遺物管理局、本日も異常ナシ 作:怪異さん
湊君の初任務はどうなるでしょうか……
是非お楽しみください!
感想や評価もお願いします!
湊は半信半疑のまま、ため息をつきながらスマートフォンを取り出した。まずは敵を知ることからだ。彼は検索サイトで『ジョイドルベル 〇〇店』と入力し、口コミサイトを開いた。
『ジョイドルベル』は、学生なら誰もが一度は利用したことがあるであろうごく普通のファミリーレストランだ。
安価で、長居しやすく、テスト期間中などは学生でごった返している。湊も何度か利用したことがあった。
(特に変わったところなんてなかったはずだけど…)
湊は口コミを一つ一つスクロールしていく。
『ハンバーグが美味しい!』
『店員さんの対応が丁寧でした』
『Wi-Fiがもう少し速いと嬉しい』
『店員の対応が遅いし飯もマズい』
どれも、どこにでもあるようなありふれた内容だ。
しかし、いくつもの口コミを読み進めていくうちに湊は一つの奇妙な事実に気づいた。
「…なんだ、これ?」
その店舗の総合評価が、異様に高いのだ。
全国に数百店舗を展開する『ジョイドルベル』の平均評価が5段階中3.5前後なのに対し、この店舗の評価はなんと4.8。驚異的な高評価だ。レビューの数も他の店舗に比べて明らかに多い。
(なんで、この店だけこんなに評価が…?)
料理の味が特別だとか、限定メニューがあるというわけでもない。ただのどこにでもある『ジョイドルベル』のはずだ。
湊は高評価レビューの内容をより注意深く読み始めた。すると、賞賛のコメントの中に時折奇妙な一文が紛れ込んでいることに気づく。
『ここのハンバーグは最高! ドリンクバーもいいけど、特にあのお水は格別だね。心が洗われるようだよ』
『テスト勉強で利用しました。集中できたのはあのお水を飲んでたからかも。また来ます』
『最近仕事で嫌なことばかりだったけど、ここのお店に来てあの水を飲んでるだけでなんだか全部どうでもよくなった。不思議な場所だ』
そして、中にはもっと直接的な書き込みもあった。
『あそこの水は特別だ。人生に疲れた者は一度あそこの水を飲みに行くといい。きっと、救われる』
それは、もはや料理やサービスの評価ではなかった。まるで、カルト宗教の信者が聖地の「奇跡の水」について語っているかのような、熱に浮かされたような文章。
久遠の言葉が、湊の脳裏に蘇る。
『──飲んでもすぐにどうこうなるわけじゃねえが、飲み続けると精神に影響が出て鬱になったり、最悪の場合後追い自殺したりする』
口コミで「救われた」「心が洗われる」と書いている人々は遺物の力によって精神を蝕まれ始めているのではないか。ポジティブに見えるその感情は破滅へと向かう、危険な兆候なのではないか。
湊はスマートフォンの画面を見つめながら、ごくりと喉を鳴らした。
(行くしか、ないか…)
湊は覚悟を決めて制服のポケットから財布を取り出した。中には数枚の千円札と、小銭が少し。次の小遣い日まではまだ遠い。久遠の理不尽な命令のせいで虎の子の貯金を切り崩す羽目になる。
湊は深いため息をつきながらも財布をポケットに押し込み、問題のファミリーレストラン『ジョイドルベル』へと、重い足取りで向かおうとした。
その時だった。
「あの…影山くん?」
背後から遠慮がちな、しかし芯の通った声がした。
振り返ると、そこに立っていたのは陽葵だった。彼女はちょうど校舎から出てきたところらしく、スクールバッグを肩にかけていた。
「さっきからすごく浮かない顔してるけど…どうかしたの? 校門の前でもなんだか変な人に絡まれてたみたいだし…」
陽葵は心配そうに湊の顔を覗き込んできた。彼女の真っ直ぐな瞳に湊は少しだけ罪悪感を覚える。彼女をこんな危険なことに関わらせるわけにはいかない。
「…いや、何でもない。ちょっと考え事してただけだから」
湊はぶっきらぼうにそう答えると、彼女から視線を逸らした。
「それより俺これからジョイドルベル行くから。じゃあな」
そう言って立ち去ろうとした湊の腕を、しかし、陽葵は慌てて掴んだ。
「え、待って! 私も一緒に行ってもいいかな? 実は、新発売のパフェが気になってて…一人じゃ入りにくかったんだ」
陽葵は少しだけ頬を赤らめながら、上目遣いで湊を見つめてくる。
その申し出に湊は一瞬断ろうと考えた。危険な場所に彼女を連れて行くなんて。
しかし次の瞬間、別の考えが頭をよぎる。
(…いや、待てよ。一人で店の中をジロジロ見て回るより、誰かと一緒の方が怪しまれにくいんじゃないか?)
