遺物管理局、本日も異常ナシ 作:怪異さん
湊君は無事、嘆きの蛇口を回収できるのでしょうか…?
あとよければ感想や評価もお願いします!
湊はファミリーレストラン『ジョイドルベル』の爽やかなストライプ柄の制服に身を包んでいた。
あの日、オークションサイトの存在を突き止めた湊は確信していた。
【クラスD遺物:嘆きの蛇口】は間違いなくスタッフしか入れない厨房の、そのさらに奥に隠されている…と。そして、一部の「会員」だけがその特別な水にありつける仕組みなのだ。
それを回収するには方法は一つしかない。
内部の人間になる──つまり、この店でアルバイトとして働くことだ。
湊はその日のうちに店の入り口に貼られていたアルバイト募集の張り紙を剥がし、即座に応募した。
危険な賭けだ。しかし、客として通い続けてもこれ以上の情報は得られないだろう。
すると、驚くべきことに応募からわずか三日後。湊の元に採用の電話がかかってきたのだ。人手が足りないのか、あるいは別の理由があるのかは分からない。
ただ、「すぐにでもバイトとして来てほしい」と、切羽詰まったような声で言われたのが印象的だった。
そして、今日がその初出勤日だった。
「──というわけで、影山湊くんだ。今日から新しくホールスタッフとして入ってくれることになった」
湊の目の前で、人の良さそうな少し恰幅のいい中年男性が他のスタッフたちに向かって湊を紹介する。
彼の胸の名札には『店長:鈴木』と書かれていた。面接の時にも会ったこの店の責任者だ。
「面接の時にも会ったけど、改めて自己紹介させてもらうね」
鈴木店長は人の良さそうな笑顔で、湊に向き直った。
「僕がこの店の店長を務めている鈴木です。分からないことがあったら何でも聞いてくれて構わないよ。これからよろしくね、影山くん」
「…はい。よろしくお願いします、店長」
湊は緊張を押し殺し、できるだけ普通の新人アルバイトとして振る舞いながら深々と頭を下げた。
鈴木店長は満足そうに頷くと、湊の肩をぽんと叩いた。
「君みたいな若い力が入ってくれて本当に嬉しいよ。この店はお客様に『最高の癒やし』を提供することをモットーにしているからね。ぜひその一員として頑張ってほしい」
『最高の癒やし』。
その言葉が湊の耳にはひどく不吉な響きをもって聞こえていた。
鈴木店長による紹介が終わると、一人の女性スタッフが湊の元へやってきた。
年の頃は二十代後半だろうか。少し気だるげな雰囲気を漂わせているが、整った顔立ちをしている。胸の名札には『高橋』と書かれていた。
「どーも。高橋です。一応今日のあんたの教育係だから。よろしく」
「あ、はい! よろしくお願いします!」
高橋と名乗る先輩スタッフは、「まあ、最初は簡単なことからだから」と言いながら、湊に仕事内容を説明し始めた。テーブルの片付け方、客の案内、オーダーの取り方。湊は言われたことを必死にメモ帳に書き留めながら、真剣に話に頷く。
一通りホールの仕事の説明が終わると、高橋は「次、厨房ね」と言って、スタッフオンリーの扉を開けた。
中は想像していたよりも広く、機能的に整理されていた。食器洗浄機が大きな音を立て、コックたちが忙しそうに動き回っている。
「こっちが洗い場で、こっちが冷蔵庫。基本的にホールスタッフはここまでしか入んないから。奥は調理場だから無駄に入ると邪魔になるし、怒られるよ」
高橋は手際よく厨房内の設備とルールを説明していく。湊はその説明を聞きながらも、視線は自然と厨房のさらに奥、薄暗くなっている通路の方へと向けられていた。あの『嘆きの蛇口』はきっと、あの奥にある。
一しきりの説明が終わり、湊が「分かりました」と頷こうとしたその時だった。
高橋がふと真顔になり、声を潜めて湊にこう言った。
「…あと、一つだけ忠告」
「え?」
「───この厨房で、絶対に水を飲みたいなんて思うな」
その声は先ほどまでの気だるげな雰囲気とは全く違う、冷たく、真剣な響きを持っていた。
「もし…もし、変な場所にぽつんと蛇口が一つだけあっても、決してそれに触れるんじゃない。いいな?」
そう語る高橋の顔を、湊は見た。
そして、息を呑んだ。
彼女の顔がぐにゃりと、異様に歪んでいたのだ。
目は虚ろで、口は耳まで裂けているように見える。それはもはや人間の顔ではなかった。湊を襲った怪異たちと同じ、人ならざるものの顔だった。
「ひぇっ…!」
湊は思わずカエルの潰れたような短い悲鳴を上げた。心臓が凍りつき、反射的に視線を床へと逸らす。
なんだ、今のは。何が起きた?
