遺物管理局、本日も異常ナシ 作:怪異さん
今回は遂に遺物管理局に湊君が訪れます!
どのような展開になるでしょうか!
また感想や評価もお願いします!
久遠は魂の抜けたようになった鈴木店長を肩に担いだまま、当たり前のようにタクシーを拾った。
運転手はぐったりとした店長を見ても、何も言わない。おそらく久遠が何らかの遺物で認識を阻害しているのだろう。湊は隣に座るこの銀髪の男の底知れなさに改めてため息をつきたくなった。
タクシーが着いたのは、霞が関の一角にそびえ立つ荘厳な建物だった。
その看板を見て、湊は目を丸くした。
「え…ここって…」
「ああ。遺物管理局の表向きの顔だ」
久遠は何でもないことのように言うと、湊とまだぶつぶつと何かを呟いている店長を引きずるようにして建物の中へと入っていった。
夜だというのにロビーは煌々と明かりが灯され、数人の職員が忙しそうに歩いている。
久遠はまっすぐに受付カウンターへと向かうと、ポケットから例の名刺とは違うカード型の身分証を取り出して提示した。
「どうも、久遠だ。こいつは例の件の重要参考人。で、こっちは俺のパシリ」
久遠は店長と湊を顎でしゃくって雑に紹介する。
受付の女性職員はそのあまりにも不審な一行を一瞥したが、表情一つ変えなかった。彼女は久遠の身分証をスキャナーに通すと、ただ事務的な口調でこう言った。
「確認しました。久遠"管理官"、お疲れ様です。どうぞお通りください」
それだけだった。
拉致されてきた人間に、その共犯者のような高校生。この異常な光景に対して彼女は何の疑問も挟まない。それがここでは「日常」なのだ。湊はその事実に言いようのない恐怖を感じた。
「おい、行くぞ」
久遠に促され、湊は受付の横を通り抜ける。
職員たちが働くフロアを横切り、久遠は迷うことなく一つの何の変哲もない扉の前で立ち止まった。来客用のトイレと書かれたプレートが貼ってある。
しかし、久遠がその扉の横の壁に先ほどのカードキーをかざすと、電子ロックが解除される、カチリ、という小さな音が響いた。
扉を開けると、その先は下へと続く長い、長い無機質なコンクリートの階段だった。
外の荘厳な建物とはあまりにも不釣り合いな光景だ。
「ついてこい」
久遠はそう言うと、店長を担いだまま躊躇なく階段を降りていく。
湊もゴクリと唾を飲み込み、その後に続いた。
一体どれくらい降りただろうか。ようやく階段が終わり、目の前に巨大な金属製のゲートが現れた。
ゲートの横にはこう書かれていた。
【文化庁 特殊文化財保全課 ——— 遺物管理局】
ここがこの国の非日常を管理する、秘密の心臓部。ゲートが重々しい音を立てて、ゆっくりと開いていく。
その先に広がっていたのは、湊の想像を遥かに超えて──普通の光景だった。
蛍光灯が煌々と照らすだだっ広いフロア。整然と並べられたスチール製のデスクの上には、パソコンや書類の山が置かれている。スーツやオフィスカジュアル姿の職員たちが電話をしたり、キーボードを叩いたり、コピー機の前で談笑したりしている。
それは、湊がテレビドラマなどで見たことのあるごく一般的な官公庁のオフィスそのものだった。
(ここが…遺物管理局…?)
