帰還者と狙撃手   作:きょうりゅう

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夜明け

 

その後は、大澤母娘と話をした。

今までの話や、当たり障りのない世間話まで、色々。瑞恵ちゃんの幼稚園の話。好きな絵本の話。詩乃の学校の話。こんなに穏やかな時間が待っているなんて、数日前の詩乃には、想像もできなかっただろう。

そして、お開きとなり、大澤母娘を見送る為に共に外に出た。

十二月の夜気が、店の暖かさに慣れた頬をちくりと刺す。吐く息が白い。詩乃と、和人と明日奈、里香で見送る。皆月は、誰かと電話をしているため、まだ店内に残っている。窓ガラス越し、蜂蜜色の灯りの中で、彼が眉間に皺を寄せて何か言い合っているのが見えた。

 

「あの……今日は、本当にありがとうございました」

 

詩乃が頭を下げると、祥恵は、ゆっくり首を振った。

 

「いえ。私も、あなたに会うことができて、本当によかった」

 

祥恵はそう言ったあと、ふと、店内に視線を向けた。

 

「彼は、あなたの恋人?」

 

「え……」

 

視線の先には、皆月がいた。詩乃は慌てて首を振り、否定する。

 

「い、いえ」

 

「あら……、そうなの?」

 

祥恵は、少し意外そうに瞬きをした後、微笑みながら言った。

 

「でも……彼はきっと、あなたのことを、とても大切に思っていると思いますよ」

 

「え?」

 

「私、本当は、彼女たちが訪ねてきた時、迷っていたんです。私なんかが、今更あなたに会って、何ができるのかって」

 

その言葉の後、祥恵は和人に視線を向けた。

 

「でも、そちらの彼が、電話を繋いでくれたんです。彼に」

 

「アルバに頼まれてたんだ。一言、伝えたいからって」

 

和人が、少し照れくさそうに補足する。

 

「そう、なんだ」

 

少し、意外だった。

いつの間に、そんな電話を。彼はあの夜からずっと、病院と事情聴取の往復だったはずだ。十針縫った腕で、警察に囲まれた合間に、彼は——。

 

「その時、言われたんです」

 

祥恵は、その言葉を、一つ一つ、大切な物を取り出すように口にした。

 

「『どうか彼女に、たった一人で戦い続けて来たアイツに……ほんの少しでいい。前に進むための勇気を、与えてあげて下さい』って」

 

「———」

 

「その言葉のおかげで、私は今日、ここに来ることができたんです」

 

祥恵の目が、また少し潤んだ。その足元で、瑞恵が、白い息をはーっと吐いて遊んでいる。

やがて、エギルの呼んだタクシーが着いた。乗り込む直前、瑞恵が振り返って、小さな手を大きく振った。

 

「しのおねえさん、ばいばーい!」

 

「うん。……ばいばい、瑞恵ちゃん」

 

手を振り返す。赤いテールランプが、御徒町の裏通りの角を曲がって、見えなくなった。

胸に抱えた画用紙の絵が、コートの上からでも、温かい気がした。

 

 

 

 

 

 

大澤母娘を見送った後、明日奈達と、また会う約束をして、別れた。

 

「詩乃さん、絶対また会おうね!連絡先、ちゃんと登録したからね!」

 

明日奈のぐいぐいくる感じにはまだ少し戸惑うけれど——嫌では、なかった。差し出された手を、今度は、ちゃんと握り返せた。

店内にまだ残っている皆月の方を見ると、まだ電話中だった。随分、長い。立川さんだろうか。

ガラス越しに、街灯の下で詩乃はふと、彼のことを考えた。

私は、あまりにも多くのものを彼に貰った。

前に進むための勇気も。心地よい安らぎも。誰かを愛する、この気持ちも。今日のこの場所も、大澤さんとの再会も——辿っていけば全部、彼の手が、先回りして届いていた。

でも……私は?

彼に少しでも、何かを与えることができただろうか?