「…おい、どうしたんだよ急に」
怪訝そうな声がして、湊は恐る恐る顔を上げた。
再び、高橋の顔を見る。
しかし、そこにいたのは先ほどまでの異形の存在ではなかった。
ただ、突然悲鳴を上げた後輩を不思議そうに見つめる、困惑した表情の高橋がいるだけだった。彼女の顔におかしなところはどこにもない。
「い、いえ、何でもないです…! ちょっと足元が滑って…」
「ふーん…? まあ、厨房は床濡れてっから気をつけなよ」
高橋は特にそれ以上追及することなく、そう言うと「じゃ、とりあえずホール戻るか」と踵を返した。
湊はまだどきどきと鳴り続ける心臓を抑えながら彼女の後に続いた。
(今のは…幻覚、だよな…?)
バイト初日の緊張と、寝不足のせいだ。そうに違いない。
湊は自分に必死に言い聞かせた。しかし、脳裏に焼き付いたあの歪んだ先輩の顔と、「蛇口に触れるな」という生々しい忠告は、彼の心に深く、そして不吉な影を落としていた。
湊の危険な潜入アルバイト生活が始まってから、10日が過ぎた。
最初の数日は慣れない仕事に戸惑い、オーダーミスをしたり、皿を割りそうになったりして先輩や店長に怒られることも少なくなかった。
しかし、湊は必死だった。彼はただのアルバイトではない。これは命がけのミッションなのだ。
持ち前の要領の良さと、必死の努力の甲斐あって10日も経つ頃には、湊は一通りの仕事を完璧にこなせるようになっていた。
「影山くん、マジで要領良くて助かるわー!」
教育係の高橋が休憩中に湊の肩をバシバシと叩きながら、気さくに褒めてくれる。その様子を近くで見ていた鈴木店長も満足そうに笑顔で頷いていた。
「ありがとうございます!」
湊は満面の笑みでそう返した。新人としてこれ以上ないほど完璧な振る舞いだ。
しかし、その内心は驚くほど冷めていた。
(どうでもいい)
先輩からの賞賛も、店長からの信頼も、湊にとっては目的を達成するための手段に過ぎない。彼の頭の中にあるのはただ一つ。【嘆きの蛇口】の回収、それだけだ。
この10日間、湊はただ働いていただけではない。常に情報を集め続けていた。
そして二日前のこと。湊は高橋とは別の人の良さそうな男性の先輩スタッフに、それとなくカマをかけてみたのだ。
「ここのお店って、お水が美味しいって評判ですよね。口コミサイトにも結構書かれてましたよ」
休憩中、何気ない世間話を装って湊はそう切り出した。
すると、先輩は「ああ、そうだよねー」とあっさり頷いた。
「まあ、俺は特別美味しいとかは思わないけどね。でも、そう言ってくれるお客さん多いんだよな」
「へえ、そうなんですね」
手応えは悪くない。湊はさらに踏み込んだ。
「もしかして、厨房に何か特別な浄水器とかでもあるんですか?」
「さあ? どうだろうな…。でも…」
先輩は少し声を潜め、言葉を続けた。
「そういえば以前、店長が厨房の奥から水を汲んで運んでるところを見たって他のバイトが言ってたな。なんでも、常連さんへの特別なサービスなんだとか…」
これだ!
