昼休みのチャイムが鳴った瞬間、教室の空気が少しだけ軽くなる。みんなが机を引きずり、椅子を鳴らして、好き勝手に動き始めるからだ。私はその波に乗らない。乗れない、というほうが正しい。教室は居心地が悪い。私の過去が広まってから、ずっと。直接何かを言われるわけじゃない。でも視線が変わる。話し声が変わる。笑い方が変わる。そして、こちらが息を吸うたびに、空気がほんの少しだけ固くなる。だから私は、いつも通り教室を出た。廊下を抜けて、校舎の外側にある非常階段へ向かう。校舎内を彷徨って見つけた穴場だ。人も来ないし、静かに過ごせる。この場所を発見してから詩乃は昼食はここで取るようになっていた。ここには風の音と、遠くの運動部の声と、たまに鳴く鳥の声。それだけ。私は階段の踊り場に座って、弁当袋を膝に置いた。昨日の夕飯の残りを詰めただけの、簡単なもの。いつもの様に1人で静かに過ごしていると、不意に非常階段のドアが開いた。ギィ、という金属の擦れる音。私は反射で肩をすくめて、顔を上げた。
「お、いた」
聞き覚えのある低い声。振り向くと、皆月暁が立っていた。一瞬だけ、言葉が出ない。誰も来ない場所のはずなのに、なんで。皆月はドアを手で押さえたまま、階段の踊り場を見回す。
「こんなところで昼メシくってんのかよ、お前」
「……別にいいでしょ。文句ある?」
言い返した声が、思ったより刺々しい。でも、皆月は気にした様子もなく肩をすくめた。
「いや、別に。静かでいいな、ここ」
その言い方が妙に自然で、私は少しだけ拍子抜けした。
「…なんでここに?」
そう質問する私を見て、皆月は階段に一歩入って、ドアをゆっくり閉めた。金属音が止まると、また風の音だけが残る。
「いや、教室にいると視線やら質問してくるやつらやらで鬱陶しい。昼メシぐらい静かに食いてぇじゃん?」
教室で、皆月が囲まれていたのを思い出す。彼が転校してきて暫く経つが、まだ彼は興味の対象のようだ。代わる代わる来るクラスメイトたち。それを相手にする皆月の表情は、確かに鬱陶しそうだった。皆月は続ける。
「んで、そういや朝田どっか行ったなと思って探してみたら、いた」
「……なんで私を探しに来たの?」
「いや、なんとなく?」
なんとなく。
その一言が、胸のどこかに小さく刺さった。
理由がないことが、どうしてこんなに困るんだろう。理由があれば、受け取り方が決まる。同情なら距離を置けばいい。下心があるなら警戒すればいい。でも、なんとなく、には対処の仕方がない。
意味のない優しさは、受け取り方が分からない。
(なにそれ……)
内心でぼやく間に、皆月は隣にきた。
私と同じ踊り場。距離は少し離してくる。妙に正確な距離感。
「隣、いい?」
答える前に、皆月は座った。
「…まだ私、返事してないけど?」
「まあ、いいじゃん?お隣さんのよしみで」
「何よそれ」
皆月はコンビニのビニール袋からパンを取り出し、袋を乱暴に開けた。そんな皆月を横目で見ながら、私は迷いながら口を開いた。
「ねえ、皆月。学校じゃあんまり私に関わらない方がいいよ?」
皆月の手が止まった。でも顔はこっちを向かない。パンを見たまま言う。
「なんで?」
「……教室の空気、感じてるでしょ?」
皆月は小さく鼻で笑った。
「あー……まあな」
「あなたまで巻き込まれるよ。だからあまり関わらない方がいいと思う」
そう言いながら、私は視線を下に落とした。
自分で言っていて、少しだけ胸が痛い。
巻き込まれる。その言葉を使うたびに、自分が何か有害なもののように思えてくる。関わるだけで損をする存在。近づかない方がいい人間。それが正しいと分かっていても、口にするたびに少しずつ削れる気がする。
だから私はいつも、先に距離を置く。相手に離れられる前に、自分から線を引く。そうすれば、傷つかなくて済む。そのはずなのに。
皆月は、パンを一口かじってから言った。
「なんで?」
「なんでって……」
「俺、別にハブられようがどうでもいいし。むしろうるさくなくていいわ」
あまりにもあっさり。
