校門を出た瞬間、肩から力が抜けた。まだ暑さの残る秋の空気を感じながら、朝田詩乃は帰路についていた。
――終わった。今日が。
たった一日。たった数時間。なのに、息を止めていたみたいに胸が苦しい。
「……はぁ」
吐き出した息は、九月の夕方の空気に溶けていく。
夏より少しだけ冷たくなった風が頬を撫でて、逆に現実に引き戻された。
明日もある。明後日も、その先も。
今日は特別何かがあったわけじゃない。授業を受けて、休み時間に黙って座って、給食を食べて、また授業を受けた。ただそれだけだ。なのに、どうしてこんなに疲れるのだろう。
視線が疲れる。廊下を歩くたびに、ちらちらと向けられる目。直接何かを言われるわけじゃない。ただ、向けられる。そして逸らされる。その繰り返しが、一日かけてじわじわと体力を削っていく。
皆月が来てから、その視線の向き方が少し変わった気もする。
彼が転入してきたことで、クラスの興味が一時的にそちらへ分散した。詩乃への視線が、少しだけ薄まった。それは、正直、楽だった。
楽だった、と思うこと自体が、少し情けない気もするけれど。
「……帰ろう」
小さく呟いて、歩き出した。
詩乃のアパートの近くには、商店街がある。スーパーや本屋など、最低限のものは揃っていて便利が良い。駅も近く、なかなかの好条件だ。
夕方の商店街は、人がそれなりに動いていた。買い物帰りの主婦。自転車を押す老人。制服のまま寄り道している学生たち。誰もが、自分の用事を持って動いている。その流れの中に混じって歩くのは、嫌いじゃない。誰も私に興味を持たない。ただの通行人の一人として歩ける。学校の廊下とは、そこが決定的に違う。
スーパーに入り、かごを手に取る。今日の夕飯を考えながら棚を見て回る。祖父母からの仕送りで生活している身なので、自炊して倹約している。豆腐と卵と、少し安くなっていた小松菜。それから出汁のパック。手慣れた動きでかごに入れながら、今夜の段取りを頭の中で組む。これをしている時間が、一日の中で一番静かだ。次のことを考えているようで、何も考えていない。
レジで会計をを済ませて外に出る。
少し先に本屋がある。詩乃はそちらへ足を向けた。
新刊コーナーを一周する。手に取るかどうか迷って、結局今日は何も買わなかった。それでもいい。眺めるだけでも、ここは落ち着く。紙の匂いと、整然と並んだ背表紙が、世界を少しだけ静かにしてくれる気がする。
店を出ると、空が少し暗くなっていた。
夕方が、夜に近づいている。
詩乃は買い物袋を持ち直して、アパートへ向かった。
アパートの近くの細い道に差し掛かった時、前方に見覚えのある背中があった。
――黒い髪。
制服の上着を少し雑に着て、歩幅が一定で、背筋が真っ直ぐ過ぎるぐらいの姿勢の良さ。無駄のない、歩み。
皆月暁。
先日転入してきたばかりの、目つきの悪い男子。
同じクラスで、隣の席になったばかりの――あの人。
(なんでここに……?)
考えるまでもない。彼も帰宅しているだけだろう。偶然、同じ方向なだけ。
私は距離を保って歩く。別に、追いかけてるわけじゃない。ただ、同じ方向に家があるだけ。
そう自分に言い聞かせながら、足取りが少しぎこちなくなっているのに気づく。
なんで、緊張しているんだろう。
意識してしまっているから、だ。
今日一日、隣の席に座っていた。机と机の間、数十センチの距離。それが今も続いているみたいで、妙に落ち着かない。
彼の背中は振り向かない。でも、時々ほんの少しだけ首が動く。周囲を確認するように。一定の間隔で、左右に視線が走る。まるで癖みたいに、無意識に。
(あの動き……)
どこかで見た気がした。
GGOで出会ったあの男も、そういう動きをしていた。地形を読みながら、常に射線を意識しながら動いていた。
でも、それは偶然の一致かもしれない。クセが似ているだけ。
――そう思いながら、詩乃は彼の歩き方を目で追い続けた。
歩幅。重心の置き方。足音の薄さ。
(……薄い)
足音が、薄い。
アスファルトを踏んでいるのに、音が乗らない。体重が感じられない。
学校の廊下でも、そう思った。
(……なんで、こんなに気になるんだろう)
皆月の背中から目を離そうとして、離せない。胸の奥に、何かが引っかかっている。言語化できない既視感。見覚えのある何か。
そうして詩乃が半ば無意識に後をついていくような形で歩いていると、詩乃が住んでいるアパートが見えた。
古い二階建て。壁は長年染み込んだ雨水によって薄く黒く染まっている。ふと、皆月はアパートの前で立ち止まり、肩越しにゆっくりと振り向いた。視線がぶつかる。
「……着けてきた、わけじゃねぇよな?」
一瞬、頭が真っ白になったが、慌てて否定の言葉を口にする。
「そ、そんなわけないでしょ!」
声が裏返りそうになるのを必死で押さえる。
皆月は「だよなぁ……」と、どこか面倒そうに目を細めた。
「同じ方向だっただけ」
「ならいい。……じゃあな」
そう言って彼はアパートの敷地に入り、階段を登っていく。
――え?
