遺物管理局、本日も異常ナシ   作:怪異さん

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どうも「怪異さん」です!

是非お楽しみください!

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ピエロは止まらない

湊は肺が張り裂けそうになるのも構わずがむしゃらに走った。チケットの呪いのせいで大通りは使えない。下手に開けた場所に出ればすぐに追いつかれる。

 

 

湊は入り組んだアトラクションの裏道を必死に駆け抜けた。

 

 

しかし、ピエロの身体能力は異常だった。湊が乗り越えたフェンスを軽々と飛び越え、短いショートカットを使ってじりじりと距離を詰めてくる。そのたびに甲高い笑い声が背後で響き、湊の精神を削っていく。

 

 

(くそっ、このままじゃ捕まる…!)

 

 

焦りが募る中、湊の目にある建物が飛び込んできた。

 

 

『恐怖の館』と書かれた安っぽい西洋風の建物。お化け屋敷だ。

 

 

入り口のドアは半開きになっている。

 

 

(あそこしか、ない…!)

 

 

一瞬の躊躇。怪異から逃れるために、別の怪異の巣窟かもしれない場所に飛び込むなど正気の沙汰ではない。だが、今は背後のピエロから逃れるのが最優先だ。

 

 

湊はお化け屋敷の半開きのドアに滑り込むと、すぐに内側からドアを閉め乱暴に閂をかけた。外から、ドン!とドアを叩く音がしたが、すぐに静かになる。諦めたのだろうか? いや、そんなはずはない。

 

 

お化け屋敷の中は、カビと埃の匂いが充満していた。暗闇に目が慣れてくると、通路の脇に作り物の幽霊や骸骨の人形がぼんやりと浮かび上がる。

 

 

湊は息を殺し、耳を澄ませた。外からは何も聞こえない。

 

 

(別の入り口から入ってくるつもりか…?)

 

 

このまま隠れていても、いずれ見つかる。何か、武器になるものは…。

 

 

湊が周囲を見回した時、壁に設置された一つの装置が目に入った。

 

 

『お客様がここを通過すると、上からアレが落ちてきます!』

 

 

古びた手書きの看板と、赤い大きなボタン。客を驚かせるための古典的なギミックだ。上を見上げると、天井から巨大なタライがロープで吊るされているのが見えた。

 

 

(これだ…!)

 

 

幼稚な罠だ。しかし、油断している相手になら一瞬でも足止めできるかもしれない。

 

 

湊は息を潜めてボタンの近くに身を隠した。そして、お化け屋敷の入り口とは別の出口の方からゆっくりと近づいてくる足音に気づく。

 

 

カラフルな、しかし汚れた靴。だぶだぶのズボン。

 

 

ピエロだ。

 

 

ピエロはまるで散歩でもするかのようにのんびりと通路を進んでくる。その手にはどこから持ってきたのか、巨大なロリポップキャンディの模型を握っていた。武器にするつもりだろう。

 

 

どこに隠れたんだぁい、ボクぅ? かくれんぼはもうおしまいだよぉ…

 

 

ピエロがゆっくりと罠の真下を通り過ぎようとする。

 

 

(今だ…!)

 

 

湊は隠れ場所から飛び出すと同時に、赤いボタンを力いっぱい叩きつけた。

 

 

ガコン!という鈍い音と共に天井のロープが外れる。

 

 

巨大なタライがピエロの頭上めがけて、一直線に落下した。

 

 

――おや?

 

 

ピエロは真上に気づき、素早く反応しようとする。

 

 

しかし、それよりも早くタライがピエロの頭を直撃した。

 

 

――ゴォンッ!!

 

 

およそ人間相手には鳴らないはずの、まるで巨大な鐘を打ち鳴らしたかのような重く、甲高い金属音が響き渡った。

 

 

直撃を受けたピエロはぐらり、と体勢を崩し、その場に膝をつく。

 

 

「やったか…!?」

 

 

湊は、息をのんだ。

 

 

しかし、その期待は次の瞬間、絶望に変わる。

 

 

膝をついたピエロは、ゆっくりと頭にめり込んだタライに手をかけた。そして、まるで窮屈な帽子を脱ぐかのようにぐにゃりと変形したタライをいとも簡単に引き剥がした。

 

 

白塗りの顔には、傷一つない。

 

 

ただ、その裂けた口は先ほどよりもさらに大きく、大きく吊り上がっていた。

 

 

アハハハハハハハハハハッ!! やってくれるじゃないか、ボクぅ!!

