十月に入って、日が落ちるのが極端に早くなったように思う。夕方の空気が少し冷えて、肌寒さを感じる。街路樹の葉が徐々に色づき始め、空を見ると、美しく伸びゆく夕焼けのオレンジが世界を染めていた。その景色を見て、俺はかつて過ごした場所との違いを感じていた。この時期は午後や夕方にスコールがよく降っていた。日本ではどうなんだろうな、とか考えていたら、隣から声が聞こえてきた。
「ちょっと、聞いてるの?」
声の方向に顔を向けると、不満げな顔でこちらを見ている少女がいた。少女の問いに対して、俺は正直に答える。
「わり、何も聞いてなかった。なんだって?」
もう、と声を漏らしているその少女の名は朝田詩乃。同じ学校で、同じクラスの隣の席で、住んでいるアパートまで同じ、果てには住んでいる部屋も隣という、あまりにも出来すぎた偶然で知り合いとなった少女だ。朝田が仕方ないとばかりに話し始める。
「昨日の話。少し突っ込みすぎじゃない?」
彼女の言う昨日とは、学校のことではなく、この現実とは別の世界――仮想現実でのことを言っている。VRMMO《ガンゲイル・オンライン》。銃と鋼鉄の世界。自分と彼女はそのゲームのプレイヤーであり、よく2人でコンビを組んでいる。彼女はGGOで最高の初弾命中率を誇るプレイヤーであり、狙撃手として、そしてGGOでは数少ない女性プレイヤーとあってかなり有名なプレイヤーだ。かくゆう自分も【白狼】という異名と共にかなり有名になってしまったため、俺と彼女のコンビはよく奇襲をかけられることも増えた。その度に返り討ちにしているが。先程の彼女の言葉は昨日の戦闘での話だろう。
「そうでもねぇだろ。いつも通り、俺がヘイト買って、お前が隙のある奴を狙って狙撃。特に危なげもなかったろ」
そう言い切ると、朝田が言い返してくる。
「フォローするこっちの身にもなってよね。あんたが煙幕張りながら目茶苦茶に突っ込むから、狙撃のタイミングとかかなり大変なのよ?」
「お前の腕を信用してのことだろーが」
「それでも、よ。まあ、おかげでアドリブも利くようになったし、狙撃の腕も上がったし。あんたとコンビを組んでからは、負けなしだし」
「当然だろ。誰が前衛張ってると思ってんだよ」
「それもそうね。オオカミさん?」
「……お前、それやめろ」
「ふふ」
そんな調子で、どうでもいい、何でもない会話をしながら歩く。暁達のアパートは住宅街の外れにある。大きめの公園の脇を抜け、商店街の方へ続く道の手前あたりの場所。いつものルート、いつもの時間。だが―――その大きめの公園の脇を通った時だった。
パン!
乾いた破裂音が響く。
脳が先に反応する。体が勝手に固まって、視界が一瞬で狭くなる。
(……っ)
心臓が跳ねた。背中が熱くなる。呼吸が浅くなる。足が、音の方向へ向く準備をする。体が勝手に警戒体制に入る。
それだけじゃない。
鼻の奥に、一瞬だけ砂埃の匂いが戻った気がした。火薬の匂いが。あの乾いた空気が。
俺はその音のした方向、公園の方へ素早く顔を向ける。
ベンチ、遊具、砂場、水飲み場、多目的トイレ。音の源を特定しようと焦りながら視線を振る。そして、俺は大きく安堵の息を吐いた。エアソフトガンを子どもたちが構えてはしゃいでいる。ただの、おもちゃ。
(……日本でそんなこと、あるわけねぇか。アホらし)
自分の反応が馬鹿みたいで、舌の奥が苦くなる。ここは戦場じゃない。ここは日本だ。撃たれるわけがない。死ぬわけがない。頭では理解している。だが―――
(長年の経験は、抜けねえもんだな)
そう苦く思いながら、隣を振り向いた。
それで、気づいた。
自分が感じていたものの、薄い版が、朝田の全身に出ていた。
顔色が、消えていた。先程まで健康そうだった肌が青白くなり、唇が震えている。肩が小さく上下して、息が吸えていない。手が、指先が、細かく震えている。