特に陽葵のような、どこからどう見ても普通の明るい女子高生と一緒ならなおさらだ。彼女は最高のカモフラージュになる。
湊は心の中で芽生えた打算的な考えに一瞬ためらいつつも、その誘いに乗ることにした。
「…別に、いいけど」
「ほんと!? やった!」
湊の素っ気ない返事にもかかわらず、陽葵は嬉しそうに笑った。
二人は連れ立って『ジョイドルベル』へと向かった。
時刻は午後4時半。夕食にはまだ早く、ティータイムとしては少し遅い時間帯だったが、店内には学生や主婦のグループがそこそこ入っており賑わっていた。
「いらっしゃいませー! お好きな席へどうぞー!」
入り口で待っていると、すぐに若い女性店員が笑顔で現れ、丁寧な接客で席へと案内してくれる。どこからどう見ても普通の感じの良いファミリーレストランだ。
「はーい!」
陽葵は元気よく返事をすると、店員の後に続いていく。湊も少し遅れてその後に続いた。
心の中では彼女を利用することへの罪悪感が渦巻いていた。
しかし、それ以上にこの店のどこかに潜んでいるという【クラスD遺物】への警戒心が湊の思考を支配していた。
案内されたのは窓際の四人掛けテーブルだった。陽葵は嬉しそうに奥の席に座り、早速メニューを広げた。
「わー、見て見て影山くん! この新作のいちごパフェ、すっごく美味しそう!」
陽葵が目を輝かせながらメニューを指さす。その無邪気な様子に湊は内心の緊張を悟られないよう努めて冷静に相槌を打った。
「ああ、そうだな」
湊もメニューを手に取る。しかし、その目は文字を追ってはいなかった。彼はメニューを盾にするようにして慎重に店内の様子を窺う。
客たちは楽しそうに談笑している学生グループ、子供の世話を焼く若い母親たち、一人で静かに本を読んでいる老人など、様々だ。店員たちもきびきびと、しかし笑顔を絶やさずに働いている。
どこにもおかしなところは見当たらない。誰もがごく普通の日常を送っているように見える。
(いや、違う…)
湊は自分に言い聞かせた。
そう簡単に見てわかるような異変があれば今頃、口コミサイトどころではないもっと大きな問題になっているはずだ。久遠の言う通りこの遺物は「じわじわと」精神を蝕むタイプなのだ。この平穏に見える光景こそが、最も警戒すべき状況なのかもしれない。
「ご注文はお決まりですか?」
店員が注文を取りに来た。陽葵は待ってましたとばかりに元気よく答える。
「はい! この『たっぷりいちごのプリンセスパフェ』と、ドリンクバーをお願いします!」
「俺は…えっと、フライドポテトとドリンクバーで」
湊も怪しまれないように当たり障りのないメニューを注文した。
注文を終えると、湊は改めて店の中央に設置されたドリンクバーへと視線を向けた。
オレンジジュース、コーラ、メロンソーダ…色とりどりのディスペンサーが並ぶ見慣れた光景。そして、その一番端に目的のウォーターサーバーが鎮座している。