あの洞窟で、彼は言っていた。

 

『多くの仲間を失って、多くの命を奪い続けた。そして、ただ一人、生き残ってしまった。そんな俺に生きる意味が、生きる資格があるのかって、ずっと思ってる』

 

生きる意味。生きる資格。

彼の探すそれは、きっと、詩乃には想像もつかない深さにある。あの過去を聞いた今なら、その深さの片鱗だけは、分かる。分かるからこそ——そんな私に、何が……。

そこで、皆月が店主のエギルに礼をして、電話を繋いだ状態のまま出てきた。

 

「わーったよ!朝田に直接聞けよ!絶対断ると思うけどな!」

 

なにか言い合っている。多分、ていうか絶対、立川さんだ。

詩乃の前まで来て、電話を差し出してくる。

 

「立川がふざけたこと言ってやがんだよマジで。断ってくれ」

 

「な、なに?」

 

「いいから」

 

有無を言わさず差し出してくる電話を、受け取る。

 

「は、はい」

 

『あ、久しぶり、詩乃ちゃん。立川だ』

 

耳に届いた声は、記憶の中と同じ、低くて、温かい声だった。

 

「お久しぶりです」

 

『今回は大変だったね。大丈夫か?』

 

「ええと、はい。皆月にも、助けてもらったので……」

 

『らしいな。アイツが急にすごい顔で走って行った時は驚いたけど、キミを助けるためなら納得だ』

 

「……そんなに、すごい顔だったんですか?」

 

『ああ。血相変えてね。よほど、キミが心配だったんだろうね。……本当に、嬉しい限りだ。詩乃ちゃん、キミと関わってからのアイツは、本当に人間らしくなった。キミのおかげだ。ありがとう』

 

「……いえ、そんな。私ばかりが貰ってばかりで、何も返せてないんです」

 

さっき考えていたことが、そのまま口をついて出た。

 

『そんなことはないさ。日本に来た頃の暁と比べたら、天と地の差だよ』

 

「そう、でしょうか」

 

『そうさ。……ただ、アイツはまだ縛られてるんだよ、過去に』

 

「え?」

 

『サバイバーズ・ギルトって知ってるかい?アイツは、ただ一人生き残ってしまったことに、負い目を感じてる。生きるという呪いに、縛られている』

 

——呪い。

その言葉の、恐ろしいほどの正確さに、胸が軋んだ。

彼を生かしているのは、亡くなった人たちの、祈りにも似た願いだ。それが彼を今日まで歩かせて——同時に、彼を、縛っている。生きることが、義務であり続けている。

 

「……それは、知ってます」

 

『前に進むべきだとも、自分で分かっているんだ。それでも……まだ、アイツは探してる。生きる意味ってヤツを。……そんなもの、必要ないのにな』

 

「そう、ですね」

 

『でも……キミなら』

 

「え?」

 

『キミなら、アイツの呪いを、解けるかもしれない。暁の事を大切に思っていてくれている、キミなら』

 

「……」

 

何も、言えなかった。

でも、スマホを握る手に、自然と力が籠もった。

バトンを、渡された。そんな気がした。

 

『と、すまない。長々と。さて、本題なんだが……詩乃ちゃん、今日泊まるところはあるのかい?』

 

「あ……」

 

すっかり忘れていた。部屋があの状態では、とても寝られない。割れた窓。応急のベニヤ板。床の血痕。ホテルは?いや、高いし……。

 

『まあ、おそらく菊岡に言えばホテルの一室ぐらいは用意してくれるだろうが……。もし、キミが良ければなんだが……』

 

立川さんの提案は、途中から、詩乃の心臓を騒がせるものになった。

それでも、私は。

その話を二つ返事で受けた。

 

 

 

 

 

長い。

断れ、と言って電話を渡したのに、何をそんなに話すことがあるのか。街灯の下、白い息を吐きながら待つ間、何となくだが、立川が余計な話をしている気がしてならなかった。あのオッサンの「余計な話」は、大抵、後で効いてくるから性質が悪い。

