「うわ。お腹寒い」
休日。
バデーニと演劇を観に行く約束の日だ。
着飾ったドゥラカが鏡の前で頭を抱えた。
変装のためと、劇場へのドレスコードを考えて、友人に大人っぽい服を借りたのだ。
露出度低めでお願いしたが、体にフィットしたTシャツに、パンツスタイル。
いつも結んでいる髪は下ろし、化粧も少しした。
ドゥラカの姿を見たシュミットが、驚愕した。
「ヘソが出ている」
手に持ったカップが震え、中身が今にも溢れそうだ。
「お友達と演劇を観に行くんですって」
ヨレンタがドゥラカの髪を整えながら、シュミットに言った。
「バデーニさんは、お友達じゃないかな」
「また男の名前……まさかデ」
「いってきまーす」
待ち合わせに現れたバデーニを見て、ドゥラカは仰天する。
黒のロングコート。
シックなデザインのシャツ。
今日は眼帯を着けず、黒いレンズの眼鏡であった。
バデーニの私服はセンスがよく、まるでモデルのような佇まい。
「売り出したら儲かりそう」
思わず写真を撮ってしまう。
どの画角からとっても様になる。
「そればっかりだな、君」
「モテたでしょ?バデーニさん」
「私は聖職者だ。司祭は妻帯を禁止されている。一生独身だ」
ドゥラカがポカンと口を開ける。
「え?じゃあずっと一人?」
「だな」
「オクジーさんはどうなるんです?」
「彼は今でこそ雑用なんてやってるが、いずれ教会を出て自分の人生を歩むことになるだろう」
「……寂しくないんですか?」
「彼には彼の人生があるからな」
「……大人ですね。私、今の関係はずっと変わらないんだと思ってました」
「そんなものは無い。……さあ、時間だ」
バデーニが言い切る。
開場時間を迎え、人の列が動き出す。
フライのいる演劇場へ足を向けた。
建物の中は、時代を感じさせた。
擦り切れた絨毯は色を失うほど踏まれ、観劇へ向かう人間を見続けてきたのだと思わせた。
劇場の席はほとんど埋まり、多くのファンが詰めかけているのが分かる。
照明が落とされ、ブザーが鳴ると、ざわめきが水を打ったように静まり返る。
舞台の上。
ライトに照らされて登場したのは、前にフライといた女性。主演のようだ。
演者の中にフライの姿は無い。
その時。
舞台の袖から響く声。
「怪物がいたぞー!」
紛れもなく、フライの声。
緊張していたのか、声が裏返っていた。
演劇というものを初めて見たが、思っていた以上に心が揺さぶられる。
ドゥラカは、泣く場面でも無いのに、目頭が熱くなっていくのを感じた。
上演が終わり、カーテンコールで演者たちが舞台の上に現れた。
バデーニがドゥラカの肩をたたく。
一番端っこにフライの姿があった。
衣装はなく、黒い上下。
裏方の仕事をしていたのか。
よく見た顔なのに、なぜか遠く感じた。
翌日。
登校してきたドゥラカの前に、フライが現れた。
「なんのつもり」
背に冷や汗が流れる。
「……バレてた?」
「そりゃ、あんな派手なの連れてればね」
モデルのような姿に、スカーフェイス。
バデーニを連れて行ったことが裏目に出たらしい。
「……あんな格好までして」
フライの表情の中には、いつもの無表情と呆れ半分、そして、傷ついた目。
「っごめん」
咄嗟に謝るも、フライは謝罪を受け取らず背を向けた。
ドゥラカは自分の部屋に着くなり、ベッドに突っ伏した。
今日は教会に足を向ける気も起きず、学校が終わってすぐ家に帰ってきてしまった。
ベッドの横で、テディベアのつぶらな瞳がドゥラカの顔を覗き込んでいる。
「……はあ」
自己嫌悪。
軽はずみな行動だった。
なんであんなことしちゃったんだろう。
頭の中を後悔と言い訳がぐるぐる回る。
階下でヨレンタが顔をのぞかせていた。シュミットも、心配そうな視線を投げかけ、何か言いたげだった。
心配してくれてるんだろうな。
しかし、今のドゥラカにそれ以上を考える余裕が無かった。
二人は何も言ってこない。
示し合わせているのかもしれない。
手元に振動を感じて、顔をあげる。
携帯にメッセージの着信が表示された。
宛名はレヴァンドロフスキ。
「……」
中身を見ずに、伏せる。
居心地のいい場所を自分の手で壊してしまった。
そう思うと涙が止まらなくなり、一晩中そうして泣いた。
翌日。
泣き腫らした目のままリビングに降りる。
「……今日、学校休みます」
はじめてのことだった。
ヨレンタは何も言わずに、静かに頷いた。
シュミットは視線をドゥラカに送るが、再び新聞に戻す。
そのまま自分の部屋に帰ろうとするドゥラカの背中に、ヨレンタは声をかけた。
「借りてきた服、洗っていい?」
ヨレンタの手には、友人から借りた服。
色落ちするから白いものと一緒に洗ってはダメと聞いていたから、白い服の多いシュミットのものと一緒にしてはいけないなと思い、呟くように言った。