俺が感じたのは一瞬の反応だった。染みついた警戒心が誤作動しただけだ。それだけで収まった。
だが朝田は、収まっていない。
「……朝田?」
返事がない。目は開いているのに、焦点が合っていない。身体が今ここにいるのに、頭だけが別の場所に引っ張られているような、そんな様子。
「あ……あ……」
声にならないうめき声。今にも吐きそうな顔。
――知ってる。
PTSD。心的外傷後ストレス障害。あの地獄で、何度も見た。引き金の音、爆発音、叫び声。何かの刺激で一気にその瞬間へと連れ戻される。
俺が今感じたのも、同じものの欠片だ。
だが朝田のそれは、俺のものより遥かに深い場所から来ている。それが一目で分かった。
「落ち着け、朝田」
声をかけるが、俺の言葉は届かない。彼女の体は、もう勝手に反応している。呼吸が乱れて、視界が狭くなって、今にも崩れ落ちそうになっている。
「……ちっ」
つい舌打ちが出た。苛立ちじゃない。焦燥、心配、困惑、それらが混じった結果の舌打ち。視線を周囲に素早く振り、多目的トイレが目に入った。俺は迷わず朝田の体を抱え上げた。いわゆるお姫様だっこの形になるが、そんなもの気にしていられない。彼女の鞄も抱え、多目的トイレまで彼女の様子に気を配りながら走る。中に人が入っていないことを確認し、運がいいと思いながら多目的トイレの片引き戸を体で引き開けた。中は広く、清潔を保っていた。朝田の様子を確認する。もう限界そうな表情が目に入った。
便座の前に朝田を下ろして、背中を支える。吐き気は我慢させるほど悪化する。促してやった方がいい。
「吐け。無理すんな」
詩乃は返事をしないまま、身体を折る。しばらく、荒い呼吸だけが響いた。俺は余計なことを言わず、扉の近くへ下がった。ここで背中をさすったりすると、逆にパニックが増えることがある。触られるのが怖い時もある。
――そういうヤツがいることも、知っている。
しばらくして、朝田の呼吸が少し落ち着いた。肩の震えが弱くなる。俺は彼女の近くに寄り、顔色を確認する。酷い顔だが、さっきよりはマシに見えた。パニックにならないよう、小さく声をかける。
「……落ち着いたか?」
「……みな、つき?」
俺を認識した声。状況を認識しようとして、視線を辺りに振っている。俺はその様子に安堵した。
「……ちょっと待ってろ」
俺はトイレを出て自販機まで走った。水とスポーツドリンクを買う。戻ってハンカチを水で濡らして、朝田に差し出す。
「口の中ゆすげ。あと、これで口のまわりも拭いとけ」
朝田は小さく頷いて、水を少しずつ口に含んだ。手がまだ震えている。
「……俺は外にいるから、落ち着いたら出てこい」
俺はそれだけ言って、扉の外へ出た。近くの壁にもたれて、腕を組む。
エアソフトガン。銃声。
これまで一緒に帰る道で、子どもとすれ違ったことは何度もあった。それでは反応しなかった。つまり、トリガーは銃器そのものか、銃声に近い音。
銃器類に対するトラウマ。
そこまで考えて、俺は少しの間を置いた。
(……この平和な日本で? それも、ただの女子高生が。 何があった)
疑問が浮かぶ。この国で銃声を聞くことは、まずない。人生で銃器を目にせず終わる人間がほとんどのはずだ。なのに、なぜ。
(…やめだ)
俺は思考を切った。
考えた所で、俺にどうにかできる問題ではない。彼女の心の底にあるものは、彼女自身にしか分からない。踏み込む義理もない。資格もない。俺はただの同級生で、隣の部屋の人間だ。
それでいい。それが、正しい距離だ。
そう結論づけた時、扉が開いた。
顔を俯かせながら朝田が出てきた。まだ顔色は白いが、目の焦点は合っている。
「大丈夫か?」
「……ごめん。迷惑かけた」
申し訳なさそうに俯く朝田に、俺はスポーツドリンクを渡した。
「……ああ。気にすんな。ほら」