見た目は本当にどこにでもあるごく普通のウォーターサーバーだ。銀色のボディに、青いボトルが乗っている。何も違和感はない。湊の「才能」とやらもこの距離では何も感じなかった。
(やはり、近くに行かないと分からないか…)
湊は意を決して席を立とうとした。ドリンクを取りに行くふりをして、あのウォーターサーバーを間近で確認するのだ。
しかし、湊が腰を浮かせたその時、陽葵がぽつりと呟いた。
「…なんだか、久しぶりだね。こうやって影山くんと二人でファミレスに来るの」
その言葉に、湊の動きが止まる。
陽葵はメニューから顔を上げ、少しだけ寂しそうな、それでいて嬉しそうな複雑な表情で窓の外を見ていた。
「中学の時とか、よくテスト勉強って言ってみんなで来てたよね」
「…ああ、そうだな」
湊は彼女の視線から逃れるように短く、適当に言葉を返した。
彼女の言う通りだった。いつからだろうか。自分が呪具集めなんていう趣味に没頭し始めてから、こうして誰かと放課後を過ごすことがめっきりと減っていた。
湊の胸にチクリとした痛みが走る。それは失われた日常の記憶と、目の前の少女に対する微かな罪悪感だった。
しかし、感傷に浸っている暇はない。湊はその感情を振り払うように席を立った。
「…ドリンク、取ってくる」
「あ、じゃあ私も行こーっと!」
湊がそう言うと、陽葵も嬉しそうに席を立ち彼の後についてきた。
二人はドリンクバーの前に並んで立つ。湊はグラスを一つ手に取ると、目的であるウォーターサーバーの真正面へと進んだ。
心臓が少しだけ速くなるのを感じる。久遠の言う「才能」とやらが何かを感じ取るはずだ。異様な気配、不吉な予感、魂に訴えかける何か…。
しかし、何も感じなかった。
目の前にあるのはただのウォーターサーバーだ。ステンレスのボディは綺麗に磨かれており、清潔感がある。蛇口もごく一般的な形状のものだ。久遠が見せたスケッチのような、奇妙な模様は見当たらない。
(おかしいな…何も感じないぞ…?)
湊は焦りを感じた。才能があるなんて言われたが、結局自分には何も分からないのではないか。
ふと、隣に視線を移す。
陽葵がコーラとメロンソーダのディスペンサーの前で、「うーん、どっちにしようかなぁ…」と真剣な顔で悩んでいた。そのあまりにも平和で日常的な光景に、湊は自分が今やろうとしていることの異常さを改めて思い知らされる。
(…よそ見してる場合じゃない)
湊は自分に言い聞かせ意を決した。
彼はウォーターサーバーの蛇口の下にグラスを置くと、レバーを押し込んだ。
──コポコポコポ…。
透明な液体が、グラスに注がれていく。湊は五感を研ぎ澄ませた。何か変化はないか。異様なオーラは? 不吉な音は?
しかし、やはり何も起こらない。見た目はどこからどう見てもただの「水」だ。
湊はグラスを鼻に近づけ、慎重に匂いを嗅いでみた。塩素の匂いすらない、完全な無臭。
(なんだ…? ただの水じゃないか…)
拍子抜けするほど、普通だった。久遠の情報が間違っていたのか? それとも、自分の才能とやらが全くの役立たずなのか?