 

 

ピエロは、心底楽しそうに叫んだ。

 

 

いいね、いいね! そうこなくっちゃ! 遊びは、もっともっと楽しくなくっちゃあねぇ!!

 

 

本気で、怒らせてしまった。

 

 

湊は目の前の光景に戦慄し、再び出口に向かって走り出した。背後からは先ほどとは比べ物にならない速度で狂気のピエロが追いかけてくる。時間稼ぎは最悪の形で失敗に終わった。

 

 

お化け屋敷を飛び出し、月明かりの下を再び疾走する。

 

 

しかし、チケットの呪いは健在だった。どこへ向かっても結局はメリーゴーランドの前に引き戻されてしまう。

 

 

そして、ついに。

 

 

走り疲れた湊は足がもつれ、メリーゴーランドの中央広場で無様に転倒した。すぐに立ち上がろうとするが、もう体に力が入らない。

 

 

「ハァ…ハァ…っ…」

 

 

すぐそこにピエロがゆっくりと歩み寄ってくるのが見えた。その手には巨大なロリポップキャンディの模型が握られている。もう、遊んではいない。その目は完全に獲物を仕留める捕食者の目をしていた。

 

 

あーあ、もうおしまいかい? つまんないの

 

 

ピエロは心底がっかりしたように言うと、その巨大なキャンディをまるで棍棒のように振り上げた。

 

 

じゃあ、約束通り…

 

 

裂けた口が、三日月のように歪む。

 

 

ぜんぶ、いただくね

 

 

振り下ろされる凶器。湊は死を覚悟し、ぎゅっと目を瞑った。

 

 

――しかし、衝撃は来なかった。

 

 

代わりにすぐ側で、心底面倒くさそうな聞き慣れた声がした。

 

 

「おいおい……ピエロごときに手こずってんじゃねえよ、ガキ」

 

 

湊が恐る恐る目を開けると、そこにはいつの間にか久遠玲が立っていた。

 

 

彼は湊の前に立ちはだかるように立つと、振り下ろされた巨大なキャンディを片手でいともたやすく受け止めていた。

 

 

な…

 

 

ピエロが初めて驚愕の声を漏らす。

 

 

久遠はそんなピエロの顔を値踏みするように見ると、うんざりしたようにため息をついた。

 

 

「ああ、お前ここの地縛霊か。噂には聞いてたが、思ったよりしょーもねえな。こんな雑魚に時間かけてたのかよ、こいつは」

 

 

き、さま…何者だ…?

 

 

「遺物管理局の者だが、お前みたいな未登録の怪異に名乗る義理はねえな」

 

 

次の瞬間、久遠はキャンディを掴んだまま信じられない力でピエロを片手で投げ飛ばした。ピエロは数メートル吹き飛び、メリーゴーランドの馬に叩きつけられ、ぐしゃりという鈍い音を立てる。

 

 

「さて、と…」

 

 

久遠は、ポケットから黒い手袋を取り出し、ゆっくりとはめながら言った。

 

 

「テストは、まあギリギリ合格にしてやる。観覧車に登った根性は褒めてやってもいい。だがな、俺の仕事の邪魔をした挙句、余計な手間を増やしてくれた落とし前はきっちりつけてもらうぞ」

 

 

久遠はゆっくりと起き上がろうとするピエロの方へ向き直る。その目は、もはや眠たげではなかった。獲物を前にした冷徹な狩人の目をしていた。

 

 

「まずはそこの道化を掃除してからだ。ああ、面倒くせえ…本当に、面倒くせえな…」

 

 

その呟きとは裏腹に、久遠の体からはピエロの比ではない圧倒的なプレッシャーと殺気が放たれていた。

 

 

湊は自分を追い詰めたピエロが、今度は逆に「狩られる側」になったことを肌で理解した。

 

 

ピエロはメリーゴーランドの馬に叩きつけられた衝撃から、ぎこちなく体を起こした。その裂けた口からは黒い血のような液体が滴り、憎悪に満ちた目で久遠を睨みつけている。

 

 

よくも…よくもやってくれたなァ…! オマエもガキと一緒に喰ってやる…!

