下校時刻を過ぎると、職員室には小さな安堵の空気が生まれる。
今日も何事もなく、一日を終えることができた。
とはいえ、明日の授業の準備が残っている。
ボルコはクラスに新たに加わった少女の名前を名簿に追加した。
聡明そうな子だ。しかし、クラス一の問題児レヴァンドロフスキと、扱いにくい優等生フライと早速関わってくるとは。
胃が、キリ、と締め付けられるように痛む。
「大丈夫ですか、ボルコ先生」
顔を顰めたボルコを見て、隣の席の教員が声をかけた。
「……いや、大丈夫です」
つい、と横から何かが差し出される。
甘いココアのインスタントスティックだった。
「や、ありがとうございます……フベルト先生」
一組の担任、フベルトは軽く会釈をして自分の分のココアを飲んでいる。
「どうでしたか、転校生は」
「それが、早速よりにもよってやんちゃな子らとつるみ
出しまして。気が気でないです。
フベルト先生のクラスはご指導が行き届いていて、落ち着いているから羨ましい」
「……いや、あれは群れの主導者がいるだけです」
「はあ」
フベルトが読みにくい表情の中に、わずかに浮かべたうんざりした表情に気付かぬまま、ボルコもマグカップに甘いココアの顆粒を注いだ。
「次の単元の、相談なんですが」
「ああ……「私の家族」でしたね。うちのクラスは家庭科の授業中に取り上げます。書ききれなかったら宿題に」
「うちもそうしましょう」
教材を用意する手を止めず、しかし甘いミルクココアの香りが、胃の痛さを和らげた。
「すみませーん。搬入作業させていただきます」
職員室の入り口から、作業服の男が顔を出した。
「ご苦労様です。では、倉庫の方に」
教頭が声をかけている。
「……最近、業者の出入りが多いですね」
フベルトが何気なく呟いた。
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下校後、ドゥラカが家に着くと、ヨレンタが出迎えた。
「おかえりなさい」
「……ただいま」
シュミットは仕事で不在だと、ドゥラカが聞く前に教えてくれた。
ドゥラカがこの家族に感じる違和感は、日に日に大きくなっていく。
例えばこの夫婦。
寝室は別。
会話は事務的。
仲が悪いわけでは無い。
お互いを見る目は優しげである。
ただ、どこか、役割を演じているような気配がする。
自分がこの家に迎え入れられたことには、何か理由があったのでは無いか。
そう考えるようになると、その理由が気になり始めてしまい、この家の全てのことが怪しく感じられてくる。
「……ドゥラカさん?」
「あ、すいません。何でしたっけ」
ヨレンタに話しかけられ、ハッとして顔をあげる。
食卓机に向かい合わせに座り、おやつのクッキーを差し出しながら、ヨレンタが尋ねた。
「学校はどうだった?お友達とか」
ドゥラカが級友の顔を思い浮かべる。
「……まあ、話せる人はいます」
「それは、良かったわね」
良かった、のだろうか。
ドゥラカは今日会った、過去に関わりのある人物たちの顔を思い浮かべる。
レヴァンドロフスキに、フライ。そしてボルコ。
レヴァンドロフスキじゃないが、運命というにはあまりにも偶然が重なりすぎた再会。
「……そうだ、ヨレンタさんやシュミットさんって、何の仕事されてるんですか?」
ホットミルクの入ったカップを両手でつつみ、フウフウと息を吹きかけながらドゥラカが問うた。
このカップは、ドゥラカが選んで買ってもらったものだった。
クマのイラストがプリントされている。
「……」
「……?」
急に黙り込んでしまったヨレンタに、ドゥラカが訝しんで声をかける。
「ヨレンタさん?」
「あ、ああ、ごめんなさい。ええと、仕事だったわね」