湊がグラスの中の透明な液体を見つめ、混乱していると隣でようやく決心がついたらしい陽葵がメロンソーダを注ぎながら話しかけてきた。
「影山くん、お水飲むの? なんか意外。いつも炭酸ばっかりなイメージだったから」
「あ、ああ…まあ、たまにはな」
湊は動揺を悟られないよう曖昧に返事をした。
この、ただの水にしか見えない液体。これを飲むべきか飲まざるべきか。久遠は言っていた。『飲むと精神に影響が出る』と。
一口でも飲めば、自分もあの口コミを書いていた人々のようになってしまうのだろうか。
湊はグラスを持つ手にじっとりと汗が滲むのを感じていた。数秒間、グラスの中の透明な液体を睨みつけるように見つめる。
しかし、このままでは何も分からない。久遠の言う「才能」とやらが当てにならない以上、自分で確かめるしかない。それに一口くらいなら大丈夫なはずだ。
湊は意を決した。グラスを口元へと運び、中の水をごくりと一口だけ喉に流し込んだ。
「…………」
味はない。温度は常温。喉越しはごく普通
ただの、水だ。
特に美味しいともまずいとも感じない。ミネラルウォーターと言われればそうかもしれないし、水道水だと言われればそうかもしれない。何の変哲もない、ただの水。
(…なんだ、これ…)
飲んですぐに症状が出るわけではない、と久遠は言っていた。だが、それにしてもあまりにも何も感じなさすぎる。魂に訴えかけるような特別な「何か」は微塵も感じられない。
本当に、ここに遺物はあるのか?
久遠が言っていた「才能」とやらは、全くの嘘っぱちだったのか?
それとも、そもそも遺物なんてものは存在せず、自分はあの銀髪の男にからかわれているだけなのではないか?
湊はグラスを持ったまま、その場でボーっと考え込んでしまった。
昨夜の恐怖。廃遊園地での死闘。そして久遠という男の存在。その全てが急に現実味のない遠い出来事のように思えてくる。
「…影山くん? どうしたの?」
不意に心配そうな声がして、湊は我に返った。気づけば陽葵がすぐ隣で彼の顔を不安そうに覗き込んでいた。
彼女はメロンソーダがなみなみと注がれたグラスを両手で持っている。
「お水飲んだまま固まってるから…もしかして、お腹でも痛いの?」
「あ…いや、何でもない。ちょっと考え事してただけだ」
湊は慌てて動揺を隠し、作り笑いを浮かべた。
これ以上ここにいても仕方がない。一度体勢を立て直そう。
「取りあえず、席に戻ろう」
湊はそう言うと、まだ中身がほとんど残っている水の入ったグラスを手に陽葵と共にテーブルへと戻った。
席に着いても、湊の頭の中は混乱していた。
遺物はあるのかないのか。もしあるのだとしたら、なぜ自分には何も分からないのか。
そして、もしないのだとしたら、久遠の目的は一体何なのだろうか。
謎は深まるばかりだった。
席に戻ってしばらくすると、注文した料理が運ばれてきた。
陽葵の前にはガラスの器にたっぷりのクリームといちごが盛り付けられた、見るからに豪華なパフェが置かれる。
「わー! すごーい! 写真より美味しそう!」
陽葵は目をキラキラさせながら歓声を上げると、早速スプーンを手に取り嬉しそうにパフェを頬張り始めた。その幸せそうな表情はこの店の平和な雰囲気に完璧に溶け込んでいる。
一方、湊の前にはこんもりと盛られたフライドポテトが置かれた。しかし彼はそれにほとんど手を付けようとしない。ただフォークでポテトを一本突き刺し、それをちびちびとかじりながら考え事に没頭していた。
(本当に、何もないのか…? )
頭の中では、様々な可能性が渦巻いている。久遠にからかわれているだけという可能性。自分の才能が機能していない可能性。あるいは、遺物の効果が自分の想像をはるかに超えるほど巧妙で、感知しにくいものである可能性。
その間も、陽葵は楽しそうに湊に話しかけ続けていた。
「それでね、今日の移動教室の時、田中くんが派手に転んじゃってさー。すっごく面白かったんだよ! あと、新しい数学の先生ちょっとイケメンじゃない?」
「へえ」
「それと来週の小テスト範囲広いよねー。影山くんはもう勉強始めた?」