湊は心の中で叫んだ。ついに核心に繋がる情報を掴んだ。
「それって、厨房にある特別な蛇口から…!」
湊が身を乗り出して、そう問い詰めようとしたまさにその瞬間だった。
「──こらこら」
ぬるり、と。
まるで音もなく、二人の背後に鈴木店長が立っていた。その顔はいつものように笑っている。しかし、その目は全く笑っていなかった。
「休憩時間はもう過ぎてるよぉ~?」
店長はねっとりとした口調でそう言うと、湊と先輩の肩をそれぞれポン、と叩いた。
先輩は、「す、すみません!」と慌てて仕事に戻っていく。
湊は背筋を冷たい汗が伝うのを感じながら、ただ「すみませんでした」と頭を下げることしかできなかった。
あと一歩で何かが掴めそうだったのに。鈴木店長という男の底知れない不気味さを湊は改めて思い知らされた。
その夜、湊は疲れ切った体を引きずって自室のベッドに倒れ込んだ。
鈴木店長に、ぬるり、と背後に立たれた時の感触がまだ背中にこびりついているようで、気分が悪かった。
あと一歩だった。あと一歩で、あの蛇口の場所に繋がる決定的な証言が手に入ったはずなのに。
(あの店長…絶対に何か知ってる…)
もしかしたら、あのオークションサイトを運営しているのもあの店長自身なのかもしれない。
潜入してから10日。期限は、あと4日しかない。
焦りが、湊の心を蝕んでいく。
(…クソっ)
湊はベッドから起き上がると、スマートフォンに登録されている連絡先を見つめる。
湊は番号をタップした。
数回のコールの後、電話の向こうから心底面倒くさそうな低い声が聞こえてきた。
『…あぁ?』
「…俺です。影山です」
『…ああ、パシリのガキか。で、何の用だ? まさかもう根を上げたのか? まだ二週間経ってねえぞ』
久遠の人を苛立たせる物言いは相変わらずだ。湊はこめかみがピクピクと痙攣するのを感じながらも、本題を切り出した。
「違いますよ! …報告です。例のファミレスにバイトとして潜入しました」
電話の向こうで一瞬、沈黙が流れた。
そして次の瞬間、久遠の少しだけ感心したような、それでいて面白がっているような声が聞こえてきた。
『…はっ、マジかよ。お前本当にバイトになりやがったのか。なかなか行動力あんな』
その声には意外にも怒りや呆れの色はなかった。むしろ、湊の予想外の行動を少しだけ評価しているような響きがあった。
「その方が手っ取り早いと思ったんで。…それで、いくつか分かったことがあります」
湊はこれまでの経緯を手短に、しかし正確に久遠に伝えた。
オークションサイトの存在、厨房の奥から水を汲む店長の目撃証言、そしてその会話を店長本人に遮られたこと。
一通り話し終えると、電話の向こうで久遠が「なるほどな」と呟いた。
『大方、予想通りだ。その店長が元締めだろうよ。常連客の中でもさらに「特別な客」にだけ、遺物の水を売って小遣い稼ぎでもしてんだろ。セコいことしやがる』
「じゃあ、やっぱり蛇口は厨房の奥に…」
『ああ。だがお前ちょっと詰めが甘かったな』
久遠の声が少しだけ忠告するようなトーンに変わった。
『店長に怪しまれてんだろ? もうお前は完全にマークされてる。下手に動けば、即、消されるぞ。文字通りの意味でな』
「…っ!」
『まあ、いい。お前がそこまでお膳立てしてくれたんだ。こっちも動きやすい』
久遠は面倒くさそうに、しかしどこか楽しげに言った。
『次のシフトはいつだ?』
「あ、明日の夕方からですけど…」
『分かった。明日の夜、閉店間際に客として行ってやる。お前はそれまで絶対に余計なことはするな。大人しくただのバイトのフリだけしてろ。いいな?』
「…客として、来るんですか?」
『ああ。…じゃあ、切るぞ。ああ、めんどくせぇ…』
一方的にそう言うと、電話はツーツーという無機質な音に変わった。
湊はスマートフォンを握りしめたまま、呆然と立ち尽くす。
久遠が、来る。しかも客として。
その事実に、少しだけ安堵する自分がいた。
しかし、それと同時に明日ファミレスがあの廃遊園地のような怪異と暴力の舞台になってしまうかもしれないという、新たな恐怖が彼の心を支配し始めていた。