もっと薄暗く、得体の知れない機械が並んでいるような秘密基地めいた場所を想像していた湊は、あまりの普通さに逆に混乱した。
しかし、よく見るとそこかしこに「異常」が紛れ込んでいることに気づく。
壁に貼られた『今月の遺物回収目標』と書かれたグラフ。
ホワイトボードに書かれた『クラスC"囁く鏡" 回収作戦 参加者募集』という告知。
職員の一人がコーヒーカップを置くコースター代わりに使っている、奇妙な文様の刻まれた石板。
ここは、異常を日常として処理する場所なのだ。
湊が呆然としていると、久遠が「おい」と声をかけた。
「そこのベンチで待ってろ。まずこいつをブチ込んでくる」
久遠は担いでいた鈴木店長をまるで荷物のように、近くにいた制服姿の職員に引き渡した。
「ああ、久遠管理官。お疲れ様です。こちらが例の?」
「ああ。クラスD【嘆きの蛇口】を利用してた張本人だ。ついでにロストしてたはずの【後悔の刃】も持ってた。金の流れとか、ナイフの入手ルートとかきっちり吐かせておけ」
「了解しました」
職員たちは手慣れた様子でまだ虚ろな目で何かを呟いている店長の両脇を抱えると、フロアの奥にある一室へと連れて行く。その扉には『第3聴取室』というプレートが掛かっていた。
扉が閉まる直前、湊は部屋の中にマジックミラーや壁に設置された無数のカメラが見えた気がした。
鈴木店長が連行されていくのを、湊は複雑な思いで見送る。
数日前まで自分に仕事を教えてくれていたあの人の良かったはずの店長。彼の人生はここで終わりを告げるのだろうか。
「おい、いつまで感傷に浸ってんだ。行くぞ」
戻ってきた久遠が湊の頭を軽く小突いた。
「お前の仕事がまだ残ってんだろ」
久遠はそう言うと、聴取室とは別の方向へと歩き出す。
彼はフロアの一角にある小さな会議室のような部屋の扉を開けた。中には長机とパイプ椅子が数脚置かれているだけだ。
「ここで報告書を作る。俺が口頭で言うから、お前はそこのPCに打ち込め」
久遠はパイプ椅子にどかりと腰を下ろし、足を組んだ。それはどう考えてもただ自分がキーボードを打つのが面倒なだけなのが見え見えだった。
湊はため息をつきたいのをぐっとこらえ、パソコンの前に座る。
こうして彼の人生で初めての、そしておそらく最も奇妙な「報告書」の作成が始まった。
「…で、潜入10日目。他のスタッフへの聞き込みにより、店長が厨房の奥から水を汲み特定の客に提供しているという証言を得た、っと…」
湊は慣れない手つきでキーボードを叩いていた。
目の前のパソコンには文化庁のロゴが入った、いかめしいフォーマットの報告書が表示されている。
一方、指示を出しているはずの久遠はパイプ椅子にふんぞり返り、足を組んだまま自分のスマートフォンをいじっている。時折、フッと鼻で笑ったりしているので、おそらく面白い動画でも見ているのだろう。
(…それだったら自分で書けよ!)
湊は内心で悪態をついた。口に出せば何をされるか分からないので、必死にその苛立ちを飲み込む。
そもそも、自分は今回の事件の被害者でもあるはずなのになぜ加害者の後始末を手伝わされているのか。理不尽極まりなかった。
湊がそんな怒りをキーボードに叩きつけていると、その時だった。
バンッ!
突然ノックもなしに会議室の扉が乱暴に開けられた。
湊は驚いて顔を上げる。
そこに立っていたのは、黒いパンツスーツを隙なく着こなした一人の綺麗な女性だった。
年は30代前半といったところだろうか。きつく結い上げられた髪と、理知的な眼鏡の奥で光る鋭い瞳が彼女の厳しい性格を物語っている。
女性はまず部屋の中の光景──サボっている久遠とパソコンに向かう湊──を値踏みするように睨みつけた。
そして、低いよく通る声で久遠に問い質した。
「──久遠。そこの子供はなんだ」
その声には明らかな棘があった。
久遠はその声を聞いた瞬間、心底面倒くさいものに出会ってしまったと言わんばかりに顔を歪めた。
彼はゆっくりとスマートフォンをポケットにしまうと、気だるそうに答える。
「…ああ、
「質問に答えろ。なぜ、部外者がこんな場所にいる? 規則違反だということは分かっているな?」
佐伯と呼ばれた女性は久遠の挨拶を無視し、冷たく言い放った。その威圧感は鈴木店長など比ではない本物の「力」を持つ者のそれだった。
「こいつは今回の【嘆きの蛇口】の件の協力者ですよ。まあ俺のパシリですけど……」
久遠はやれやれと肩をすくめながら説明した。
「報告書、本人に書かせた方が正確で早いだろと思って。俺、ああいう事務作業面倒なんで」
「貴様が面倒くさがりなのは今に始まったことではない。だが民間人を、それも未成年を許可なく施設内に立ち入らせることがどれだけのリスクを伴うか、理解しているのかと聞いているんだ」
佐伯は一歩、また一歩と久遠に詰め寄っていく。
久遠はその気迫にさすがに少しだけたじろいだように見えた。
湊はこの厳格な女性がおそらく久遠の上司か、それに近い立場の人間なのだろうと察した。
そして同時に、この面倒くさがりな男が唯一頭の上がらない相手なのではないかとも思った。
佐伯は冷たい視線を値踏みするように湊に向けた。
湊はその視線に射すくめられ、身動きが取れなくなる。
「…久遠。その子供の記憶処理を今すぐここで行え。その後、速やかに施設からつまみ出せ。これは命令だ」
記憶処理。
その言葉が湊の脳に突き刺さった。何をされるのかは分からない。だが、それが自分の存在をこの場所から、そしておそらくはこれまでの出来事全てから「消す」ための行為であることだけは直感的に理解できた。
(冗談じゃない…!)