「いや、まだ」
陽葵が語るのはクラスメイトの失敗談や、教師の評判、テストの心配といったどこにでもある高校生の日常会話だ。以前の湊なら笑ったり一緒に文句を言ったりしていたかもしれない。
しかし、今の湊にとってその話はひどく空虚で、どうでもいいものに聞こえた。
彼の思考はただ一点に集中していた。
【クラスD遺物:嘆きの蛇口】
それは本当に存在するのか。存在するならどこにあり、どうやって回収するのか。
陽葵の弾むような声は、まるで厚いガラスを一枚隔てた向こう側から聞こえてくるかのようだった。湊は自分が彼女と同じ世界にいながら、全く違う次元を生きているような奇妙な孤立感に苛まれていた。
湊が上の空でポテトをつついていると、不意に陽葵の明るい声が途切れた。
静かになったテーブルで湊が顔を上げると、陽葵はスプーンを置き、まっすぐに彼の目を見ていた。その表情はいつもの笑顔ではなく真剣そのものだった。
「ねえ、影山くん。本当にどうしたの?」
彼女の声は静かだが、強い意志がこもっていた。
「さっきから全然話聞いてないし…何か悩んでるなら、私でよければ聞くよ? 私たち……まだ友達…だもんね?」
その真っ直ぐな優しさが、今の湊には痛かった。彼女に話せるわけがない。呪具だの怪異だの遺物管理局だの…そんな非日常に彼女を巻き込むわけにはいかないのだ。
「…何でもないって言ってんだろ」
湊は彼女の視線から逃れるように、冷たく突き放した。
その言葉に陽葵の表情が、はっきりと悲しみに曇った。
「…そっか。ごめん」
彼女は俯くと、小さな声でぽつりと呟いた。
「影山くん、変わっちゃったよね。…あの事故があってから」
その言葉に、湊の心臓がどきりとする。
「変な呪具とか集め始めたり…なによりあの…」
陽葵が、そこまで言いかけた瞬間だった。
「──それを、話すな」
湊は自分でも驚くほど低く、冷たい声で彼女の言葉を遮った。その目は鋭く陽葵を睨みつけていた。それは拒絶と、そして恐怖の色を帯びた目だった。
「え…」
陽葵は湊の豹変ぶりに明らかに驚き、怯んでいた。彼女はこんなにも冷たい湊の顔を、今まで一度も見たことがなかった。
「そ、そうだよね…ごめん、なさい…」
陽葵は震える声でそう言うと、再び俯いてしまった。
重苦しい沈黙がテーブルに落ちる。
湊はすぐに後悔した。彼女が心配してくれているのは分かっている。だが、自分の抱える秘密のせいでどうしようもなく苛立っていた。
久遠の言う「才能」とやらが全く発揮されないことも、その苛立ちに拍車をかけていた。
気まずい。居心地が悪い。お互いに会話がないまま、数分が過ぎた。
その沈黙を破ったのは陽葵だった。彼女は残りのパフェを急いで食べ終えると、無理に作ったような明るい声で言った。
「ご、ごめん! ちょっとお手洗い!」
そう言うと、陽葵は逃げるように席を立ち、小走りで店内の奥へと向かっていった。
湊はその後ろ姿を無表情のまま見送ることしかできなかった。
一人残された湊は、改めて店内を見渡す。
やはり違和感はない。どこからどう見てもただの平和なファミリーレストランだ。
(でも、まだ二週間もあるんだ。焦る必要はない。ゆっくり探るか…)
そう自分に言い聞かせ、これからこの調査のために減っていくであろう財布の中身を想像して静かに落ち込んでいた。
その時だった。
湊の視界の端で、一つの扉が開いた。
『STAFF ONLY』と書かれた、厨房へと続く扉だ。
そこから出てきたのは店員ではなかった。明らかに一般の客である中年男性だ。彼はジョイドルベルの制服を着ていない。
そして、その男はまるで神からの施しでも受けたかのようにうっとりとした、この上なく幸せそうな表情を浮かべていた。
その手には何もロゴの入っていない
ただのプラスチックカップが握られている。
中身は、透明な液体。
──「水」だった。
『STAFF ONLY』の扉から出てきた幸せそうな顔の男。その手に握られた、ただの水の入ったカップ。
それを見た瞬間、湊の全身に電流のようなものが走った。
(あれだ…!)