 

 

「ああ、面倒くせえ…」

 

 

久遠はゆっくりと起き上がるピエロを一瞥すると、コートの内ポケットに手を入れた。そして取り出したのは、一本の錆びついた古い鉄道の釘だった。長さは20センチほどで、およそ武器には見えない。

 

 

「おい、ガキ。よく見とけ」

 

 

久遠は釘を逆手に持ちながら、へたり込んでいる湊に言った。

 

 

「怪異や呪いみてえなこの世の理から逸脱した存在はな、ただの拳やナイフじゃ殺せねえ。物理的な肉体を破壊しても、奴らの本体である『概念』や『霊核』を潰さなきゃ何度でも蘇る。だから、俺たちはこういうのを使う」

 

 

久遠は、錆びた釘をひらりと見せる。

 

 

「【クラスC遺物:最後の枕木】。かつて、人身事故が多発した曰く付きの路線があった。その最後のレールを固定していた枕木の釘だ。数えきれないほどの『死』と『終わり』を記憶したこの釘は、あらゆる存在の『物語』を強制的に終わらせる力を持つ。まあ要するに、幽霊だろうが悪魔だろうがこれで刺されりゃきっちり『死ぬ』ってこった」

 

 

その説明が終わるか終わらないかのうちに、ピエロが動いた。壁を蹴り、天井を駆け、常人離れした三次元的な動きで久遠に襲い掛かる。

 

 

その爪は鋭く伸び、湊の喉を切り裂こうとした時よりも遥かに殺意を増していた。

 

 

しかし、久遠は全く動じなかった。

 

 

「――遅えよ」

 

 

ピエロが真上から奇襲をかけた瞬間、久遠の姿が掻き消えた。いや、消えたのではない。ピエロの動きを完全に見切り、その懐に潜り込んでいただけだ。

 

 

なっ!?

 

 

驚愕するピエロの腹部に、久遠は錆びた釘をまるで注射でも打つかのように軽く、しかし的確に突き刺した。

 

 

――プスリ。

 

 

あまりにも、あっけない音だった。

 

 

あ……が……?

 

 

ピエロの動きが、ぴたりと止まる。

 

 

腹部に刺さった釘の周囲から、ピエロの体がまるで古いフィルムが燃えるように黒い粒子となって崩れ始めた。

 

 

オ…オレは…死なない…! この遊園地がある限り、オレは…!

 

 

「ああ、死なねえよ。お前は」

 

 

久遠は、冷たく言い放った。

 

 

「お前は、『終わる』んだ。お前の存在、お前の物語、お前に関する全ての記憶。その全てがここで完全に終了する」

 

 

その言葉が、宣告だった。

 

 

ピエロは断末魔の叫びを上げる間もなく、全身が急速に黒い粒子へと変わっていく。その顔に浮かんでいたのは、恐怖。自分という存在そのものが「無」に帰すことへの根源的な恐怖だった。

 

 

数秒後。

 

 

ピエロがいた場所には何も残らなかった。まるで、最初からそんなものは存在しなかったかのように。ただ、カラフルな衣装の切れ端がはらりと地面に落ちただけだった。

 

 

久遠はピエロが消えた空間から釘を抜き取ると、付着した黒い粒子を気だるげに払い、再びコートのポケットにしまった。

 

 

「…さて、と。掃除完了。後始末面倒くせえ…」

 

 

久遠は呆然と目の前の光景を見つめる湊の方を振り返った。

 

 

「立てるか、ガキ。お前のテストはこれで本当に終わりだ。さっさと『儀式』を済ませて、帰るぞ」

 