慌てて取り繕うも、視線が迷う。そんな姿のヨレンタを見るのは初めてだった。
「はい。学校の授業で家族のことを作文にするから、聞いてきなさいって言われて」
「そうだったのね。
……私もシュミットも、調査員をしているの。仕事の関係上、詳しくは言えないんだけれど」
「同じ職場なんですか?」
「そうね」
「職場恋愛だったんですか?」
「……」
ヨレンタが固まってしまった。
まずいことでも聞いてしまったのだろうかと、首を傾げる。
その時、玄関の開く音がした。
ガサガサと何やら荷物の音をさせているシュミットのところへ、ヨレンタと共に向かう。
「おかえりなさい、シュミットさん」
「ただいま、ドゥラカ君。土産だ」
ポンと渡されたのは、一抱えもあるテディベアだった。首に深緑のリボンを巻いている。
「ヨレンタさんにはこちらを」
恭しく花束を差し出す。
「……おかえりなさい、シュミット。どうしたの?」
「まあ、たまにはと思って」
シュミットは咳払いをひとつして、靴を脱ぐ。
ヨレンタは花束を受け取りながら、困ったように微笑んだ。
テディベアのつぶらな瞳がドゥラカを映す。
どこか噛み合わない夫婦。
それでも、二人の間には確かに柔らかな空気が流れている。
考えすぎかな。
ドゥラカはテディベアを抱えたまま、二人を見比べる。
「……あの」
「どうした?」
「いえ。その、ありがとう、ございます」
そう言って、赤くなった顔をテディベアの後ろに隠した。
翌日。
昼休み。
フライとレヴァンドロフスキに呼び止められたドゥラカは、倉庫の裏手に連れて行かれていた。
「なあ、これ見てくれ」
倉庫の小さな窓からは、薄暗い中に算数セットの箱が並んでいるのが見えた。
レヴァンドロフスキがさらに奥を示す。目を凝らすと、箱が開いて中身が溢れている。
「……?」
「昨日までは無かった」
「何でそんな事知ってんの?」
「校内の早朝パトロールは俺の日課だぜ」
「他にやることあるだろ」
フライの冷たい目を受けても、レヴァンドロフスキは動じない。
その時。
「好奇心は猫を殺すよ」
冷たい廊下に、高い声が響いた。
「お前は」
レヴァンドロフスキの目から、冗談めいたいつもの色が消えていた。
「一組の……ラファウ!」
「え、誰」
「隣のクラスの学級委員長で、六年間同じ担任に持ち上がられ続けてるやばい奴」
フライがドゥラカに耳打ちする。
「やばくない。僕に着いて来れる担任がフベルト先生だけだったということ」
やばい奴だ。
ラファウが薄暗い倉庫裏に足を踏み入れた。
後ろ手に組んだ姿勢のまま、ドゥラカたちの目の前をゆっくりと歩く。
「確かに、僕もこの倉庫の中の物が気になっていたところだよ」
「他に、趣味見つけた方がいいよ」
フライの冷たい言葉を聞き流し、ラファウが体操服の上着に手を入れる。次は体育らしい。
「僕の手にかかれば、事務員さんを懐柔することなど朝飯前」
ラファウの手には鈍く光る銀色の鍵が握られていた。倉庫の鍵のようだ。
レヴァンドロフスキとフライは驚愕のあまり目を見開く。
「なん、だと……!」
「事務のノヴァクさんはこの学校の中で最強のはず」
関わってはいけないタイプの優等生だ。
鍵穴に吸い込まれていく鍵を眺めながら、ドゥラカは冷めた目で目の前の光景を見つめる。
男子たちが息を呑み、扉が開かれる瞬間を待つ。
無情にも、始業五分前のベルが鳴る。
「おっと」
ラファウが手を止めて、鍵を上着にしまった。
「僕のクラス、授業前集合最優秀クラスなんだ。じゃあ」
そう言ってさっさと立ち去ってしまう。
物言いたげなドゥラカたちを残し、ラファウが一度だけ愉快そうに振り返る。
「放課後に、また」