と、電話を切った朝田が、戻ってきた。

その表情が——なんか、妙に落ち着いている。

嫌な予感がした。

 

「長かったな。何を話してたんだよ?」

 

「ちょっと、ね」

 

「ふぅん?で、断ったんだよな?」

 

立川の話というのは、朝田を家——俺のアパートの部屋も修理が入るので、立川のマンションだが——にしばらく泊めたらどうか、というものだ。朝田の部屋はあの状態なので、寝泊まりできないだろうから、と。それに、犯人の一人もまだ捕まっていないから、俺がいれば安全だろう、とのこと。

理屈は通っている。通っているが、問題はそこじゃない。

 

「?どうして?」

 

「いや、どうしてって……」

 

「いいから、行こ?東上野だっけ?案内してよね」

 

「は?泊まんの?」

 

「うん」

 

こともなげに、頷きやがった。

 

「いやいやいやいやいやいや」

 

「なによ?」

 

「……お前、正気か?同年代の男がいる部屋に泊まるとか」

 

「失礼ね。……何かするつもりなの?」

 

まっすぐな目で、聞き返された。

 

「……いや、しねぇけど」

 

「なら、いいじゃない。しばらくお世話になるわ」

 

「……えぇ」

 

完敗だった。

理屈では、こいつに勝てない。この三ヶ月で学んだことの一つだ。朝田詩乃は、一度こうと決めたら、テコでも動かない。狙撃手の集中力を、こういう場面でも発揮するのは、本当にやめてほしい。

 

「あ、立川さんから伝言だけど、しばらく仕事でアメリカに行くから帰らないって言ってたわよ」

 

「はあ?!」

 

——仕組まれてる。

絶対、仕組まれてやがる。あのオッサン、電話の向こうで、今ごろ腹を抱えて笑ってやがるに違いない。

 

 

 

 

 

 

一度アパートに寄って、朝田の着替えやら教科書やらを取りに行った。

彼女が自室で荷物をまとめる間、俺は玄関先で待った。ベニヤ板の張られた窓。まだ片付けきれていない部屋の空気。……あの部屋に、彼女を一人で長居させたくなかった。理由は、深く考えなかった。

そして、マンションへと来た、二人。

 

「お邪魔します」

 

「………」

 

部屋に入っていく朝田。

俺はその背中を見ながら、立川に抗議の電話とメッセージを送ったが、全て無視されている。既読だけが、憎たらしくつく。絶対ぶん殴る。

色々諦めて、朝田に説明する。

 

「風呂はあっち。トイレはそこ。キッチンは自由に使ってどうぞ。寝るとこは……立川の仕事部屋に布団敷くわ」

 

「いいの?」

 

「どうせ仕事部屋といっても、机とノートPCしかねぇし。アイツ、あんま物置かねぇから」

 

「……あんたは、何処で寝るの?」

 

「立川のベッドで寝る」

 

「……そう。じゃあ、そうさせて貰うわね。……それにしても、広いわね」

 

朝田が、リビングを見回しながら言った。

 

「ま、アイツそこそこ金持ってるからな。……つーか、腹減ったな。なんか買ってくるか」

 

「あ、私も行く。……このあたり、スーパーはあるの?」

 

「スーパー?コンビニで適当に買えば良いだろ」

 

「……あんたって、自炊するの?」

 

「したことねぇけど?」

 

朝田が、心底呆れた、という顔をした。

 

「……今日は、私が作る」

 

「は?」

 

 

 

 

 

 

あの後、有無を言わさずスーパーに連れて行かれ、荷物持ちをさせられた。

夜のスーパーというのは、初めて来た。白い蛍光灯。整然と並んだ棚。夕食どきを過ぎて、少しまばらな客。朝田は慣れた足取りで棚の間を進み、鶏肉のパックを手に取り、卵の値段を見比べ、玉ねぎを選び、出汁の素をカゴに放り込んでいく。

俺はその横で、カゴを持って突っ立っていた。

 

(……平和、だな)

 