翌日。
湊は重い体を引きずってアルバイト先である『ジョイドルベル』へと向かった。
昨夜の久遠との電話が、ずっと頭にこびりついて離れない。
『閉店間際に客として行ってやる』
あの男が一体何をしでかすつもりなのか。想像もつかなかった。しかし、言われた通り自分は「いつも通り」を演じきるしかない。
「おはようございまーす」
湊はいつもと同じように、元気よくスタッフ用の入り口をくぐった。
鈴木店長は事務所で帳簿をつけていたが、湊の姿を見るとにこやかに顔を上げた。
「やあ、影山くん。おはよう。今日もよろしく頼むよ」
その笑顔は昨日自分たちの会話を遮った時、何も変わらない。それがかえって湊の背筋を寒くさせた。
その日のバイトは、地獄のような時間だった。
湊は久遠の言いつけ通り、余計なことは何もせず、ただひたすらに完璧なホールスタッフを演じ続けた。オーダーを取り、料理を運び、テーブルを片付ける。
その一つ一つの作業をいつも以上に丁寧に、正確にこなした。
しかし、その内心は張り詰めた糸のように常に緊張していた。鈴木店長の視線が常に自分を監視しているように感じられて、息が詰まりそうだった。
時間は刻一刻と過ぎていく。夕方のピークタイムが終わり、客足がまばらになってくる。
そしてついに、閉店時間である午後10時が近づいてきた。
店内の客は、もう三組しかいない。
湊が空になったテーブルを片付けていると、入り口のドアが開く、カラン、という軽やかなチャイムの音が鳴った。
「いらっしゃいませー!」
湊は反射的に、いつもの営業スマイルで入り口の方を振り返った。
そして、その顔が凍りついた。
そこに立っていたのは、銀髪の男だった。久遠玲。
彼はラフな黒のパーカーにジーンズという、およそ遺物管理局のエージェントには見えない格好で心底面倒くさそうにポケットに手を突っ込んで立っていた。
「…一名様で、よろしかったでしょうか?」
湊は動揺を押し殺し、震えそうになる声を必死に抑えながら業務用の言葉を口にした。他のスタッフに彼が自分の知り合いだと悟られるわけにはいかない。
久遠はそんな湊の様子を面白がるように、にやりと口の端を上げて見せた。
「ああ。一人だ」
そして彼は、店内をゆっくりと見渡すとこともなげにこう言った。
「ブレンドコーヒー、一つ。あと店長さんいるか? ちょっと話がしたいんだが」
その言葉に近くにいた他のスタッフだけでなく、事務所から丁度出てきた鈴木店長の動きも、ぴたり、と止まった。
久遠の挑戦的で、全てを見透かしたような視線が鈴木店長へとまっすぐに突き刺さる。
鈴木店長は一瞬だけその柔和な笑顔を消した。しかし、すぐにまた人好きのする表情に戻ると、ゆっくりと久遠の方へ歩み寄った。
「お客様。大変申し訳ございませんがまもなく閉店の時間でして…。私に何か御用でしょうか?」
その口調は丁寧だが、その目には明らかな警戒の色が浮かんでいる。
久遠はそんな店長の様子を鼻で笑うと、ポケットから一枚の名刺を取り出し、カウンターの上にひらりと置いた。
「ああ、大した用じゃねえよ。ただあんたがここで売ってる『特別なお水』にちょっと興味があってな」
その言葉に、鈴木店長の顔から完全に表情が消えた。
彼はテーブルに置かれた名刺──『遺物管理局文化財第一部 特殊文化財課 久遠玲』と書かれおり、久遠の顔を信じられないといった目つきで交互に見つめている。
「…何の、ことだか」
「しらばっくれんなよ。面倒くせえな」
久遠は心底うんざりしたように言うと、テーブルに肘をつき、鈴木店長の耳元で彼にしか聞こえない声で囁いた。
「あんたがここの厨房の奥に隠してる【嘆きの蛇口】。あれをこっちに引き渡してもらおうか。それとも、管理局の強制執行部隊を呼んでこの店ごと『処理』されたいか? 選べよ」
鈴木店長の額に脂汗が浮かぶ。彼の顔は恐怖と混乱で青ざめていた。
彼は震える声で近くにいた他のアルバイトスタッフに叫んだ。
