十二月某日、未明。
港区、とある埠頭の空き倉庫。
夜の海は、黒かった。積み上げられたコンテナの影が、水銀灯の白い光を切り取り、地面に幾何学模様を落としている。潮と、錆と、重油の匂い。遠くで貨物船の汽笛が一度だけ低く鳴って、消えた。
男は、端末の前に座り、モニターを見ていた。
(警備が厳重になったな。キョウが吹き込んだか?)
あの仮想の荒野で出会った、昔馴染みを思い出す。奴は、俺が何の目的でこの国に来たのか、大体気づいていた。だからこそ、あの菊岡誠二郎という男の名を、俺に出したのだろう。
(まあいい。あらかた、依頼されていた情報は取れた)
席を立ち、荷物をまとめる。荷物は、少ない。傭兵の荷物は、いつでも両手で持てる分だけと決めている。寝床の傍らのアミュスフィアを一瞥する。数週間、世話になった機械。コレも、もう必要ない。
倉庫を出て、ガソリンをまき、火をつけた。
橙色の光が内側から窓を染め、夜の埠頭に男の影を長く伸ばす。男は振り返らなかった。燃えていく寝床に、感傷はない。
痕跡は遺さない。それが流儀だ。
すぐに、消防や警察が駆けつけるだろう。今日中には日本を出るつもりだ。手元のUSBメモリを見る。親指ほどの、小さな器物。だが、この中身は——
(人工フラクトライト。ボトムアップ型人工知能。ライトキューブ……。成程、確かに、コレが完成されれば、世界の勢力図が一気に塗り替わる可能性がある。NSAがこの情報を欲しがるのも、納得だ)
人間の魂の複製。ゼロから育成される、本物の知性。それが実用化されれば——兵士は死ななくなる。正確には、死んでも構わない兵士が、無限に量産できるようになる。
といっても、これらを手に入れるのに、それなりの苦労はした。アメリカに繋がる内通者と秘密裏に接触できなければ、この情報は手に入らなかった。どんな要塞にも、蟻の一穴はある。あの組織の中にも、だ。
海を、見る。
黒い水平線の、その遥か向こうにあるという施設。といっても、見たことはないが。
(俺がこの情報を流したところで、本気で奪取に動くのか。その方法や、日本政府への根回しも必要だろう。……半年以上、といったところかな?)
といっても、再び俺に依頼が来る保証はないが。来たところで、受けるかどうかは、報酬次第だ。
それに——ヘッドハンティングの件も、ある。
(グロージェン・ディフェンス・システムズ。報酬も、仕事内容も悪くはない。あの男——ガブリエル・ミラーといったか。あの男の目は、気に入った。イカれた男の目だ。フリーの傭兵も、ここまでかな)
水平線が、色を変え始めていた。
黒から、群青へ。群青の端に、細い茜。
——夜明けだ。
そして、思い出す。夜明けの名を持つ、あの少年を。イカれた戦場を生き抜いた、彼を。
惜しい、と思う。あの少年は、各国の特殊部隊員と同等、いや、それ以上の戦闘力を持つ。イカれた戦場が作り出した、怪物。この世界に来れば、引く手数多の才能だろうに。
だが——あの仮想の荒野で対峙した少年は、俺の知る《キョウ》とは、少し違っていた。
生き残るために全てを切り捨てる子どもだった彼が、誰かを守るために、自分ごと爆風に身を晒した。守るもののある兵士は、脆くなる。それが戦場の定石だ。だが、あの夜の彼は——脆くなるどころか、俺の知るどの《キョウ》よりも、強かった。
「本当に惜しいよ、キョウ」
思わず、呟かずにはいられない。それ程までに、惜しい才能。だが、ヤツ自身が選ばなかったのなら仕方のないこと。
だが——予感はする。
再び、あの血に飢えた狼のようだった少年と相見える予感が。それも、そう遠くない未来に。
昇り始めた朝日に背を向けて、男は笑みを浮かべた。
燃える倉庫を背に、リカルドは、目を覚まし始めた街の人混みに消えていった。
◇