戦場には、こんな時間はなかった。誰かと並んで、今夜の飯の材料を選ぶ。ただそれだけのことが、懐かしく感じた。

カゴの重さが、妙に、心地よかった。

そして、マンションに戻ると、あれよあれよという間に朝田はキッチンに入り、料理を始めた。簡単なものを、ということで、出てきたのは——親子丼だった。

出汁と醤油の匂いが、部屋に満ちる。その匂いだけで、腹の底が、勝手に緩んだ。

一口、食う。

柔らかい卵。味の染みた玉ねぎ。ほどよく火の通った鶏肉と、米。

……美味い。

素直に、美味かった。

 

「……ごちそうさまでした」

 

気がつけば、綺麗に食い終わっていた。

 

「お粗末様でした。……どうだった?」

 

「ああ。美味しかったよ。ありがとう」

 

ふと、空になった食器と、向かいの朝田を見て、思う。

 

「……誰かの作った食事なんて、いつぶりだろうな」

 

口に出してから、気付いた。

最後に「誰かが、俺のために作った飯」を食ったのは——六年以上前だ。母さんの、あの国の家の、狭い台所。メニューは、もう思い出せない。それ以来、飯というのは、配給されるものか、携行するものか、買うものだった。立川と食う飯も、大抵は出前かインスタントだ。

温かい。飯というのは、こんなに温かいものだったか。

 

「……いつでも、作ってあげるわよ?」

 

朝田の声は、軽かった。

軽かったが——その言葉は、胸の妙なところに、すとん、と落ちた。

 

「それは悪いって」

 

照れ隠しに、俺は皿を重ねて立ち上がった。

 

「……皿洗い、俺がやっとくから、先シャワーどうぞ。ついでに布団も敷いとくから」

 

「いいの?」

 

「ああ。タオルは適当に使ってくれ。ドライヤーも洗面台にあるから」

 

「そ。じゃあ、借りるわね」

 

着替えを持って脱衣所に入る朝田を見送って、俺は、大きく息をついた。

 

「……色々、心臓に悪いな」

 

皿を洗い、立川の仕事部屋に布団を敷いておく。リビングに戻ったところで、立川からメッセージがあった。一言だけ。

 

『ガンバレ』

 

俺も、一言返しておく。

 

『ファック』

 

——そこで、リビングの扉が、開く音がした。

 

「お風呂、ありがと」

 

振り向いて——俺は、固まった。

そこにいたのは、当然だが、湯上がりの朝田だった。当然だ。この部屋には俺と朝田しかいないのだから、風呂から上がってくるのは朝田に決まっている。分かっていた。分かっていた、はずなのに。

いつも左右で結んでいる髪が——下ろされていた。

毛先が、まだ少し湿っている。部屋の灯りを吸って、艶を帯びた黒髪が、首筋に一筋、張り付いている。薄手の部屋着。眼鏡もない、素の顔。頬が、湯の熱で、薄く上気して——

心臓が、跳ねた。

一回じゃない。二回、三回。連続で。まるで、警報だった。

 

(……おい。落ち着け。落ち着けって)

 

俺は、戦場で、迫撃砲の着弾音で目を覚ましても心拍数ひとつ乱さなかった男だ。銃口を向けられても、ナイフの間合いに踏み込まれても、脈は測ったように一定だった。そういう体に、作り上げてきたはずだった。

その心臓が、今。

風呂上がりの同級生、たった一人を前に、完全に、制御を失っている。

しかも、性質の悪いことに——俺の目は、戦場仕込みの観察を、勝手に始めやがる。訓練された知覚というのは、意思と無関係に細部を拾う。首筋を伝う水滴の軌跡。部屋着の襟元から覗く鎖骨の線。無防備な素足が、フローリングを踏む音。

 

(やめろ。観察するな。全部、頭に入ってくるんじゃねぇ)

 

「…………」

 

「?皆月?」

 

「あ、ああ」

 

「どうしたの?なんか変よ?」

 