 

湊は声も出せずに、ただ頷くことしかできなかった。

 

 

自分をあれほど追い詰めた怪物が赤子の手をひねるように処理された。目の前の男は一体、何者なのか。その力の底はどこまで深いのか。

 

 

湊は自分が足を踏み入れた世界の本当の恐ろしさと、その理不尽なまでの力の差を改めて思い知らされていた。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

久遠に促され、湊はふらつく足で立ち上がった。ピエロが消え去ったメリーゴーランドはただの静かな廃墟に戻っている。先ほどまでの狂気が嘘のようだ。

 

 

「で、あの…『儀式』はここで?」

 

 

湊は恐る恐る尋ねた。儀式、というからには何か魔法陣を描いたり、呪文を唱えたりするのだろうか。この不気味な遊園地で一体何をさせられるのかと身構える。

 

 

しかし、久遠の答えはまたしても湊の予想を裏切るものだった。

 

 

「あ? こんなとこでやるわけねえだろ。埃っぽいし、面倒くせえ。帰るぞ」

 

 

久遠はそう言うと、湊が握りしめていた「迷子のチケット」をひったくった。すると、不思議なことにあれほど出口が分からなくなっていた遊園地の風景がすっと正常に戻る。ゲートの明かりが真っ直ぐ先に見えていた。

 

 

「ほら、行くぞ。終電なくなっちまうだろ」

 

 

久遠に連れられてたどり着いたのは、何の変哲もない駅前のコインランドリーだった。深夜のため客は誰もいない。乾燥機がゴウンゴウンと低い音を立てて回っているだけだ。

 

 

「…ここで、儀式を?」

 

 

「ああ」

 

 

久遠は、店内に設置されたジュースの自動販売機で缶コーヒーを二本買うと、そのうちの一本を湊に放り投げた。

 

 

「とりあえず座れ」

 

 

二人は洗濯機が並ぶ前の長椅子に腰を下ろした。久遠は心底面倒くさそうに缶コーヒーを一口飲むと、おもむろに口を開く。

 

 

「いいか、ガキ。お前に染みついた"匂い"は、お前が『天使のドクロ』に触れたことでお前の魂が『高カロリーな餌』に変化しかけた名残だ。怪異ってのは、そういう魂の『変化』に敏感に群がってくる」

 

 

「はあ…」

 

 

「だから、その匂いを消すにはお前の魂の状態をもう一度『不味そうな餌』…つまり、元のつまんねえ一般人の状態にリセットしてやればいい」

 

 

「リセット…」

 

 

いよいよ、何か大掛かりなことが始まるのか。湊はゴクリと喉を鳴らした。

 

 

すると、久遠はポケットから小さな銀色のタブレットケースを取り出した。そして、中からラムネ菓子のような白い錠剤を一つ指でつまむ。

 

 

「ほら、口開けろ」

 

 

「え?」

 

 

「いいから、早くしろ。面倒くせえな」

 

 

湊が言われるがままにぽかんと口を開けると、久遠はその錠剤を湊の口の中にぽいと放り込んだ。ほんのりとした甘さと、ミントのような清涼感が口に広がる。ただのラムネ菓子にしか思えない。

 

 

「…飲み込め」

 

 

湊が戸惑いながらもその錠剤を飲み込むと、久遠は満足げに頷いた。

 

 

「はい、儀式おわり」

 

 

「………………え?」

 

 

湊は呆然とした。

 

 

儀式。それはこのラムネ菓子を飲むことだったのか?