「……で?どういうつもりだ、立川?」
『どういうつもりも何も、ただの親切心だよ』
夜明けから、約一時間。
あんなやり取りをしたとはいえ、普通に今日も学校なので、朝田の手作りの朝食を食べ、登校の準備をした。卵焼きと、味噌汁と、白い飯。たったそれだけの朝飯が、妙に胸に染みたことは、本人には言っていない。
俺の方が一足先に準備できた為、エレベーターを降り、玄関エントランスを出て、立川に電話をかけた。それで、現在のこのやり取りだ。
朝の東上野は、もう動き出していた。出勤のスーツ姿。犬の散歩。パン屋のシャッターの上がる音。昨日までと同じ街のはずなのに——何もかもが少しだけ色鮮やかに見えるのは、気のせいだと思いたい。
「いやいや、急に仕事で家を空けるだとか、どういう偶然?」
『それは本当だ。野暮用でね。しばらく日本には帰らないだろう』
「……ふぅん?まあ、信用しといてやるよ」
『ああ。そうしてくれ。……ところで、だ』
「あん?」
『どうだった?』
面白そうな、立川の声。
「………」
コノヤロウ、と思いつつ——俺は一つ、深く息をついた。
ごまかす言葉なら、いくらでもあった。だが、この男にだけはごまかしたくなかった。死んだ目をしていた俺を、ここまで連れてきてくれた男にだけは。
「……俺は一生、アイツに敵わねぇよ」
『……ハッハッハッ!そうかそうか!最強の少年兵も、恋する乙女には敵わなかったか!』
「テメェ、帰ってきたら一発ぶん殴るからな?」
『帰ってきても、そこには帰らねぇよ。あのアパート、犯罪者に住所も割れてるんだから、そこの方が詩乃ちゃんも安全だろ?お前らの愛の巣にしちまえよ』
「……それ、本気で言ってんのか?」
『本気も本気だ。俺はしばらく日本に帰ることはないだろうからな。せっかくいい部屋を借りたんだし、お前らで使ってくれ。生活費とか家賃は俺持ちだから』
「色々、ちょっと待て!俺だけで決めれることじゃねぇし、朝田の意志も……」
『詩乃ちゃんには、昨日言ったぞ?二つ返事で受けたよ』
「……はい?」
『まあ、そういう事だから。なんかあったら連絡してこい。じゃあな』
「あっ、おい!」
◇
電話を切る。切る直前に、暁の制止が聞こえたが、面白いので無視する。
『通話終了』の表示を見ながら、立川晋也は、金属の壁に、もたれかかった。
思い出す。初めて暁に会った時のことを。瓦礫の街。硝煙の匂い。こちらに銃口を向けた、痩せた少年。あの時、アイツの目は、死んでいた。生きてはいたが——生きている目では、なかった。
それが、今や。
電話の向こうの、あの狼狽えた声。どこにでもいる、年頃の、ただの少年の声だ。
「本当に……キミのおかげだな、詩乃ちゃん」
誰にともなく、呟く。
いつしか、息子のように思っている少年。その隣に、寄り添ってくれる少女。彼女がいる限り、もう皆月暁は、生きることを放棄したりはしないだろう。
感慨に耽っていると、コツコツと、硬い床を鳴らして近づいてくる足音がした。
「立川くん。電話は終わったかい?」
「……ああ。しかし、ここの回線はどうなっているんだ?海の上だってのに、普通に繋がるとは」
「そこも含めて、説明するよ」
菊岡誠二郎が、眼鏡の奥で笑った。
二人は、長い通路を歩き出した。
窓のない、金属の通路。壁の向こうから、低い駆動音が、絶えず響いている。船——というには、あまりに静かで、あまりに巨大な構造物。空気には、機械油と、真新しい建材の匂いが、微かに混ざっていた。
「いやしかし、立川くんが、ここの警備として参加してくれるのはありがたい。皆月くんの情報から、警備の強化が必要かも、という所だったからね」
「それはいいが——一体、ここはなんだ?」