朝田が、近付いてくる。

ふわり、と——シャンプーの匂いがした。

この家の風呂にあるのは俺が使ってるのと同じやつのはずなのに、なぜか、まったく別の匂いに感じる。甘い。温かい。思考の芯を、直接溶かしてくる類の。

——これは、ヤバい。

俺の中の警報が、最大音量で鳴った。撤退。即時撤退。全戦線において、戦術的撤退を進言する。

俺は、即座に距離を取った。

怪訝な顔をする朝田。

 

「どうしたのよ?」

 

「あー……。うん。とりあえず、俺はもう寝る。布団は部屋に敷いてるから、お前も早く寝ろよ。明日も学校だし」

 

「……本当に、なんか変よ?」

 

「気にすんな、本当。んじゃ、おやすみ」

 

そう言って、俺は寝室に逃げ込んだ。

——敵前逃亡。

六年間の戦場で、ただの一度もしなかったことを、俺は今、東上野のマンションのリビングでやった。

扉を背に、ふー、と大きく息を吐く。心臓は、まだうるさかった。

 

「……何やってんだ、俺」

 

ベッドに倒れ込み、天井を睨む。

壁一枚向こうに、あいつがいる。ただそれだけの事実が、いつまでも、眠りの邪魔をした。

 

 

 

 

 

 

目が覚めると、午前六時前。早く起きすぎた。

いや——正直に言えば、あまり深くは眠れなかった。

部屋を出て、足音を殺してリビングを抜け、ベランダに出る。何となく、この時間は、いつもここにいる。

十二月の朝の空気が、寝起きの頬を刺した。吐く息が白い。眼下の東上野の街は、まだ半分、眠っている。等間隔の街灯。始発前の静けさ。遠くで、新聞配達のバイクの音だけが、細く聞こえる。

空は——夜と朝の、狭間の色をしていた。

東の端だけが、群青から藍へ、藍から薄い茜へと、ゆっくり滲み始めている。まだ、日は昇らない。でも、世界はもう、明るくなり始めている。

——暁。

俺の名前の、時間だ。

 

「皆月?」

 

声をかけられた。

振り向くと、朝田がいた。パーカーを羽織って、まだ少し眠そうな目で、サッシの縁に立っている。

 

「悪い、起こしたか」

 

「ううん。おはよう」

 

「……おはよう」

 

そこで、くすっと朝田が笑った。

 

「なんだよ?」

 

「なんか、変な感じ。起きてすぐ、皆月とこうして一緒にいるの」

 

「……確かにな」

 

「まあでも、しばらくはお世話になるからね。立川さんにも、暁を頼む、って言われてるし」

 

「あのやろ……」

 

くすくすと、朝田が笑う。白い息が、笑い声と一緒にこぼれて、朝の空気に溶けていく。その笑顔に照れくさくなって、俺は視線を外に向けた。

朝田も、俺の隣に並んだ。ベランダの手すりに、二人分の腕が乗る。距離は、拳二つ分。

 

「……いい眺めね」

 

「……んー」

 

「ね、皆月。今回のことは、本当にありがとう」

 

「何が?」

 

「GGOでも、現実でも、助けてもらった」

 

「あー……。まあ、どういたしまして、でいいのか?」

 

「うん。それに、大澤さんにも会わせてくれたし」

 

「それに関しては俺なんもしてねぇよ。桐ヶ谷達に礼言っとけ」

 

「でも、電話で話してくれたんだよね?」

 

「……聞いたのかよ」

 

途端に、照れくさくなった。電話のことも喋ったのか、大澤さん。

 

「うん。本当に……嬉しかった」

 

「……そりゃ、どうも」

 

しばらくの、沈黙。

気まずい沈黙じゃなかった。この三ヶ月で、俺たちは、こういう沈黙の共有の仕方を覚えた。非常階段で。GGOの狩場で。言葉のない時間を、隣で過ごせる相手というのは——たぶん、そう多くない。

東の茜が、少しずつ、空の面積を広げていく。

ふと、朝田が、口を開いた。

 

「ねえ、皆月」

 