理屈ではない。直感だった。
久遠の言う「才能」とは、これなのかもしれない。あの男が手にしている水こそが、【クラスD遺物:嘆きの蛇口】から注がれた呪われた水なのだと湊の魂が警鐘を鳴らしていた。
湊はその男を見逃すまいと鋭い視線で後を追った。
男は店内をゆっくりと横切り、湊たちの席からは少し離れた窓際の二人掛けのテーブルへと向かう。そして、静かに腰を下ろした。
そのテーブルの上にはメニューすらない。料理もドリンクバーのグラスも、何も置かれていなかった。ただ男が今持ってきた水の入ったプラスチックカップだけがぽつんと置かれている。
男はそのカップを両手で包み込むように持つと、目を閉じ、まるで極上のワインでも味わうかのようにその水を一口、また一口と大切そうに飲み始めた。
その表情は恍惚としており、傍から見れば明らかに異常だった。
(あの男に話を聞くべきか…?)
湊の頭に一瞬、その考えがよぎる。
しかし、すぐにその考えを打ち消した。もしあの水によって男の精神が既に狂っていたら? 下手に刺激してここで暴れ出したりしたらただでは済まない。
この店には多くの客がいる。そして何より今は陽葵もいるのだ。彼女を危険に晒すわけにはいかない。
湊は決めた。今はただあの男を観察することに徹しよう、と。
湊は自分の席でポテトを食べるふりをしながら、その視線は男の一挙手一投足に集中していた。
男は何を考えているのか。なぜ、スタッフ専用の場所から出てきたのか。そして、あの水は彼にどのような影響を与えているのか。
湊は獲物を狙う狩人のように息を殺し、その答えが見つかる瞬間をじっと待ち続けていた。
男はテーブルの上にある水のカップをまるで聖杯か何かのように両手で持ち、時折、恍惚とした表情で一口飲む以外ほとんど身じろぎ一つしない。その異様な光景に湊の緊張は高まっていく。
「ごめん、お待たせ!」
不意に、明るい声がして陽葵がテーブルに戻ってきた。彼女は少し気まずそうに、しかし努めて元気に振る舞っているようだった。
「いや…」
湊は上の空で短く返事をした。しかし、その視線は陽葵の方を向いてはいなかった。彼の目はテーブルに戻ってきた陽葵を一瞥しただけで、すぐにあの謎の男へと戻っていた。
男から一瞬たりとも目が離せなかった。
陽葵は、そんな湊の様子に気づいた。
彼が自分ではない、店の奥の見知らぬ男性客をまるで何かに取り憑かれたかのようにじっと見つめていることに。
陽葵は何かを言いかけたが、湊のそのあまりにも真剣で、近寄りがたい横顔を見て言葉を飲み込んだ。そして、何も言わずに自分の席に静かに座った。
店内のBGMと、他の客たちの楽しげな喧騒。その中で湊たちのテーブルだけが、奇妙な静寂と緊張に包まれていた。
陽葵は手持ち無沙汰にメロンソーダのストローをいじりながら、時折、心配そうに湊の横顔を盗み見る。
一方の湊は、そんな彼女の視線にも気づかず、ただひたすらにあの男の次の一手を待ち続けていた。
彼の頭の中では久遠の言葉が反響していた。
『お前には、才能がある』
もし、あの男の存在に気づけたことが「才能」なのだとしたら、この先自分は一体何を見ることになるのだろうか。
湊はこれから起こるであろう出来事を予感し、乾いた唇をごくりと唾で湿らせる。
湊が息を殺して男を監視し続けていると、男の行動に変化が起きた。
彼は大切そうに水のカップをテーブルに置くと、ポケットからスマートフォンを取り出した。そして、慣れた手つきで画面を操作し始めた。
その表情は先ほどまでの恍惚としたものとは違い、どこか真剣な、しかしやはり幸せそうな色を浮かべている。
(何を見てるんだ…?)
