老人は護岸の上から眺める海が好きだった。
彼が少年だった頃から、海は彼の友達であり先生であり、何よりライバルだった。
脆弱な人間には近づく事もできない渦潮、船そのものが横倒しになりそうな暴風時の高波、海の神が怒ると現れる竜巻。
そんな自然の猛威に果敢に立ち向かい、幾度も水難から人間を救った頑強な老人も、足をケガしてしまってからは見る見るうちに体力が衰え、今では車いすがやっとであった。
「見えるか、ソーマ。あのうずまき島にはよくお世話になったもんだ」
ソーマと呼ばれた青いツボツボはぬっと顔を出し、老人の指先を見た。
殻は成長の過程でどんどん大きく育ち、高さが実に1.5mに達している。
つぶらな瞳で老人を見下ろし、指し示された霞んだ島に首を向けた。
小さなソーマの脳みそでは老人の想いを理解することは叶わなかったが、その島がなんだったかは思い出せた。
「海の神様にお会いできた時は胸が弾んだね。かなり怖かったけど。お前がいなかったら殺されてたんじゃないかな」
わかったのかわかってないのか、ソーマは首を縦に振る。
それを見て老人は笑った。
「お前ともう少しいっしょに生きたかった。だが海の神様は俺を海に召すつもりらしい。ソーマ、一足先に海に潜っていってくれないか」
天の邪鬼なツボツボはそっぽを向いてとっとと海に向かっていく。
だが彼の性格以上にのんきな足取りに、見ている老人がにやついてしまう。
全ポケモン中最鈍の称号はダテでなく、そのヌルッとした黄色い足で重く堅い殻をズルズル引きずる様は、どうして生き残れたのか不思議に思う程だ。
「ソーマは相変わらずだな。泳げないくせに。大丈夫だ、足とお供は付けてやる」
車椅子を後ろから支えているポケモンは、ツボツボと同じく老人のパートナーであるラッキーだ。
老人の目配せでツボツボの方に歩み寄ったが、つぶらな瞳は老人を心から心配していた。
「ハンプティ、俺の心配なんざいらんよ。俺の体はもう明日にでも朽ち果てる。お前たちは俺の最後の形見だ」
老人は目にしみる潮風に白髪をなびかせて、年の瀬に寄る目元の皺を指で軽くつまんだ。
黒い眼は依然として燦然と輝いているのに。
「ふん、俺も変わったな。潮風で鼻がむずがゆいわい」
ツボツボは相変わらず黙って老人を見て、海を見た。
ラッキーも足をそわそわさせ、老人の翻意を待っているようだ。
だが、経験から老人は一度決めたらそうそう曲げない事を知っていた。
ラッキーは敏捷性を上げるツボツボの壺のツボ――秘孔を軽く突くと、護岸の縁に乗った。
波打ち際で待っている足はオオスバメとキングドラだ。
彼らは先に別れを済ませ、最後の旅の支度をしていたのだった。
オオスバメは老人の先代スタメンから産まれた若いポケモンで、バトルでは先発カチコミ役に回されていた。
その証拠だろうか、胸には浅い火傷の痕が残っていた。
今はそこを白いスカーフで隠し、その上から厚いコータス革のポーチを提げている。
ポーチの中身は言わずもがな、既に野生で出会いたくない魔鳥と化していた。
使いどころを間違えなければ暖房器具になるので、老人は丸薬と一緒にポーチに入れておいたのだった。
キングドラは老人の最古参の一匹で、その強靭さは老人が全国を渡り歩いた際によくお世話になったようだ。
「ララ、ラッキー?」
「いや、本当はバジャとジュカイも送るつもりだったが、もうどっかに行っちまったしな。今頃どこにいるのやら」
ラッキーは慣れた手つきでキングドラに乗り、それに習ってツボツボはオオスバメの背中に乗る。
ヌルヌルした手足で巻き付かれてもオオスバメは少しも不快を露わにしなかった。
オオスバメの忠節は並々ならぬ高さで、毅然として佇んでいる。
「お前達とはこれで一旦お別れだ。何、心配はいらん。時渡りの神がまたお前達と引き合わせてくれるさ」
まっすぐ右腕を伸ばして手のひらをポケモンに向けた。
行け、という合図に深い感慨を感じたポケモン達は、大いなる海へ飛び立っていく。
ツボツボは壺に引っ込めた首を老人に向け、やはり無表情に見つめた。
彼は穏やかに笑っていた。
なぜ笑っているのかは、ツボツボには知る由もなかった。
細い人影が点になり、やがて見えなくなっても彼は見続けた。
途中まで一緒だったキングドラとも別れ、夜の闇を覆う銀の帷を越えても黒い真珠は彼を宿していた。