湊が何か反論しようと口を開きかけた、その時だった。
「──それは出来ませんね」
静かな、しかし、はっきりとした拒絶の言葉が部屋に響いた。
声の主は久遠だった。
彼はいつの間にか椅子から立ち上がっていた。その表情からは先ほどまでの気だるげな雰囲気は消え、冷たく、研ぎ澄まされたような光を宿した瞳でまっすぐに佐伯を見つめている。
「こいつは俺の『協力者』です。今回の事件解決に多大な貢献をした。それに、今後も俺の『パシリ』として働いてもらうことになっている。記憶を消されては困ります」
その口調はあくまで敬語のままだった。
しかし、その言葉の端々には佐伯の命令を断固として拒否する強い意志とかすかな「圧」が込められていた。
佐伯は予想外の反抗に驚いたようにわずかに目を見開いた。
そして次の瞬間、彼女の表情はさらに厳しいものへと変わる。眼鏡の奥の瞳がより一層鋭く久遠を睨みつけた。
「…久遠。貴様私に逆らうつもりか?」
「まさか。俺は統括審議官の命令よりも、現場エージェントとしての俺自身の判断を優先すると言っているだけですよ」
久遠は臆することなくそう言い返した。部屋の空気が、張り詰める。
一触即発。
湊は二人の間に挟まれ、息をすることさえ忘れていた。このままでは自分を巡ってこの二人が本気で衝突してしまうかもしれない。
その張り詰めた静寂を突如として切り裂いたのは──
フロア全体にけたたましい警報音が鳴り響いた。
同時に天井に取り付けられた赤いランプが激しく点滅を始める。
『緊急事態発生! 第3聴取室にて重要参考人の容態が急変! 医療班、及び担当管理官は至急現場へ!』
冷静さを欠いたアナウンスがスピーカーから繰り返し流れる。
第3聴取室──それは先ほど鈴木店長が連行されていった部屋だ。
「チッ…!」
佐伯は忌々しげに舌打ちすると、湊のことなどもう頭にないといった様子で踵を返し、警報が鳴り響くフロアを走り出した。
久遠も「おい、お前も来い!」と湊に叫ぶと、その後を追う。
三人が第3聴取室の前にたどり着くと、そこにはすでに数人の職員が集まっていた。
部屋の扉は開け放たれ、中からはただならぬ気配が漂ってくる。
久遠が人垣をかき分けて中に入ると、そこに信じられない光景が広がっていた。
聴取用の机に突っ伏すようにして鈴木店長が倒れていた。
そして彼の口からはまるでインクのようなどろりとした黒い水がとめどなく溢れ出し、床に大きな水たまりを作っている。
その目は完全に白目を剥き、虚空を睨みつけていた。
「どけッ!」
佐伯が職員たちを押し退け、倒れている店長のそばに駆け寄った。
彼女は躊躇なく黒い水で汚れるのも構わずに、店長の首筋に指を当てる。脈を測ろうとしているのだ。
数秒の長い沈黙。
やがて、佐伯は静かにその手を離した。
そして振り返ると、そこにいる全員に聞こえるように、冷たく、そしてはっきりと告げた。
「…ダメだ。もう息はない」
鈴木店長は、死んだ。
遺物管理局という安全なはずの場所で、最も謎めいた形で。
彼の口から流れ続けるあの黒い水は一体何なのか。
【嘆きの蛇口】は確かに機能を停止させたはずだ。だというのに、なぜ。
湊は目の前のあまりにも異常な死を前に、ただ立ち尽くすことしかできなかった。
佐伯は次の瞬間にはもう死んだ男への興味を失ったかのように立ち上がった。
そして集まってきた職員たちにまるで床にこぼれたコーヒーを拭くように淡々とした口調で命令を下した。
「──処理しろ」
その一言で、職員たちは一斉に動き出した。
一人は特殊な防護服とガスマスクを装着し始め、もう一人は遺体袋のような黒く分厚い袋を準備している。
彼らの動きには一切の躊躇も動揺もない。この異常な死体の「処理」が彼らにとって何度も繰り返してきた、ただの「作業」であることが一目で分かった。
(処理…する…?)