朝田は俺とペットボトルを交互に見ながら、しどろもどろといった風に受け取り、指先でぎゅっと握った。少しの沈黙。
朝田が、俯いたまま迷ったように口を開く。
「……聞かないの?」
「何を?」
「……なんでこうなるのか、とか」
俺は一拍置いた。
聞けば、話してくれるかもしれない。それは分かる。こういう時、人は誰かに話したくて、でも話せなくて、誰かに聞いてほしくて、でも聞かれたくなくて、そういう矛盾した状態になる。
だから聞く側が選んではいけない。
「お前は話したいのか?」
詩乃は目を逸らして、小さく首を振った。
「……ううん。できれば、したくない」
「なら、俺から聞くことはねぇな」
安堵したようにその肩が落ちる。表情も少しだけ緩んだ。
俺はそれを見て、少しだけ何か言おうとして、うまい言葉が見つからなかった。励ますのも違う。同情するのも違う。だから、思ったことをそのまま言った。
「まあ、なんだ。またそうなった時に俺が近くにいたら、今みたいに助けてはやれるぜ?」
雑な言い方だ。自分でも分かる。でも、本心だった。
踏み込むつもりはない。知りたいとも思っていない、と言えば嘘になる。でも、それは俺の都合だ。彼女が話したくないなら、それでいい。ただ、目の前でそうなっている知り合いを放っておけるほど、俺は冷酷にはなれなかった。
その言葉に朝田が、ほんの少しだけ笑った。
「……ありがとう」
「礼言われるほどのことしてねぇよ」
「……それでも、ありがとう」
真っ直ぐ目を見て言う朝田に、俺は目を逸らした。
照れているわけじゃない、と思う。ただ、この目を正面から受け取る方法が分からなかった。
話を変えようと、口から出た言葉は。
「あー…。そういやお前、もうちょい食べた方が良いんじゃねえの?めちゃくちゃ軽かったぞ?」
その言葉に、朝田が不思議そうな顔をする。その後、何かを思い出したように目を見開いた後、顔が赤くなる。
「う、うるさいわね!そんなの私の勝手でしょ!…ほら、早く帰るわよ!」
足早に歩いていく朝田の背中を見ながら、思った事をそのまま言っただけなのにな、と首を傾げながらついていく。そうこうしているうちにアパートについた。
「なあお前、何怒ってんの?」
「うるさい。あんたはもう少しデリカシーというものを学ぶべきよ」
「はあ?…意味わからん」
なんかよく分からんがまだ怒っているらしい。まあ、元気になって良かった。そう思っていると、朝田が振り向き階段の上から俺を見下ろしてくる。
「ねえ、皆月。今日のお礼に向こうで何か奢る」
少し笑いながら言う朝田。GGOでの話だろう。
「別にいいっての。大したことしてねぇよ」
「いいから。これは私の気持ちの問題なの」
「ふーん?まあ、それならお言葉に甘えるか。いつもの酒場で良いか?」
「了解。…それじゃあ、また後でね」
朝田はそう言って部屋に入っていった。ドアが閉まる音が、妙に静かに響く。俺はそのドアを、しばらく見つめた。
エアソフトガンを見るだけであれほどの強い発作。それなのに、GGOの中で彼女は銃を握り続けている。VRなら平気なのか。現実の銃声には崩れるのに、仮想の戦場では崩れない。
その矛盾を、彼女は知っているはずだ。知っていて、それでも続けている。
あの日のコンビの提案を思い出す。縋るような表情。あれは負けず嫌いだけじゃなかった。もっと切実な何かが、あの目の奥にあった。
彼女はあの世界に、何かを見ている。
そして、自分に何かを見ている。
彼女にいつだったか、聞かれたことがあった。
『あなたは、どうしてそんなに強いの?』
その時はコンビを組んで間もない頃で、適当にはぐらかした。
だが今は、少しだけ考えてしまう。
強さ。彼女が言う強さとは、何だろう。GGOでの俺を見て、彼女はそれを求めている。でも、その強さの中身を彼女は知っているか。
(……そんな、大層なもんじゃねえのにな)