 

 

「そ、それだけ…ですか…? 本当にこれで祓えたんですか…?」

 

 

「ああ。【クラスE遺物:賢者の退屈】。どんなに刺激的な出来事も、どんなに昂った感情も、これを一粒飲めば『まあ、どうでもいいか』って気分にさせて、精神状態を完全にフラットに戻しちまう遺物だ。元は世界中のあらゆる娯楽に飽き飽きした大富豪が、晩年に舐めてたただの清涼菓子だったらしいがな」

 

 

久遠は空になったコーヒーの缶をゴミ箱に投げ入れながら続けた。

 

 

「お前の魂が『どうでもいい』状態に戻ったからな。怪異どもからすりゃ、さっきまでの『美味そうな匂い』が、急に無味無臭の石ころみてえな匂いに変わったようなもんだ。もう誰も興味を示さねえよ。よかったな」

 

 

あまりにも、あっけない結末。

 

 

命がけで観覧車に登り、化け物に追いかけ回されたあの悪夢のような一夜。その原因となった呪いの残滓がたった一粒のラムネ菓子で消え去った。

 

 

湊は本当にこれで大丈夫なのかという不安と、助かったという安堵。そして、あまりの拍子抜けにただただ呆然とコインランドリーの乾燥機が回るのを眺めていることしかできなかった。

 

 

「さて、と。じゃあ俺はこれで帰る。お前もさっさと家に帰って寝ろ。学校あんだろ」

 

 

久遠は長椅子から立ち上がると、背中を向けてコインランドリーの出口へと向かった。そのあっさりとした別れの言葉に、湊ははっと我に返る。

 

 

「あ、あのっ! 待ってください!」

 

 

湊は慌てて立ち上がり、去っていく久遠の前に回り込むと、その場で深く、深く頭を下げた。学校の制服は泥と錆で汚れ、体中が傷だらけだった。

 

 

「本当に…本当に、ありがとうございました…!」

 

 

堰を切ったように、感情が溢れ出した。

 

 

死ぬかと思った恐怖。助かったという安堵。そして、目の前の男に対する純粋な感謝。湊の目からは自分でも気づかないうちに、大粒の涙がこぼれ落ちていた。

 

 

「俺、あなたがいなかったら、本当に…! あのまま死んでました…! 本当になんてお礼を言ったらいいか…!」

 

 

地面にぽたぽたと涙が落ちる。

 

 

しかし、久遠の反応は感動的な場面とは程遠いものだった。

 

 

「あー、もういい、いい。そういうの。面倒くせえからやめろ」

 

 

久遠はボサボサの頭をガリガリと掻きながら、心底鬱陶しそうに言った。その顔は少しだけ照れているようにも、本気で面倒くさがっているようにも見えた。

 

 

「お前を助けたのは俺の気まぐれと、後始末がこれ以上増えるのが嫌だっただけだ。勘違いすんな。それに…」

 

 

久遠は、湊の肩を軽く叩いた。

 

 

「タダで助けてやったわけじゃねえぞ。お前には俺に対してデカい『借り』ができた。金がねえなら、体で払ってもらうって言ったよな?」

 

 

その言葉に、湊は顔を上げた。久遠はニヤリと、悪魔のような笑みを浮かべていた。

 

 

「お前、明日から俺のパシリな。俺が面倒くさいって思うしょーもない雑用をお前に全部やらせることにした。これは決定事項だ。拒否権はねえ」

 

 

そして、久遠は湊の耳元で不吉な一言を囁いた。

 

 

「明日からよろしくな、後輩」

 

 

それだけを言い残し、久遠は今度こそ本当に背を向けると夜の闇に気だるげに消えていった。

 

 

一人残された湊は感謝の涙も引っ込み、ただ呆然と立ち尽くすしかなかった。

 

 

こうして、影山湊の平穏な日常は完全に終わりを告げた。人知を超えた怪異と、それ以上に理不尽で自分勝手な先輩との面倒で、危険で、そして奇妙な非日常が今、幕を開けたのだ。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

翌日。

 

 

湊は昨夜の出来事がまるで悪夢だったかのように、いつもと同じ時間に目を覚ました。体中に残る痛みと無数の擦り傷だけが、あれが現実だったと告げている。

 

 

『明日からよろしくな、後輩』

 

 

久遠の不吉な言葉が脳裏をよぎり、重い足取りで学校へ向かった。

 

 

幸い、学校にいる間は何も起こらなかった。怪異の気配もなければ、久遠からの連絡もない。授業は相変わらず退屈だったが、昨日までの恐怖に比べればこの退屈さこそが幸福なのだと湊は痛感していた。