立川は、歩きながら、周囲に視線を走らせた。元自衛官の、そしてPMC職員の目。施設の規模。隔壁の厚さ。警備の配置。どれをとっても、民間のものではない。だが、自衛隊のものとも思えない。
「海の上に、自衛隊がこんな施設を持っているなど、聞いたこともない。……お前は一体、何を企んでる?」
「人聞きの悪い」
菊岡は、心外だという顔をしてみせた。それから——少しだけ、声のトーンを落とした。
「……強いて言うなら、そうだね。僕の、悲願、といったところかな」
「悲願?」
「立川くん。思ったことはないかい?」
菊岡は、前を向いたまま続けた。その声から、いつもの飄々とした軽さが消えていた。
「もしも、戦場に人間が出撃する必要が無かったら——誰の命も失われないのに、と」
「……なに?」
立川の足が、半歩、遅れた。
その問いは——立川自身が、自衛隊を辞めたあの日から、ずっと抱えてきた問いと、同じ形をしていたからだ。戦場で死んでいく民間人。仲間。敵。誰の命も失われない戦場など、あるはずがない。あるはずがないと、骨身で知っているからこそ——この男は、俺をここに呼んだのか。
通路の突き当たり、分厚い隔壁の前で、菊岡は足を止めた。認証パネルに、手をかざす。
重い駆動音とともに——扉が、開く。
その先に広がっていた光景に、立川は、絶句した。
吹き抜けの、巨大な空間。中央の主軸を取り囲む、無数の機器群。そして——壁一面の巨大なモニターに映し出されていたのは。
【世界】だった。
緑の平原。連なる山脈。点在する、街。川が流れ、雲が動き、そして、その世界の中を——無数の"人"が、生きて、歩いていた。
「これは……一体……」
呆然と立ち尽くす立川の隣で、菊岡誠二郎は、両手を軽く広げた。
眼鏡の奥の目は、もう、笑っていなかった。
「ようこそ——ラースへ」
◇
「おいコラ!……切りやがった、あの野郎」
『通話終了』の表示を睨んでいると、背後から声がした。
「何を騒いでるのよ?」
「おわっ!」
振り向くと、エントランスから出てくる朝田がいた。マフラーに口元を埋め、鞄を提げて。いつもの通学の格好。なのに——今朝からは、それを見る度に、心臓のあたりが妙な動き方をする。
「ほら、早く行こ?遅刻しちゃうわよ?」
「……おう」
並んで、歩き出す。
十二月の朝の光が、通りに長い影を落としている。白い息が二つ、並んで浮かんでは、消える。昨日までは、アパートの階段で待ち合わせて歩いた道。今日からは——同じ玄関から出て、歩く道。
「通学時間、ここからでもあまり変わらないわね」
「あー、そうだな。むしろ、ここからの方が近いんじゃねえの」
「そうね、そうかも」
他愛のない会話。いつもと変わらない時間。
それでも——変わったものも、ある。
「……あ、そういえば」
「あ?」
「昨日のこと、どう説明しよっか?」
「昨日?」
「誰かさんが、校門の前にバイクで私を迎えに来たこと」
イタズラっぽく笑う朝田。
「クラスの子に、説明してねって言われてるけど……私はあなたのこと、なんて説明すればいいのかしら?」
小悪魔を思わせる笑みを浮かべ、顔を近づけてくる。マフラー越しでも分かる、上機嫌の気配。
俺は、その顔をしばらく見つめた後——観念したように息を吐き、そっぽを向いて言った。精一杯の、照れ隠しだ。
「……彼氏、でいいんじゃねえの?」
言った。言ったが。
自分で口にしておいて、耳の後ろが熱くなるのが分かる。
俺のその答えに満足したのか、朝田は、うんうんと頷いた。
「そうね。あんなお迎えされて、彼氏以外、説明のしようがないしね」
「……なんか、ずっと機嫌いいな。朝田」
そこで——朝田が、ふいっと背を向けた。
「朝田?」
もう一度呼ぶが、こちらを向かない。代わりに、返答だけが、前を向いたまま飛んでくる。
「詩乃」
「え?」
「これから、詩乃って呼んでくれないと、返事しないから」