「き、君たち! もう上がっていいよ! 今日はもうおしまいだ!」
突然のことに、他のスタッフたちは戸惑いながらも、「お疲れ様でした」と次々に裏へと消えていく。
あっという間にホールには久遠と、鈴木店長、そしてどうしていいか分からずに立ち尽くす湊の三人だけが残された。
鈴木店長は観念したように深いため息をついた。
「…分かりました。こちらへどうぞ」
彼はそう言うと、自ら『STAFF ONLY』と書かれた厨房の扉を開け、久遠を中へと促した。
久遠は湊の方を一瞥し、「お前も来い」と目で合図する。
湊は唾を飲み込み、震える足で二人の後を追った。
厨房を抜け、先日先輩から「入るな」と忠告された薄暗い通路を進んでいく。
その突き当たりには古びた小さな鉄の扉があった。鈴木店長がポケットから取り出した鍵でその扉を開けると、中は小さな倉庫のようになっていた。
そして、その部屋の中央にそれはあった。
壁から一本だけ突き出している、古びた蛇口。
久遠のスケッチで見たものと全く同じ、奇妙な模様が刻まれた蛇口だ。
蛇口の下には大きなバケツが置かれ、そこには透明な水がなみなみと溜まっている。
「…これが、【嘆きの蛇口】か」
久遠が面白そうに呟いた……
その瞬間だった。
「──君だよな?」
鈴木店長が振り返り、湊をまっすぐに見ていた。その目はもはや人の良い店長の目ではなかった。
「君が、こいつをここに呼んだんだろう?」
「え…」
「バイトに応募してきた時からおかしいと思ってたんだ。君の目、普通じゃなかったからね。何かを探るような目だ。君も『そっち側』の人間なんだろう?」
次の瞬間、鈴木店長は懐から小さな錆びついたナイフを取り出した。
クラスE遺物【後悔の刃】。刺した相手に人生で最も後悔した記憶を見せ、精神を破壊する呪具だ。
「僕の楽園を…僕のビジネスを邪魔する奴は、許さない…!」
店長は狂気の形相でナイフを構え、湊へと襲いかかってきた。
「危ねえ!」
しかし、湊が反応するよりも早く久遠が動いた。
彼は店長の腕を軽々と掴み取ると、そのままいとも簡単に捻り上げる。
「ぎゃあああっ!」
店長の悲鳴が狭い部屋に響き渡った。ナイフが、カラン、と音を立てて床に落ちる。
「ったく、面倒な真似させやがって…」
久遠は腕を押さえてうずくまる店長を冷たく見下ろすと、まず床に落ちた錆びついたナイフを拾い上げた。
彼はそのナイフを検めるように見つめ、眉をひそめた。
「…チッ、こいつはクラスE【後悔の刃】か。管理局のリストじゃ、『三年前の事件で
久遠は吐き捨てるように呟いた。その言葉は明らかに湊ではなく、彼自身に向けられたものだった。このナイフがここにあるという事実は、彼の想定を超えた何らかの「横流し」や「裏取引」の存在を示唆していた。
しかし、彼はその疑問を深く追求する素振りは見せず、すぐに思考を切り替えたようだった。
「まあいい。こいつの出所は後で吐かせりゃいいか」
久遠はそう言うと、その曰く付きのナイフを無造作に自分のパーカーのポケットに突っ込んだ。そして、改めて湊に向かって顎で蛇口をしゃくった。
「おい、パシリ。仕事だ。そいつを回収しろ」
「え…俺が、ですか? どうやって…」
「あ~…説明してなかったな」
久遠は心底面倒くさそうにため息をつくと、別のポケットからチョークと、塩の入った小さなビニール袋を取り出し、湊に放り投げた。
「そいつを使って蛇口の周りに円を描け。きっちり隙間なく円で囲むんだ。そしたら、円の内側にこの塩を撒け。それだけだ。クラスDならそれで機能は停止する」
「え、そ、それだけでいいんですか…?」
「ああ。早くやれ」
久遠はそう言うと、うずくまっている鈴木店長の首根っこを掴み、部屋の隅へと引きずっていった。
湊は言われた通りチョークを握りしめ、床に膝をつき、慎重に【嘆きの蛇口】の根元を囲むように白い円を描き始めた。
円を描き終えた湊は次に、塩の入った袋を開け、その白い結晶を円の内側へとパラパラと撒いていく。
すると、その瞬間だった。
──キィィィィィィン!!!
