……市に、行ってきたんです」
「————!」
驚愕、などというものではなかった。
それは、詩乃が暮らしていた街の名だった。あの事件のあった土地。二度と、帰りたくない場所。
心臓が、氷の手で掴まれた。
なぜ。どうして。この人たちが、あの街に。私の過去を、掘り返しに——。
詩乃は、立ち上がった。椅子が、床を擦って音を立てる。この場から、逃げようとした。
しかし——それは、隣に座る皆月暁によって、防がれた。
大きな手が、詩乃の手首を、掴んでいた。強くはない。でも、振りほどけない。
詩乃は、皆月の方を見た。
その目に——驚きは、なかった。
まさか……。
「皆月……あなたも、知ってたの……?」
「……ああ。昨日、桐ヶ谷から連絡を貰ってな。お前の過去を話すことを許可したのも、俺だ」
「……なんで、なんで、そんな……」
裏切られた、と思った。ほんの一瞬、確かにそう思った。この人だけは、私の過去を、私のペースで扱わせてくれると思っていたのに。
その問いに、皆月は目を伏せた。
「……なんでだろうな。前の俺なら、桐ヶ谷にキレてただろうな。趣味の悪ぃ真似すんな、ってな」
そして、目を開け、詩乃を真っ直ぐ見た。
「でも…桐ヶ谷の話を聞いて、思った。確かに、それは必要なことだと思った」
「なにが……」
「朝田。お前は、会うべきだ。そして、知るべきだ。あの日、引き金を引いたことによって起きた……もう一つの、事実を」
「会うべき……?知るべき……?……事実?」
言葉の意味が、像を結ばない。
そこで、里香が立ち上がり、店の奥のドアを、静かに開けた。
そこから、一人の女性が現れた。
三十代くらいの、主婦といった風貌の女性。冬物のコートを腕に掛け、緊張した面持ちで、両手を体の前で握り合わせている。そして、その後ろから——小さな女の子が、走り出てきた。顔立ちが、女性とかなり似ている。きっと、親子だろう。
女性は詩乃を見ると、泣き笑いのような表情を作り、深く頭を下げた。隣の女の子も、母を見上げてから、ぺこりと真似をする。
詩乃は、掴まれた手首の力が緩んだことにも気づかないまま、崩れるように、椅子に座り直した。
女性が詩乃の正面に座り、その横に、女の子が座る。
間近で見ても、やはり、見覚えがない。……いや。記憶の奥深く、どこかで……。
やがて、女性が、かすかに震えた声で名乗った。
「はじめまして。朝田……詩乃さん、ですね?私は、大澤祥恵と申します。この子は瑞恵、四歳です」
名前を聞いても、やはり、覚えがなかった。
「私が東京に越してきたのは、この子が産まれてからです。それまでは、……市で働いていました。職場は……………町三丁目郵便局です」
「あ……」
それは、あの郵便局。
蛍光灯の白い光。カウンター。母の手。男の怒鳴り声。黒い銃。硝煙の匂い。
そうだ。彼女は、あの事件の日、あの場に居合わせた、職員の一人だ。思い出せなかったが、確かにそうだ。
だが——分からない。彼女が何故、私が「会うべき人」なのか。謝罪を、されるのか。それとも……責められるのか。あの日の光景を、目の前で見ていた人に。
体が、勝手に硬くなった。
「……ごめんなさい。ごめんなさいね、詩乃さん」
不意に、祥恵が目尻に涙を滲ませて言った。
「本当に、ごめんなさい。私……もっと早く、あなたにお会いしなきゃいけなかったのに……あの事件のこと、忘れたくて……夫が転勤になったのをいいことに、そのまま東京に出てきてしまって……。あなたが、ずっと苦しんでらしてるなんて、少し想像すれば解ったことなのに……謝罪も……お礼すら、言わずに……」
——お礼?