「……」
ああ、コイツは、本当に。
一歩ずつ、確実に、外堀から埋めてきやがる。狙撃手のくせに、攻め方が歩兵のそれだ。
俺は、観念した。
「わーったよ……詩乃」
初めて口にする、その二文字は、思ったより、すんなりと出た。そして、思ったよりずっと、特別な響きがした。
満面の笑みで、詩乃が振り向いた。
「なーに?暁」
——不意打ち、だった。
俺を、嬉しそうに暁と呼ぶ詩乃。
その笑顔の破壊力は、言わずと知れない。
思わず、目を逸らしてしまう。
「……俺は多分、これから一生、お前に勝てる気がしないな」
「ね、暁。こっち向いて」
「なんだ……」
振り向くと——眼前に、詩乃の顔。
そして、唇に、柔らかい感触。
数秒、世界が止まった気がした。
朝の街の音が、遠のく。十二月の冷たい空気の中で、そこだけが、温かかった。
やがて、顔を離す詩乃。その顔は、赤い。が——多分、俺の方が赤い。
「ファーストキス、もーらった」
それは、GGOで、プラズマグレネードの光に包まれる時と、同じ笑顔だった。
「……これから、どんどん攻めていくから。覚悟してよね?」
そう言って、照れ隠しか、詩乃はさっさと歩き出した。
俺の心臓は——本気で、持ちそうにない。
「……ったく」
先を行く小さな背中を、朝の光が、縁取っている。
俺は一つ息を吐いて、その隣に追いついた。歩幅を、合わせる。ゲームの中でも、現実でも、もう何十回もそうしてきたように。
(——世界は、動いてる)
歩きながら、ふと、思う。
リカルドは、また会おうと言った。菊岡の眼鏡の奥には、まだ読めない何かがある。立川の「野暮用」も、どうせただの出張じゃない。《A.L.I.C.E.》——あの言葉の意味も、まだ分からないままだ。
平和ってやつは、たぶん、そう長くは続かない。俺の勘は、そう告げている。この静けさは、終わりじゃなく
——幕間だ。
——それでも。
隣を歩く、こいつの横顔を見る。
それでも、俺はもう迷わない。何が来ても、守るものは決まった。生きる理由は、隣にいる。
「ほら、暁。置いてくわよ」
「へいへい」
二人分の足音が、朝の街に、響く。
——「暁」。
夜と朝の、境目の時間。それが、俺の名前だ。
思えば俺は、ずっとその境目に、立ち止まったまま生きてきた。夜は明けきらず、朝は来ない。死んでいった人たちの願いだけを頼りに、暗がりの中を歩き続けた。
でも、もう、違う。
夜は——明けた。
だからここから先は、名前の続きの時間を。未来を、彼女と生きていく。
(——Vivi。生きろって、お前は言ったよな、ルカ)
(ああ。……Vivo、だ。俺は今——生きてるよ)
冬の朝日が、並んで歩く二人の行く道を、どこまでも白く、照らしていた。
さて、ようやく一区切りです!
予想より物凄く時間がかかりました。お話を書くって大変ですね。
この話は、シノン大好きの作者が、ある漫画を見て思いついた物です。幼い頃から兵士として育った少年が、もしGGO編の物語に介入したらどうなるだろう、と。
処女作なのでなかなか上手くいきませんでしたが、頑張りました。
望まぬ強さを持ってしまった少年と、強くなることを望む少女。二人はこれからも互いを支え合って生きていくことでしょう。
さて、この続きですが、オーディナルスケール編、アリシゼーション編へと続きますが、正直、あんまり改変とかは考えてないです。あくまで、キリト達メインキャラの中に、アルバというキャラクターがいる、といったスタンスでしょうか。なので、物語の本筋が変わることはほぼ無いですかね。後は、シノンとのイチャラブ短編を多数書きたいなと思っております。せっかく同級生設定作りましたし。
長々となりましたが、お付き合いいただきありがとうございました。これからもがんばります。