 

 

(もしかしたら、昨日の話は冗談だったのかも…)

 

 

そんな淡い期待を抱きながら、放課後のチャイムと共に湊はそそくさと帰宅の準備を始めた。

 

 

しかし、その期待は校門をくぐろうとした瞬間に無残にも打ち砕かれた。

 

 

校門の前に見慣れた人だかりができていた。そして、その中心にいるのはボサボサの銀髪に、着古した黒いロングコート。どう見ても健全な学校の風景から浮きまくっている久遠玲その人だった。

 

 

そして案の定、彼は二人の制服警官に囲まれ職務質問を受けていた。

 

 

「だから! 怪しいもんじゃねえって言ってんだろ! ほらこれ、身分証! 文化庁の遺物管理局! あんたらの上司に確認すりゃ一発で分かるから!」

 

 

久遠は心底面倒くさそうに身分証を警官に突きつけている。

 

 

しかし、警官たちはその胡散臭い見た目と「遺物管理局」という聞き慣れない所属にますます疑いの目を向けていた。

 

 

「文化庁…? ちょっと、本部に確認しますので、こちらへ…」

 

 

「あーもう! これだから末端の人間は話が通じなくて面倒なんだよ!」

 

 

湊はその光景を呆然と見つめていた。関わりたくない。今すぐ踵を返して別の出口から帰りたい。しかし、久遠の目がばっちりと湊を捉えた。

 

 

「お、おい待て! 俺の知り合いだってこいつらに言ってやれ!」

 

 

最悪だ。

 

 

クラスメイトたちが「え、影山くんの知り合い?」「うわ、ヤバ…」とヒソヒソ話しているのが聞こえる。湊は顔から火が出る思いだったが、ここで見捨てて後でどんな面倒が待っているかを想像すると、選択肢はなかった。

 

 

「あ、あの…!」

 

 

湊は意を決して人だかりをかき分け、警官たちの前に出た。

 

 

「こ、この人は俺の…ええと、親戚の兄です! ちょっと見た目はアレですけど、悪い人じゃなくて…!」

 

 

苦しすぎる言い訳。しかし、制服を着た生徒である湊が庇ったことで警官たちの警戒も少しだけ解けたようだった。彼らは久遠の身分証と湊の顔を何度か見比べた後、「まあ、学生さんの知り合いなら…」「お騒がせしました」と、渋々その場を解放した。

 

 

「…チッ。これだから下の奴らは融通が利かねえ。報告書一枚出すのも面倒なのに、余計な手間を…」

 

 

解放された久遠はまだグチグチと文句を言っている。湊は周囲の好奇の視線に耐えながら、小声で久遠に問いかけた。

 

 

「な…っ、何でここにいるんですか!? しかも俺の学校に…!」

 

 

すると、久遠は心底意外だという顔で湊をまじまじと見つめた。

 

 

「は?」

 

 

その表情はまるで「何を当たり前のことを言っているんだ?」とでも言いたげだった。

 

 

「いや、だから言ったろ。お前は今日から俺のパシリだって」

 

 

久遠はニヤリと笑うと、一枚の写真を湊の顔の前に突きつけた。

 

 

「早速だが、最初の仕事だ。この写真に写ってるもん探してこい。ああ、もちろんお前の小遣いでな」

 

 

久遠は当たり前のように話を進めようとする。

 

 

しかし、湊はもう黙ってはいなかった。

 

 

「いやいやいや、ちょっと待ってください!」

 

 

湊は周囲の目も忘れ、思わず大声で久遠の腕を掴んで話を遮った。

 

 

「パシリって…! あれ、本気だったんですか!?」

 

 

冗談であってくれ、という必死の願いを込めて問いかける。

 

 

しかし、久遠はそんな湊の願いを打ち砕くように一切の感情を消した真顔でただ一言、こう返した。

 

 

「うん」

 

 

そのあまりにもあっさりとした肯定に、湊の思考は数秒間完全に停止した。目の前の男は本気で自分を便利な雑用係として使うつもりらしい。悪夢のような一夜は、まだ終わっていなかったのだ。