さすがにこの距離からではスマートフォンの画面に何が映っているかまでは見えない。男がSNSを見ているのか、誰かとメッセージをやり取りしているのか、あるいは、何か特別なサイトを閲覧しているのか。
それが分かればこの状況を打開する大きなヒントになるかもしれない。
湊はもどかしさを感じた。
このままただ座って見ているだけでは話は一向に進まない。陽葵が隣にいる手前、大胆な行動は取れないが、かといってこのまま男が帰ってしまえば手がかりはまたゼロに戻ってしまう。
(どうする…?)
湊の頭の中でいくつかの選択肢が浮かび上がる。
トイレに行くふりをして男のテーブルのそばを通り過ぎる。その一瞬で画面を盗み見ることはできないか?
あるいは、わざと何かを落として拾うふりをしながら近づくか?
どちらも、危険な賭けだった。
男に気づかれれば、何をされるか分からない。それに、隣には陽葵がいる。彼女にこれ以上不審な行動を見せるわけにはいかない。
しかし、このままでは何も変わらない。
久遠に与えられた期限は二週間。長いようで短い。時間は、有限だ。
(やるしか、ないか…)
湊は覚悟を決めた。
危険だが、動かなければ何も得られない。
彼は陽葵に気づかれないよう、静かに、そして深く息を吸い込んだ。そして、最も自然に男に近づける口実と、その瞬間に画面を盗み見るための最適なルートを頭の中でシミュレーションし始めた。
そして湊は陽葵にごく自然に話しかけた。
「…ちょっとトイレ。ついでに電話一本かけてきていいか?」
「え? 電話?」
「ああ。親から帰りに買い物頼まれてたの今思い出した。何買うかもう一応確認しときたくて」
トイレに行く、というのは最も自然な離席の口実だ。そして店内で大声で話すのはマナー違反なので「電話をかけるために少し席を外す」というのも筋が通っている。
「あ、うん分かった! 行ってきなよ」
幸い陽葵は全く疑う様子もなく、快く送り出してくれた。
湊は「サンキュ」と短く言うと席を立った。
そして、ここが正念場だった。
湊たちのテーブルからトイレへと向かう通路は、ちょうどあの男のテーブルのすぐ後ろを通るルートになっていたのだ。
湊はできるだけ自然な足取りでトイレの方向へと歩き出す。そして、男のテーブルの真後ろを通り過ぎるまさにその瞬間。
湊はポケットからスマートフォンを取り出すふりをして、わざと手を滑らせた。
──カラン、と軽い音を立てて湊のスマートフォンが床に落ちる。
それは、ちょうど男の椅子のすぐ足元だった。
「っと、やべ…」
湊は小さく悪態をつきながら、その場にしゃがみ込んだ。
そして、床に落ちたスマートフォンを拾い上げるふりをしながら、その低い視線は男の持つスマートフォンの画面へと鋭く注がれた。
死角は完璧だった。
男は背後で物が落ちた音に気づきもしない。自分の世界に没頭している。
しゃがみ込んでいる湊の姿はテーブルの陰になり、他の客からも見えにくい。
そして、湊の目にその画面の内容がはっきりと飛び込んできた。
それはSNSでも、ニュースサイトでもなかった。
画面に表示されていたのは、オンラインのオークションサイトだった。
そして、男が熱心に入札していたのは一つの商品。商品名には、こう書かれていた。
その商品の画像にはあの『STAFF ONLY』の扉と、その奥にぼんやりと見える、古びた一つの蛇口が写っていた。
お読みいただきありがとうございました!