湊はその光景を呆然と見つめていた。
処理とは、どういうことなのだろうか。然るべき手段で家族の元へ返し埋葬するのか。
それとも……この黒い水を流し続けるもはや人間とは呼べない「モノ」をゴミのように焼却でもするというのだろうか。
怖かったはずの男だ。自分を騙し、危険な目に遭わせた。
それなのに、湊の胸に込み上げてきたのは安堵や達成感ではなく、どうしようもない深い悲しみだった。
この人も元は普通のファミレスの店長だったはずなのだ。家族がいて、笑ったり、怒ったりする普通の人間だったはずなのに。
遺物に関わった……ただそれだけでこんな人間以下の「モノ」として誰にも悲しまれずただ「処理」されて終わっていく。
湊の目から涙が一筋こぼれ落ちた。
その時だった。
ぽん、と。
大きな手が湊の肩に優しく置かれた。
振り返ると、そこには久遠が立っていた。
「…報告書の続き、書くぞ」
その声はいつものような気だるさや、人を馬鹿にしたような響きはなかった。不器用で、ぶっきらぼうではあったがなぜかいつにも増して優しく感じられた。
久遠は湊が何を見て、何を感じているのか全てを理解しているようだった。
久遠は湊の肩に手を置いたまま、部屋の入り口に立つ佐伯の方を向いた。
「…いいですよね? こいつ、もう精神的に限界でしょう。続きは明日じゃダメですか」
佐伯はこちらを振り返ることもなく、冷たく言い放った。
「好きにしろ。だが、その子供の処遇は何も保証しかねんぞ。明日の朝、私がもう一度判断を下す」
その言葉は事実上の最後通告だった。
しかし、久遠はそれに対して何も返事をしなかった。
「行くぞ」
彼はただ、それだけ言うとまだ呆然としている湊の腕を半ば強引に掴んだ。
そしてこの異常な死の現場から湊を引き離すように、会議室へと引っ張って連れて帰るのだった。
会議室に戻っても、湊の頭は先ほどの光景でいっぱいだった。
黒い水を流して死んだ店長。それをゴミのように「処理」しようとする職員たち。そして何も感じないかのように冷たく命令を下す佐伯。
もやもやとした言葉にならない感情が胸の中で渦巻いていた。
それでも湊は目の前のパソコンに向かい、報告書の作成を再開した。
カタ、カタ、と、重いキーを叩く。
しかし、その指は何度も止まった。集中できない。文章が頭に入ってこない。
「…おせーよ」
不意に隣から声がした。
見ると、久遠が心底面倒くさそうにこちらを睨んでいる。
そして彼は、湊が何か言う前にその椅子を、ぐい、と後ろに引いた。
「どけ。俺が書く」
「え…」
「見てらんねえんだよ。お前はそこの隅にでも座ってろ」
久遠はそう吐き捨てると、湊が座っていた椅子にどかりと腰を下ろし、驚異的な速さでキーボードを叩き始めた。
カタカタカタカタ、と、先ほどまでの湊とは比べ物にならない軽快なタイピング音が静かな部屋に響き渡る。
湊は言われるがままに部屋の隅のパイプ椅子に腰掛けた。
(結局自分で書くんじゃねえか…)
あの状況から自分を気遣って連れ出してくれたのだろう。その不器用な優しさを感じつつも、あまりの理不尽な展開に湊は思わず心の中で少しだけ笑ってしまった。
カタカタ、カタカタ…。
キーボードの音だけが、無機質に響く。
しばらくそんな時間が続いた後、不意に久遠がキーボードを打つ手を止めずに、ぽつり、と語り始めた。
「…この世界が、いつからこうなっちまったのか誰も知らねえ」
その声は湊に語り掛けるというより、彼自身の独り言のようだった。
「神の気まぐれか、悪魔の戯れか。人間の歪んだ欲望が形になったものなのか。どういった原理でただのガラクタが世界を壊せるほどの『遺物』になるのかも分かってねえ」
久遠は淡々と、しかしどこかやりきれないような響きを込めて言葉を続ける。
「だが、それでも俺たちはそいつらを回収し、保管し、解析する。そうやって何も知らない連中が当たり前に明日を迎えられるように平和ってやつを守る。それが遺物管理局の仕事だ」
湊はその言葉を黙って聞いていた。
いつも面倒くさそうに不真面目な態度ばかり取っているこの男が、初めて見せた仕事への矜持。
(…そうか。この人も…)
こんな態度だけど、久遠も心の底では平和を願ってこの危険な職務に就いているんだな、と。湊は彼に対する見方を少しだけ改めた。
そして、なんとなく聞いてみたくなった。