その言葉が、詩乃の理解の外側を、滑っていった。
彼女の目から、涙が流れる。心配そうに見上げている瑞恵の頭を、そっと撫でながら、祥恵は続けた。
「……あの事件の時、私、お腹に、この子がいたんです」
「————」
「だから、詩乃さん。あなたは、私だけでなく……この子の命も、救ってくれたの。本当に……本当に、ありがとう。ありがとう……」
「…………命を…………救った?」
その言葉は、詩乃の中の、どこにも収まる場所がなかった。
四年間、詩乃の中にはたった一行の文しかなかった。朝田詩乃は、人の命を奪った人間である——。その一行を、消そうとして、消えなくて、隠そうとして、暴かれて、ずっと、ずっと、その一行と戦ってきた。
救った、なんて。
そんな、そんなこと――。
「——朝田」
皆月が、力強く言った。
彼の方を向くと、彼は、力強く私を見ていた。何かを、伝えるように。逸らすことを、許さないように。
「あの日、お前は引き金を引き、一つの命を奪った。それは、変えようのない事実で、お前が背負うべきものだと、俺は思う」
その言葉は、優しくなかった。慰めでも、免罪でもなかった。でも、だからこそ——嘘が、なかった。
すうっと、彼は一度息を呑み、そして、続けた。
「でも……。でもな、朝田。それだけじゃないんだ。その引き金を引いたことで、お前は、自分自身の、母親の、彼女たちの命を救った。それもまた、変えようのない、お前が抱えるべき事実なんだ。お前が、知っておくべき事なんだ」
奪った事実と、救った事実。
その二つを、同じ重さで、両手に載せろと、彼は言っている。片方だけを見て絶望するのでも、片方だけを見て楽になるのでもなく。両方を抱えて、立て、と。
多くを奪い、それでも誰かに救われ、誰かを救って、生きてきた彼だから——言える言葉だった。
皆月が、優しく微笑んだ。
今まで見たことのない様な、優しい表情だった。
「その事実で、きっとお前は——前に進めると、思うから」
皆月は言い終わると、ちらりと、母娘の方に視線を向けた。
つられてそちらを向くと——女の子……瑞恵が、椅子から降りて、こちらに向かって、歩いてくるところだった。
小さな靴が、床を踏む音。店の中の誰もが、息を止めて、その足音を聞いていた。
やがて、詩乃の前まで来ると、瑞恵は、肩にかけたポシェットから、一枚の画用紙を取り出し、詩乃に差し出してきた。
それは——家族の絵、だった。
クレヨンで描かれた、三人の人。恐らく、祥恵と、瑞恵と、父親。手を繋いで、みんな笑っている。画用紙の隅には、大きな太陽。そして、その上に——たどたどしい平仮名で、こう書いてあった。
しのおねえさんへ。
その絵を、詩乃は、恐る恐る受け取った。
紙の端が、自分の指の震えで、小さく揺れた。
ニコリと、瑞恵が笑って、言った。
「しのおねえさん、ママとみずえを、たすけてくれて、ありがとう」
——視界が、虹色の光に満たされた。
自分が泣いていることに気付くのに、時間がかかった。
だって、知らなかったから。
涙とは、冷たくて、苦くて、独りで流すものだと、ずっとそう思っていたから。こんなにも、清らかで、優しい涙が、この世界にあることを——詩乃は、知らなかったから。
小さな瑞恵の手が、詩乃の手を、握った。
四歳の、柔らかくて、小さな手。あの日、詩乃が引き金を引かなければ、この世界のどこにも存在しなかった、温かい手。
誰も、何も言わなかった。エギルも、明日奈も、里香も、キリトも。そして、隣の皆月も。ただ、温かい沈黙だけが、小さな店を満たしていた。
過去の全てを受け入れられるようになるには、長い長い時間がかかるだろう。
生きることは苦しく、伸びる道は険しい。
それでも——歩んでいこうと思えた。
繋がれた右手も、頬を流れるこの涙も、こんなにも、温かいのだから。