「……シュミットさんの服と一緒に洗わないでください」
そう言って、また階段を登って行った。
シュミットの、カップを持つ指が、また震えている。
ドゥラカが仮眠をとってリビングに降りると、一人だった。
ヨレンタもシュミットも仕事で家を出ているのだろう。
無音だ。
静まり返った家の中は別の場所のよう。
食べなかった朝食にはラップがかけて置いてある。
朝食のトーストを少しだけ齧り、その後着替えて家を出る。
ふらりと歩いて、いつの間にか足は商店街の端に向かっていた。
フライの通う演劇場を、遠目から眺める。
今頃、彼らは学校で午後の授業を受けているのだろう。
ポン。
不意に肩を叩かれ、飛び上がる。
補導か。
しかし、背後にいたのは見知らぬ女性。
制服を着た警官でないことに安堵しつつ、振り返る。
化粧っ気の無い顔に、地味な服装。
「フライの友達でしょ?」
掛けられた声に聞き覚えがあった。
「……劇場の」
演劇場で、主演をしていた女性。フライの隣で笑っていた、あの。
女性がニコッと笑う。華のある笑い方をする人だ。
化粧や衣装をが変わると別人である。
しかし、印象的な声は耳に残ったまま。
「……あの。舞台、すごくよかったです」
ドゥラカの口から、思わず感想が流れ出た。
舞台を見終わった後、感動をバデーニと分かち合いたかったが、彼は「約束は演劇を観に行くことだけだっただろ」と言って、さっさと帰ってしまったのだ。
ドゥラカは、物語の構成から、舞台の装置に至るまで。そして何より演じている人たちの指の先まで役になりきる演技力に惜しみない賞賛を送った。
ドゥラカは覚えている限りを、事細かに伝える。
言葉が次々に溢れた。
ドゥラカが話し終えるまで、女性は笑って聞いていた。
「ありがとう!初めての観劇で、そこまで見えてたの?すごいね!」
女性はドゥラカの手を取って握手する。
「私、アンナ。私も、舞台からあなたのこと見てたよ」
「ええ?」
「ずっとキラキラした目で私たちを見てくれてたもの」
「あんな暗い中で?」
「舞台からは良く見えるの。見てみる?」
アンナは握手のままの手を引いて、ドゥラカを誘った。
劇場の中はひんやりとしていて、先日とは打って変わって廃墟のような静けさが満ちていた。
人がいないと、古めかしさが際立つ。
「ボロボロでしょ?前のオーナーが借金を苦に夜逃げしちゃって。私が引き継いだんだけど、建物の修繕にまでお金が回らないのよね」
アンナが鍵を開けながら、なんて事の無いように話す。
ロビーを横切ると、役者たちが出入りするであろう扉から、裏方へ入れてくれた。
今日は稽古も休みで、誰もいないという。
「そこ、足元気をつけてね」
そう言うと、バチン!と大きな音を立てて電源を入れる。
「……わあ」
ゆっくりと、光が差す。
ドゥラカは舞台に立っていた。
客席には照明が当たっていないのに、よく見える。自分たちは、確かあのあたりに座っていた。
ぐるりと見渡す。
これがフライの見ていた景色なのだろうか。
「……」
胸の奥が、すっと冷える。
同時に、静かな熱が灯った。
ドゥラカが一瞬だけ表情を曇らせたのを見て、アンナは瞬きをする。
段々に並ぶ座席。擦り切れた絨毯。闇の中に沈む天井。
「どう?すごいでしょ」
アンナは舞台の端に立ち、機械にもたれかかりながら言った。
緞帳や仕掛けは全て手動なのだろう。
様々なタグのついたハンドルが並んでいる。
「ここに立つとね、客席の表情が全部わかるの。
泣くところも、息を止めるところも。
声を出さなくても、ちゃんと伝わってくる」
ドゥラカは、何も言えずに頷いた。
あの声。
フライの、裏返った、けれど、怪物を見つけた叫び声。
フライは、ここで。
この場所で、誰かの物語を支えていたのだろうか。
舞台の上に立つと、不思議と勇気が湧いてくる。何かに後押しされるような、静かに満たされていくような。
「……ここが、フライの居場所なんですね」
アンナは少し驚いた顔をしてから笑った。
「あの子、初めて舞台を観に来た日に楽屋に来て、劇団に入れてくれって頼んできたの。まだ学生だから断ろうと思ったんだけど」
アンナはハンドルの一つを握り、息を吐く。
「舞台に感動したことを熱心に話してくれてね。……さっきのあなたみたいに。
情熱に負けて、OKしちゃった」
「……フライが。そうなんだ……」
ドゥラカは、舞台の中央から一歩下がった。
そして、深く息を吸う。
「教えてくれて、ありがとうございました」
「こちらこそ。見てくれて、ありがとう」
ニコッと笑い、アンナが軽い足取りで舞台の上を歩く。
「……私が来たこと、フライには内緒にしててもらえますか」
「……分かった」
アンナは頷く。
照明が落ちる。
劇場が静けさに包まれた。
外に出ると、夕方の光が町を染めていた。
ドゥラカは、少しだけ背筋を伸ばして歩き出した。