 

 

湊が絶望に打ちひしがれていると、久遠は心底面倒くさそうに深いため息をついた。

 

 

「…お前なあ。俺がただの気まぐれでそこらのガキを捕まえてパシリにするような暇人に見えるか?」

 

 

「見えます」

 

 

湊が食い気味に即答すると、久遠は一瞬眉をひそめたが、すぐに話を続けた。

 

 

「…まあいい。いいか、よく聞け。お前には才能がある」

 

 

「…才能?」

 

 

予想外の言葉に、湊は思わず聞き返した。

 

 

「ああ。二つの才能だ。一つは『呪具』や『遺物』といったこの世の理から外れたモノを見つけ出し、引き寄せる才能。お前がガラクタだと思って集めてたコレクションの中にあの『天使のドクロ』が紛れ込んだのは偶然じゃねえ。お前のその面倒な才能のせいだ」

 

 

久遠は湊の目をじっと見つめて言った。

 

 

「そして、もう一つ。昨日のピエロの件だ」

 

 

久遠は昨夜の廃遊園地を思い出すように、少しだけ目を細めた。

 

 

「確かにな、あのピエロは俺たちからすりゃ弱い部類だ。だが、それはあくまで『俺たち』基準の話だ。何の力も持たないただの素人が怪異に本気で追われて、あそこまで生き残り時間稼ぎまでやってのけるのは、普通じゃありえねえ。お前には土壇場での生存能力と、悪運の強さがある。それも立派な才能だ」

 

 

久遠はそこで一度言葉を切ると、再びいつもの気だるげな表情に戻った。

 

 

「俺はお前のその才能に価値を見出した。だから生かして、そばに置いて、利用することにした。それだけだ。分かったか?」

 

 

それは褒めているようで、結局は「お前は利用価値があるから生かしておいてやる」というあまりにも一方的で傲慢な宣告だった。

 

 

しかし、湊は反論できなかった。自分にそんな才能があるなど信じがたい。だが、この男の言うことには奇妙な説得力があった。

 

 

「…納得、できませんけど…」

 

 

「しなくていい。お前は俺の言う通りに動けばいいだけだ。で、話の続きだが…」

 

 

久遠は湊の目の前に写真を突きつけた。

 

 

「これが、お前の最初の仕事だ」

 

 

久遠は湊の目の前に突きつけた写真をひらひらと振った。

 

 

そこに写っていたのはごく普通の、どこにでもあるファミリーレストランのドリンクバーの写真だった。様々なジュースが並ぶ、見慣れた光景だ。

 

 

「…ファミレス、ですか?」

 

 

「ああ。お前から見て一番近くにある有名チェーン店『ジョイドルベル』だ。ウチの情報網によると、ここの店舗のどこかにとある遺物が紛れ込んでるって噂が入った」

 

 

久遠は写真の隅を指さした。そこには、メロンソーダのディスペンサーの隣に申し訳程度に置かれた、何の変哲もないウォーターサーバーが写っている。

 

 

「お前の仕事は、この店舗に潜入してその遺物を特定し、回収してくることだ」

 

 

久遠はもう一枚、今度は古びたスケッチのような画像を見せた。そこには奇妙な模様が刻まれた、古びた蛇口が描かれている。

 

 

「目標は【クラスD遺物:嘆きの蛇口】。取り付けられたサーバーや水道から出る水を、全て『誰かが死ぬ間際に飲みたかった水』に変えちまう、悪趣味な遺物だ。飲んでもすぐにどうこうなるわけじゃねえが、飲み続けると精神に影響が出て鬱になったり、最悪の場合後追い自殺したりする。放っておくと、この店の店員や常連がある日突然集団で鬱になる可能性があるな」

 

 

湊はゴクリと喉を鳴らした。その時、昨夜からの疑問が口をついて出た。

 

 

「あ、あの…昨日も思ったんですけど、そのクラスDとかEとかって、何なんですか?」

 

 