蛇口から甲高い異音が鳴り響き、その表面に無数の苦悶に満ちた顔のような模様が赤黒く浮かび上がった。
「うわっ!?」
蛇口は生き物のように激しく震え、その口からどろりとした黒い液体を吐き出し始めた。
「な、なんだよこれ!」
湊が悲鳴を上げると、部屋の隅で店長を押さえつけていた久遠が退屈そうに答えた。
「ああ? ああ、たまにああやって断末魔みてえに抵抗すんだよ。気にすんな。すぐ収まる」
その言葉通り、数秒後、蛇口の震えはぴたりと止まり、表面の模様も消えていった。
後に残ったのは、ただの動かなくなった古びた蛇口だけだった。
「…おしまいだ」
部屋の隅で鈴木店長が、ぽつりと、絶望に満ちた声で呟いた。
「ああ…あああ…『水』が…『癒やし』がなくなってしまった…僕の…僕の、楽園が…」
湊はその声にふと店長の方へと視線を向けた。
そして、息を呑んだ。
店長の顔が、ぐにゃりと、異様に歪んでいたのだ。
目は虚ろで、口は耳まで裂けているように見える。それはもはや人間の顔ではなかった。バイト初日に見た、高橋先輩の幻覚。あれと全く同じ顔だった。
あれは、幻覚などではなかったのだ。
店長はぶつぶつと、意味の分からない言葉を呟き続けている。
湊はその光景に恐怖しながらも、一つの疑問を口にした。
「あの…バイトの高橋先輩も一瞬だけ、今の店長みたいな顔に…」
しかし、久遠はその言葉に何の興味も示さなかった。
彼はただうめき続ける店長を冷たい目で見下ろすと、スマートフォンを取り出しどこかへ手短に連絡を始めた。
「ああ、俺だ。回収終わった。後始末、頼む」
電話を終えた久遠は、まだ床にへたり込んでいる湊を顎でしゃくった。
「おい、パシリ。さっさと行くぞ」
「え…でも高橋先輩は…」
「知るか。俺の仕事はこいつと、そこの蛇口。他のバイトがどうなろうと管轄外だ」
久遠はそう言うと、魂が抜けたように呟き続ける店長を軽々と担ぎ上げた。
高橋先輩は一体何だったのか。答えは出ない。この店の謎は、誰にも知られることなく闇の中に葬られていく。
「おい、いつまで座ってんだ。お前もついてこい」
久遠の苛立ったような声が飛んでくる。
「報告書の作成、手伝ってもらうぞ。お前がやった仕事なんだからな」
その言葉は湊にとって日常の終わりと、新たな地獄の始まりを告げる不吉な宣告のように聞こえていた。
お読みいただきありがとうございました!
結局最初から久遠がやれば速攻で終わったのでは…?
一番の被害者は久遠に付き合わされる湊君かもしれませんね……