俺はただ知っているだけだ。銃の撃ち方を。照準の定め方を。距離の詰め方を。射線の切り方を。殴り方を。ナイフの振り方を。――人の、殺し方を。
覚えるしかなかった。それ以外に道がなかった。選んだんじゃない。そうしなければ死ぬから、そうした。それだけのことだ。
こんなものを、彼女は欲しているのか。
壊れるしかなかった人間の、壊れ方だけを覚えた体を、彼女は強さと呼んでいる。
それが、少しだけ、苦かった。
苦いと感じる自分が、少し意外だった。
「……やめだ、めんどくせぇ」
俺は小さく吐き捨てて、自分の部屋の鍵を開けた。彼女のことを考えても、答えは出ない。出せる立場でもない。自分の部屋の鍵を差し込み、暗証番号を打ちこんで、鍵が開く。部屋に入る。部屋の中は、暗く、そして静かだった。
◇
詩乃は部屋に入り、制服をハンガーにかけ、そのままベッドに倒れ込んだ。
(……疲れた)
今日はまさかだった。あんな所で発作が起きるなんて。
今度からあの公園を通るのはやめておこう。そう決意すると同時に、隣人の事を思い出す。
(本当に、助かった)
皆月の前で発作を起こしたのは初めてだった。普通ならパニックになるところだと思う。だが、彼は違った。冷静に対処してくれた。彼はやはり、普通とは違う気がする。あのままだと、道端で嘔吐してしまっていた。彼がトイレまで連れて行ってくれなければ…。そう考えた所で、再び顔に熱が上る。皆月が自分をトイレまで連れて行ってくれた方法、いわゆる、お姫様だっこ。
(〜〜〜〜!)
恥ずかしい。恥ずかしすぎる。異性と交際した経験などない詩乃にとって、あんなことをされたのは当然初めてだった。緊急だったとはいえ、思い出すと顔が羞恥に染まる。でも――少し、嬉しかった。
(…でも、あのデリカシーの無さはどうにかしてほしいわね)
軽かった、なんて直接言わなくてもいいだろうに。女の子に体重の話はタブーだ。当の本人はなんで怒ってんの?みたいな顔をしていたが。
それに――
(何も、聞いてこなかったな)
彼は何も聞かなかった。なんでこうなるのか、とも聞かなかった。それどころか、またそうなったら助けると言ってくれた。
誰かに、そう言われたのは、初めてだった。
転校前の学校でも、引っ越してきてからも、ずっと。私の過去を知った人間は、距離を置くか、好奇心で踏み込んでくるかのどちらかだった。ちゃんと見ていてくれる人間なんて、いなかった。
だから、あの言葉が、思ったより深く刺さった。
その深さに、自分でも少し驚いた。
(あまり、期待しちゃいけないのかな)
詩乃はベッドの天井を見た。
期待すると、壊れる。それは何度も経験してきた。信じると、離れていく。そのたびに、また一人に戻る。だから最初から一人でいれば、壊れない。
それが正しいはずだった。
でも。
隣の部屋の方を、無意識に目で追っていた。彼は今、何をしているのだろう。シャワーを浴びているか。夕飯の準備をしているか。それとも、もうGGOの準備をしているか。
右手が、壁の方へゆっくりと伸びる。届くはずのない距離。
(―――ねえ、皆月。あなたは、私の全てを受け入れてくれる?)
あの忌まわしい過去も。自分を苦しめる発作も。そして、人を殺したという事実も。彼ならば、全てを知って、それでもそばにいてくれるのではないか。
そう期待する自分がいる。
でも、その期待の重さに気づいた瞬間、冷水をかぶったような感覚がした。
こんなに重いものを、出会ってから数週間の人間に押しつけていいわけがない。この重さに気づかず期待するのは、相手への甘えだ。そして自分への甘えだ。
―――私は、1人で強くなる。
それだけが、正しい道だ。
そう思い直し、詩乃はゆっくりと起き上がった。伸ばしていた手を引き戻して、シャワーを浴びるために立ち上がった。
やべぇ全然原作に辿り着けねぇ。