「…どうして、この仕事に就いたんですか?」
その言葉に久遠の指が、ぴたり、と止まった。
カタカタと響いていたタイピング音が消え、部屋に重い沈黙が落ちる。
しばらく、無言の時間が続いた。
やがて、久遠はこちらを振り返ることもなく、ただ一言だけぽつりと呟いた。
「…金払いが良いからだ」
「え…?」
予想外すぎる言葉に湊は固まった。平和のためでも、誰かを守るためでもない。ただ、金のため。
久遠はそれ以上何も語らなかった。ただ再び猛烈な勢いでキーボードを叩き始める。
その横顔は先ほどまでとは違う、何か、深く、そして暗い影を落としているように湊には見えた。
それからどれくらいの時間が経っただろうか。
久遠はエンターキーをタンッ! と力強く叩くと大きく一つ伸びをした。
「…よし、終わりだ」
彼はプリンターから吐き出された数枚の報告書を雑にまとめると、椅子から立ち上がった。
「お前今日はもう帰れ。俺が上まで送ってやる」
「あ…はい」
湊は言われるがままに立ち上がる。
久遠は会議室の扉を開け湊を促した。来た時と同じ普通のオフィスのようなフロアを横切り、あの長い長い階段を上っていく。
地上へと続く文化庁のトイレの扉の前で久遠はふと立ち止まった。
「明日連絡する。お前の処遇がどうなるか」
その声はまたいつもの気だるげな響きに戻っていた。
「もし佐伯…統括審議官がお前の記憶を消すって判断を下しても、まあ安心しろ。ただこの数日間の遺物とか管理局に関する記憶が綺麗さっぱり消えるだけだ。痛みも苦しみもねえよ。お前はまた退屈な日常に戻るだけだ」
久遠は慰めているのか脅しているのか分からない口調でそう言った。
ただ、遺物に関する記憶が消えるだけ。その言葉は一見救いのように聞こえる。
しかし、この男が言うと全く安心などできなかった。何かもっと大事なものまでごっそりと奪われてしまうような、そんな得体の知れない恐怖があった。
「…じゃあな」
久遠はそれだけ言うと、湊に背を向け再び地下へと続く階段を降りていってしまった。
湊は一人がらんとした文化庁の廊下に取り残される。外に出ると、ひんやりとした夜の空気が火照った頬に心地よかった。
数時間前まで自分はファミレスでバイトをするただの高校生だったはずなのに、今は自分の記憶が明日消されるかもしれないという状況にいる。
湊は空を見上げた。明るい夜空には星一つ見えなかった。
彼は重い足取りで自宅へと続く道をただとぼとぼと歩き始めた。
重い足取りでようやく自宅のドアの前にたどり着いた。
鍵を差し込み回す。ガチャリという無機質な音。
「ただいま…」
誰に言うでもなく呟きながら家の中に入った。
すると、玄関に見慣れた女性もののパンプスが置かれていることに気づく。
……どうやら、もう母親は帰ってきているらしい。
湊は今日の出来事をどう説明すればいいか頭を悩ませながら居間の扉をそっと開けた。
「ただいま…」
もう一度、今度ははっきりとそう言うと、ソファに座ってテレビを見ていた母親がこちらを振り返った。
「あら、おかえりなさい」
それだけだった。
こんな時間まで帰ってこなかった息子に対してどこに行っていたのか、何かあったのかという問いかけはない。その声には心配の色も怒りの色もなかった。ただそこにいる人間を認識しただけの空虚な響き。
その無関心さが湊の胸にずしりと重くのしかかった。
湊はその複雑な気持ちを押し殺し、ただ「うん…」とだけ短く返した。
これ以上何かを話す気力も起きず、自室に上がろうと湊がリビングの階段に足をかけたその時だった。
母親がテレビに視線を戻したまま、思い出したように言った。
「ああ、そういえば湊。お父さん今日もまだ帰ってこないそうよ。また急な出張かしらねぇ…」
その言葉に湊の足がぴたり、と止まった。
心臓が氷水で締め付けられたように冷たく、そして痛む。
湊は母親の方を振り返ることができなかった。
「……そっか」
絞り出すように、ただそれだけを言い返すのが精一杯だった。湊は逃げるように階段を駆け上がった。
がらんとしたリビングにはテレビの音だけが響いている。
その部屋の隅には小さなお仏壇が静かに置かれていた。
中央には一枚の遺影。
優しそうに微笑む一人の男性の写真が飾られている。
そしてその下には彼の名前がはっきりと記されていた。
【影山 渉】
お読みいただきありがとうございました!