「ん?」

 

「あなたはまだ……生きる意味を、見つけられない?」

 

「―――」

 

朝田の方を見る。

こちらを、真っ直ぐ、見ていた。

湯上がりの無防備さでも、教室の澄まし顔でもない。スコープを覗く時と同じ、揺れない目。ごまかしを、許さない目だった。

 

「……ま、そうだな」

 

俺は、正直に答えた。こいつ相手に、嘘をつく気は、もうなかった。

 

「お前に偉そうなこと色々言っておいて、俺はまだ、分かんねぇんだよ。なんで俺は、生きてるのか」

 

言葉にすると、あっけないほど、簡単な問いだった。母さんの遺言を守るために生き延びて、ルカの分まで生きると誓って、立川に「生きるべき人間だ」と言われて——それでも、まだ、胸の底に燻り続けている問い。

 

「……」

 

朝田は、何も言わなかった。ただ、話す俺の顔を、じっと見ていた。

そして、目を伏せ——やがて、何かを決意したように、目を開けた。

すう、と、深く息を吸う音が聞こえた。

狙撃の前の、あの呼吸に似ていた。

 

「皆月、約束、覚えてる?」

 

「約束?……ああ、俺を倒せたら、ってやつか」

 

「そう、それ」

 

「ああ。いいぜ、結果的にお前に倒されたからな。何でも聞いてやるよ」

 

プラズマグレネードの光を思い出して、俺は少し笑った。とんでもねぇ倒され方だったが、負けは負けだ。

 

「ううん。結局、あなたを撃ち抜けなかったから。お願いは、いいの」

 

「あ?そうか?」

 

「うん。代わりに……ひとつ、わがままを聞いてくれる?」

 

「……わがまま?」

 

「ええ」

 

朝田は、手すりから手を離し、体ごと、俺の方を向いた。

 

「自分には生きる意味がないって、あなたは言ったわよね?」

 

「……ああ」

 

「私にはあなたの気持ちがわかる、なんて言わない。言えるはずもない。だって、私も思っていたから。あなたに私の何がわかるの?って」

 

互いの過去に、不可侵の線を引いていた頃の話。

 

「だから……私の気持ちだけ、言う」

 

朝田の声は、震えていなかった。

 

「私はあなたに、生きていて欲しいと思っている。生きる意味とか、そんなの、どうでもいい」

 

「……めちゃくちゃだな」

 

思わず、口の端が緩んだ。意味を探して何年もぐるぐるしている男に向かって、意味なんかどうでもいい、と来た。

 

「そうね。だから、これはわがままなの」

 

彼女は、笑った。

 

「あなたと出会い。たったの三ヶ月だけど、共に過ごして。ゲームの中だけど、相棒として戦って。あなたに命を、心を救われて。そして……」

 

彼女が、手を伸ばした。

冷たい指先が、俺の頬に、触れた。十二月の朝に冷えた、細い指。なのに、触れられた場所から、熱が広がった。

 

「そして——あなたに恋をした、一人の女の子の、ただのわがまま」

 

時が、止まった。

止まったように、彼女から、目が離せなかった。

夜明け前の光の中で、彼女の目は、まっすぐに、俺を射抜いていた。

 

「私はあなたと一緒に、この先の未来を生きたい。あなたの隣に、私はいたい。だから———私と一緒に、生きて下さい」

 

「————」

 

——一緒に、生きて下さい。

その言葉が、胸の真ん中に、着弾した。

……ああ。

撃ち抜かれたのは——今、か。

 

『いつか、あなたを撃ち抜く』。三ヶ月前の、あの宣言。あいつは本当に、撃ち抜きやがった。ヘカートの五〇口径なんかより、ずっと深く、正確に。心臓の、ど真ん中を。

母さんは言った。生き延びて、と。

ルカは言った。俺の分まで生きろ、と。

あれは——過去からの、願いだった。死んでいく者が、生き残る者に託した、祈りで、そして、呪いだった。俺はそれを、返しきれない借金みたいに抱えて、歩いてきた。生きることは、ずっと、義務だった。