私も無意識に彼の後を追うように階段を昇る。
(嘘でしょ……)
そう思考している間に、皆月は先に階段を昇りきった。
私は遅れて、階段を昇る。共用廊下を歩く皆月の背中がすぐそこにあって、私はその数歩後ろを歩く形になる。
彼が途中でちらりと振り返った。
「……やっぱ、着けてきたわけじゃねぇよな?」
「違うって言ってるでしょ!」
「だよなぁ……」
さっきと同じやりとり。同じなのに、今度はおかしくて、私は小さく息を吐いた。そして、私の部屋のすぐ横のドアの前で皆月が立ち止まる。私も自分の部屋の前で立ち止まった。
――隣。
皆月の部屋のドアと、私の部屋のドアが、少しだけ離れた距離で並んでいる。一瞬で理解した。理解してしまった。皆月が、心底信じられないというような顔で言う。
「いや、なんの偶然? これ」
私は、乾いた笑いみたいな息を漏らす。
「ほんとにね……」
皆月が眉間に皺を寄せたまま、早口で畳みかける。
「編入した学校の同じクラスで隣の席の女子が同じアパートのしかも隣の部屋って、どんな確率だよ。なんなのこれ?」
「そんなの私が聞きたいわよ!」
私の声も少し強くなる。
怒っているというより、混乱している。笑うしかないような状況の圧に、反射で言い返してしまう。
「いやまあ、そりゃそうか。悪い」
バツが悪そうにそう言う皆月を見て、私も少し落ち着く。
「…私もごめん。少し強く言い過ぎた」
そう言うと、皆月は少し笑って話しかけてきた。
「お前、ここいつから住んでんの?」
特段隠すことでもないので、私は答える。
「…3月の終わり頃から。実家を出て、ひとり暮らししてるの」
「へえ。そりゃ立派なことで」
そう軽く言う皆月に少し苛立ちながら、私は言う。
「…うるさくしないでよ?ここ、壁薄いんだから」
そういった私の顔をキョトンと見た後、笑って皆月が答える。
「確かに壁薄いな。まあ、俺はどうせ静かだから安心してくれよ」
そう答える皆月に、私は疑問をぶつける。
「…なんでそう言えるのよ?」
私が言うと、皆月は肩をすくめた。
「いや、部屋にいる時なんかどうせゲームしてるしかねえから。知らねぇ? 仮想世界ってやつだよ」
仮想世界。その言葉に、胸の奥が小さく反応した。
私はGGOを思い出す。銃を握っても、あの忌まわしい発作が起きない場所。強くなれるかもしれないと、私が縋っている場所。
皆月の転入初日の既視感が、一気に蘇る。
あの足音の薄さ。視線の動かし方。教室での距離の取り方。帰り道で目が離せなかった理由。全部が、一本の糸で繋がろうとしている。
でも、まだ確信が持てない。
私は自分の思考を一度落ち着かせて、慎重に問いかけた。
「……知ってるけど。どんなゲームしてるの?」
皆月は意外そうな表情のあと、露骨に言いづらそうに視線を泳がせた。
「あー……。あれだよ。簡単に言うと、銃で撃ち合って殺し合うゲーム」
「……!」
それは、驚愕ともいえるし、やはりという感情も含んだような、そんな感情。
皆月は私の顔の変化を読んだのか、少し表情を変えた。
「あー……ま、あんま興味なさそうだよなおま……」
口から出たのは、考えた言葉じゃない。直感だった。
帰り道の背中。足音の薄さ。視線の動かし方。あの荒野で躱された二発。見逃された屈辱。全部が、一本の糸になって繋がった。
心臓の鼓動を感じる。それを隠すように、彼の言葉を遮るように私は呟いた。
「……アルバ」
皆月が、目を見開いた。
一瞬で分かる。この反応は当たりだ。
けれど、私も同じくらい驚いていた。本当に当たるとは思っていなかったから。
廊下に、短い沈黙が落ちた。
皆月が口を開く。
「……なんで、俺のキャラネーム知ってんの?」
その声は低くて、驚きと困惑と、もう一つ何かが混じっていた。
私は、胸の緊張を誤魔化すみたいに、ほんの少しだけ笑った。自分でも驚くくらい自然に。
「…この間はどうも。あなたに完膚無きまでに負けて、しかも見逃されるっていう屈辱を味わった女よ」
皆月の顔が、今度は信じられないに塗り替わる。
それは、教室で見せた無表情よりずっと人間らしい表情だった。
数秒、彼は黙った。
本当に数秒だったが、その間が妙に長く感じた。
夕暮れの廊下。古いアパートの薄暗い灯り。どこかの部屋から、微かに夕飯の匂いがする。
皆月がゆっくり口を開いた。
「……お前、シノン?」
「そうよ。よろしく、白狼さん?」
私は笑みを向けた。
揶揄じゃない。挑発でもない。
ただ、やっと何かをを見つけたような感覚があった。
皆月――アルバが、少しだけ口を開けて、閉じて、短く息を吐いた。
「……は?」
それが妙におかしくて、私はまた小さく笑ってしまった。廊下の薄暗い光の下。古いアパートの、隣同士の玄関。
この偶然が私の世界を変えるなんて――
この時の私は、思いもしなかった。