守ってくれているわけじゃない。ただ、自分の都合を言っているだけ。
なのに、その言葉が、私の引いた線をひょいと跨いでいった。
同情じゃないから、受け取り方に迷わなくていい。ただ、こいつにとっては本当にどうでもいいことらしい。それが、妙に楽だった。
「……変な人ね」
私が小さく言うと、皆月は鼻で笑った。
「今さらだろ?」
その返しに、喉の奥が少しだけ緩む。笑いそうになって、私はお茶を飲んで誤魔化した。沈黙が落ちる。気まずい沈黙じゃない。話さなくてもいい沈黙。居心地のいい、沈黙。風が階段の隙間を通り抜けて、私の髪を少し揺らした。九月の風は、夏より優しい。皆月が、パンの袋をくしゃっと潰しながら言う。
「それより、今日どうする?」
その一言で、私の頭の中が一気に"もう一つの世界"へ切り替わった。昨夜のグロッケン。路地裏のカフェ。白狼と氷の狙撃手。提案と、条件。
「……何時からインするの?」
「俺はいつも通り20時ぐらいから。お前は?」
「私もそれで大丈夫。……待ち合わせ、どこにする?」
「どうすっかなぁ……。有名人だから目立つんだよな、お前」
そう言いながらジトッとした目で見てくる皆月に、私は言い返す。
「あんたもでしょ。なによ、白髪に銀目って。目立つに決まってるじゃない」
「俺が決めたんじゃねえよ。GGOはランダム生成だろうが」
「それを言うなら私だってそうよ」
「ていうか、名前シノンって。本名にンつけただけって。捻りなさ過ぎだろ」
「べ、別にいいでしょ!……そういうあんたはどうなのよ」
そう質問すると、皆月の動きが一瞬だけ止まった。
パンを持ったまま、何かを見るような目になる。遠くを、じゃない。内側を、見ているような目だった。
「…暁、夜明けのイタリア語だよ。アルバは」
低く、静かな声だった。
さっきまでの軽口とは、温度が違う。
私は思わず、彼の横顔を見た。
皆月は前を向いたまま、少しだけ目を細めている。懐かしいというより、少し遠い場所を思い出している顔。何かを、あるいは誰かを。その名前に、意味がある。それだけは分かった。
聞いていいのか、分からなかった。
だから私は、ただ短く返した。
「……そう」
皆月はすぐに表情を戻して、指で空中に地図を描くように動かした。
「あー……あそこはどうだ?グロッケンの東門の近く。倉庫街の外れ。あそこなら人気もなくていい」
「分かった」
「よし、んじゃそれで。……しかし、日本のコンビニのパンとかおにぎりって異常に美味いよな」
マジですげえと思うわ、とか言っている皆月の声を聞きながら、私はさっきの横顔を頭の中で反芻していた。
アルバ。夜明けのイタリア語。
なぜイタリア語を知っているのか。なぜその名前を選んだのか。あの一瞬だけ覗いた表情は、何だったのか。
皆月のことを、私はほとんど知らない。海外から来た、とだけ聞いている。でも、あの目の鋭さも、足音の薄さも、銃の扱い方も、全部が普通の高校生に収まらない。
まるで——戦場帰りのような、と思って、私は自分の発想を笑った。そんなことがあるわけない。けど、何かがある。何かを、背負っている。
聞けなかった。今は、まだ。
その思考を振り払うように、予鈴が鳴った。昼休みの終わりを告げる、遠い電子音。お、と言いながら皆月は立ち上がり、制服のズボンの膝を軽く払った。
「先に行くわ」
「……うん」
皆月はドアに手をかけて、ふっと振り返る。
「……あ、朝田」
「なに?」
「ここ、悪くないな。明日からもお邪魔するわ」
「…どうぞ、ご勝手に」
そう肩を竦めると、皆月が笑いながら言う。
「ああ、勝手にする。…じゃ、また後で」
それだけ言って、皆月は出ていった。ドアが閉まって、また風の音だけが残る。私は弁当袋を片付けながら、胸の奥がほんの少しだけ温かくなるのを感じた。1人の昼が、2人になる。学校なんて、息苦しいだけの場所だった。でも――非常階段のこの場所だけは、少し違うかもしれない。私は小さく息を吐いて、立ち上がった。
美少女と二人きりの昼休み。
こんな学校生活過ごしたかった…