湊の質問に久遠は「ああ、そういや説明してなかったな」と、面倒くさそうに頭を掻いた。

 

 

「遺物の危険度ランクだ。俺たち管理局がそいつのヤバさに応じて勝手に付けてるだけだがな。下からE、D、C、B、A、S。そして、規格外の『不明』。まあ、大まかな目安だ」

 

 

久遠は指を折りながら説明を始めた。

 

 

「クラスEは、お前が昨日取ってきた『迷子のチケット』みたいな、『ちょっと迷惑』なだけのガラクタだ。人に直接的な害はほとんどねえ。俺からすりゃ、ただのゴミ拾いだ」

 

 

「クラスDは、今お前が狙ってる『嘆きの蛇口』みたいに『放置すると面倒なことになる』レベル。じわじわ精神を蝕んだり、小規模な怪奇現象を起こしたりする。まあ、風邪みたいなもんだな。こじらせると厄介だ」

 

 

「クラスCは、俺が昨日使った『最後の枕木』みたいな、『明確な殺傷能力や異常性を持つ』やつらだ。ここからが本格的に『兵器』や『呪い』として扱われる。素人が手を出せば、まず死ぬ」

 

 

「クラスBは、お前が持ってた『天使のドクロ』。『広範囲、あるいは複数の人間に、深刻な被害を及ぼす』代物だ。町一つがパニックになったり、一つの組織が壊滅したりするレベル。俺でも単独での対処は面倒くさくてやりたくねえ」

 

 

「クラスA以上は、『国家、あるいは世界の存続に関わる』レベルの災害誘発兵器だ。お前が知る必要はねえ。もし遭遇したら、何も考えずに逃げろ。まあ、逃げ切れる可能性はゼロに近いがな」

 

 

淡々と語られる恐ろしい事実。湊は自分がクラスBというとんでもない代物に触れていたことを改めて思い知り、背筋が凍る思いだった。

 

 

「そ、そんな危ないものを俺一人で…!?」

 

 

「うるせえな。だからお前の才能を使えって言ってんだよ。お前ならあのウォーターサーバーが怪しいかどうか匂いで分かるはずだ。それに、クラスDなんざ俺がわざわざ動くほどの案件じゃねえ」

 

 

久遠は心底面倒くさそうに付け加えた。

 

 

「期限は二週間。それまでにあの蛇口を誰にも気づかれずに、普通の蛇口とすり替えて俺のところに持ってこい。どうやってすり替えるかはお前が考えろ。客として通い詰めるなり、バイトとして潜入するなり、好きにしろ」

 

 

あまりにも無茶苦茶な要求だった。ただでさえ危険な遺物をすり替えて盗んでこいと言っているのだ。それはもはや遺物回収というよりただの犯罪ではないか。

 

 

「もちろん経費は出ねえからな。ファミレス代も、交換用の蛇口代も全部お前の小遣いでやれ。これもお前が俺に作った『借り』を返すための一環だと思え」

 

 

「そんな無茶苦茶な…!」

 

 

「無茶じゃねえ。これはお前にとっての訓練だ。せいぜい頭使って頑張れよ、後輩」

 

 

久遠は、それだけを一方的に告げると、「じゃ、報告待ってるから」と手をひらひら振り今度こそ本当に人混みの中へと消えていった。

 

 

一人残された湊は手のひらに残された二枚の写真を見つめ、呆然と立ち尽くす。

 

 

久遠が人混みに消えた後も、湊はしばらくその場から動けなかった。

 

 

ファミレスのドリンクバーの写真と、不気味な蛇口のスケッチ。そして「二週間以内に回収しろ」という無茶な命令。

 

 

(どうしろって言うんだよ、これ…)

 

 

ただの高校生に店の備品を盗んでこいなど、あまりにも無謀だ。そもそも、本当にあのファミレスにそんな危険な遺物があるというのか。

 

 

こうして、彼の記念すべき最初の「仕事」は、ファミレスの蛇口交換というあまりにも地味で、あまりにも面倒で、そして確実に人生を詰みかねない最悪の形で幕を開けたのだった。




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