でも、朝田の言葉は、違う。

一緒に、と言った。

未来の話を、した。

死者のためじゃない。過去のためじゃない。この先を、隣で、二人で——。

それは、死に行く者の祈りではなく、未来を歩く道標。

世界が、鮮やかになった気がした。

冷たい空気が、肺の中で甘い。東の空の茜が、さっきまでの倍、色鮮やかに見える。頬に添えられた彼女の手の温もりが、指の一本一本の輪郭まで、はっきりと感じられる。

嗚呼——こんなにも、単純なことだったとは。

 

「……はは」

 

笑いが、漏れた。

きっと……意味なんて、最初から、必要なかったのだ。

何年探しても、見つからなかったはずだ。そんなもの、どこにも落ちていなかったのだから。必要だったのは、意味じゃない。朝が来るのが楽しみになる誰かが、隣にいること。ただ、それだけで——人は、生きていけるのだ。

 

「……スゲェな、朝田は」

 

「あら、やっと気付いたの?」

 

「ああ、本当に、ようやくな」

 

視界が、滲んだ。

涙が、頬を流れていた。

涙など、とうに枯れたと思っていた。ルカが死んだあの日、忘れかけていた泣き方を一度だけ思い出して、それきりだった。

でも、この涙は、あの日のものとは、違う。

温かい。

 

「多分だけど、クソめんどくせぇぞ、俺」

 

涙を拭いもせず、俺は言った。

 

「ええ、知ってる」

 

「常識とか、まだあんまよくわかんねぇし」

 

「そうね、びっくりするぐらいね」

 

「……口悪いし、目つきも悪いし」

 

「ほんと、最初は怖かったわよ?」

 

「恋愛とか、よくわかんねぇし」

 

「私も、初恋だもの。お互い様よ」

 

「そんなやつでも、いいのかよ?」

 

「そんなあなただから、いいのよ」

 

ああ、こいつは、本当に。

——敵わない。

バギーの後部座席で、心臓が跳ねた理由。あの笑顔を、綺麗だと思った理由。名前も付けられないまま、ずっと胸の底に沈めてきた、あの感覚。

全部、これだったのか。

好き、という、たった二文字のことだったのか。

 

「……朝田」

 

「なに?」

 

「……生きるよ、俺。お前と一緒に、生きる」

 

彼女が、ふわりと笑った。

 

「うん」

 

——その時。

朝日が、昇った。

東上野のビル群の稜線を、金色の光が、越えてきた。夜が明ける。群青が藍に、藍が茜に、茜が金色に——空が、東の端から順に、染め上げられていく。

暁の色に。

俺の名前の色に、世界が、染まっていく。

光が、街を走った。眠っていた窓ガラスが一枚ずつ目を覚まし、朝の光を跳ね返す。ベランダの手すりが、白い息が、彼女の髪の輪郭が、金色に縁取られていく。

 

「……綺麗ね」

 

「……ああ、本当に」

 

朝の光に照らされた横顔のまま、彼女が言った。

 

「ねえ、皆月。あなたの名前、私は大好きよ」

 

「なんで?」

 

「だって、朝が来るたびに、あなたを感じられるもの。それって、とても素敵なことでしょ?」

 

「———」

 

心臓に、もう一発。

そう言って笑う彼女の横顔を、綺麗だと思ってしまった時点で——俺の、完敗だろう。

生きること。生き続けようとすること。それは、苦しいことの方が、多いかもしれない。背負った罪に、押し潰されそうになることも、あるかもしれない。夢の中で、あの戦場に戻る夜も、きっとまだ、何度も来る。

それでも——歩いていこうと、思えた。

なぜなら、この夜明けの空が。世界を白く染めていく太陽が。それに照らされた、彼女の横顔が。

こんなにも———美しいと、思えたから。

朝の光の中で、隣の彼女が、もう一度、小さく笑った。

 

夜が——明けた。

 




次回のエピローグでGGO編完結です。
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